ボンネット・トラックの荷台に腰を下ろしていたユタラは、二時間以上走っているのに砂しか見えないタール砂漠の風景を眺めながら物思いに耽っていた。
デリーでは感じられなかった郷愁の念が身体の奥底から湧き上がってくる。
頭上に降り注いでくる強い日差し。
意志を持っていそうな強風の音。
どこまでも果てしなく続いている砂の海。
喉の渇きが促進されるほど気温が高く、もうすぐ日が落ちるというのに熱風とともに大量の砂が髪や服にまとわりついてくる。
これでは思い出したくなくとも思い出してしまう。
あのときの自分にとって、目の前の簡素な光景こそが世界のすべてだった。
難民キャンプで先天的な遺伝病を発症してしまったこと。
正体不明の武装ゲリラに誘拐されてタール砂漠に連れてこられたこと。
子供兵の選別と娯楽を兼ねた〈競走馬〉を無理強いさせられたこと。
それでも唯一の救いだったのは〈発現者〉としての能力を無意識に開花させたさい、タール砂漠のUMAの噂を聞きつけた〈青い薔薇〉のエージェントに助けられたことだ。
そしてスカウトの役目も兼ねているエージェントの眼鏡に適ったユタラは、ある条件を結んだ上で〈青い薔薇〉に入ることを決意した。
〈青い薔薇〉の本部がある日本へ向かう際には姉と慕った舞弥も連れて行くという条件を突きつけたのである。
あれから九年。
正直、任務とはいえ二度とここへは来たくなかった。
このタール砂漠には嫌な思い出が多すぎる。
しかし〈青い薔薇〉の命令は絶対だ。
特に〈青い薔薇〉のお陰で第二の人生を歩んでいるユタラにとって、〈青い薔薇〉の命令を拒否することは自殺に等しい。
たとえ過去の忌まわしい記憶が蘇ってくる因縁の地であろうとも、〈青い薔薇〉の任務ならば私情を捨てて足を踏み入れる。
それがプロのエージェントであり、組織に属する〈発現者〉として生きていくということなのだから。
(そうさ。僕たちは任務として来たんだ。過去の出来事は関係ない)
ユタラはエージェントの自覚を再認識させ、コンバット・ベストの胸ポケットに詰めていたパチンコ玉を一つだけ取り出して口に含んだ。
「なあ、UMAが宇宙から来たって話を知っているか?」
パチンコ玉を飲み込んだとき、不意に一人の男が軽快な口調で喋り始めた。
百八十センチを超えている大柄の白人だ。
その白人は特定の誰かにではなく、どうやら自分以外の人間たち全員に話題を振ったようである。
「UMA? UMAって世間を賑わしている人食いUMAのことか?」
白人の話題に食いついたのは、白人の対面に座っていた黒人だ。
身長は低く横幅が広い酒樽のようなずんぐりとした体型をしている。
「おうよ、その人食いUMAの話さ」
白人は人差し指と中指の腹を擦り合わせてスナップ音を鳴らした。
「十数年前に観測史上最大の太陽フレアが起こったことは知っているよな? 強力な磁気嵐が地球に降り注いで世界中が混乱した事件だ」
白人は流暢に続ける。
「磁気嵐ってのはEMP兵器みてえな機械制御を狂わす厄介な現象さ。そのせいで地球上の各都市で電気や通信系統のトラブルが続出。風の噂によると、磁気嵐の対応に遅れた後進国では停電の被害で病院に入院していた重症患者が死にまくったらしい。だが、本当の恐怖は機械トラブルよりも映画に出てくるような化け物がこの世に現れたことだった。おい、そこの変な髪色をした小僧。お前にはわかるか? 磁気嵐が地球に降り注いだことと、人を食らうUMAが出現するようになった因果関係がよ」
「僕ですか?」
ユタラは困惑した顔で自分自身に人差し指を突きつける。
「変な髪色の小僧っていったらお前しかいねえだろうが」
確かにボンネット・トラックの荷台に小僧は一人しかいない。
そもそも今回の任務に当たるレンタル・ソルジャーの中で十代の男女は自分と舞弥だけだ。
「まあ、そんなことはいいから答えろよ。どうして磁気嵐が原因で人食いUMAなんていう化け物が世界中に現れるようになったと思う?」
ユタラは悩んだ振りをしたあとに「わかりません」と諸手を上げた。
もちろん嘘である。ユタラは一般人が人食いUMAと恐れる生物の正体を知っていた。
〈発現者〉のように自分の能力をコントロールできず、常に変態したまま生命活動を行っている先天的遺伝病患者の成れの果てだ。
そんな彼もしくは彼女たちは人食いUMAと恐れられているが、別に人間を主食としているわけではない。
野生の肉食獣が人間を餌と見ることがあるように、たまたま発現した生物タイプが雑食系だったので人間も襲っているのだろう。
白人はユタラの演技も見破れずに得意げな顔で鼻を鳴らした。
「何だ知らねえのか。そんじゃあ、このホックス様が懇切丁寧に教えてやる。人工衛星の一つには人間を人食いUMAに変えるウィルスが冷凍保存されていたのさ。そして観測史上最大の太陽フレアで大量の磁気嵐が発生したとき、当然のことながらウィルスが冷凍保存されていた人工衛星にも不備が生じて地球に落下してきたんだよ。そんでこの世に人間を食らうUMAなんていう化け物が現れるようになったのさ」
「へえ……」
これにはユタラも笑いを通り越して呆れてしまった。
ホックスと名乗った白人は、人工衛星や隕石について調べたことはなかったのだろうか。
ユタラは違う。
〈青い薔薇〉に素質を見出され日本へ来てからというもの、薬学や遺伝学の講義と武術鍛錬以外の時間は各国の歴史から最先端の宇宙工学まで幅広く勉強していた。
中でも隕石や古代生物については自分の能力に関係ある事柄だったので、それこそ並々ならぬ情熱を注いで勉強したものだ。
それゆえにユタラは、胸中でホックスを嘲笑った。
隕石とは一般的に宇宙空間を浮遊している大小無数の石のことを指す。
そして昔も今も宇宙から落下してくる隕石があるとニュースに取り上げられることが多い。
それは地球に落下してくる隕石の大半が海に落下するか、大気圏突入時に蒸発して跡形もなく消滅するからだ。
それでも塵や米粒並みの隕石に限っては、毎日二十五万トンも地球に降り注いでいるという。
だからこそ、地表に到達した隕石が確認されると話題性が生まれる。
大気圏摩熱に耐え抜いた隕石の落下は非常に危険であり、宇宙から超高速で飛来してくる隕石の衝撃波の威力は桁外れだからだ。
仮に直径三十メートルほどの隕石が地表に超高速で衝突した場合、落下地点から半径三十キロメートル内に住んでいる生物は全滅するだろう。
大気圏を突破した直径三十メートルの隕石が地表に衝突した際の衝撃力は、TNT爆薬に換算すると約十五メガトン。
広島原爆の実に九百四十倍に相当する破壊力があるからだ。
だとするなら、ウィルスが人工衛星とともに落下してきたという話には信憑性がない。
磁気嵐のせいでウィルスが冷凍保存されていた人工衛星に不備が生じたのならば、オートシステムに頼って減速しながら着陸することも不可能なはず。
つまり地表に落下した時点で人工衛星もウィルスも木っ端微塵に消し飛ぶことを意味している。
それもさることながら、白人の過去に起こった太陽フレアの話自体が大げさすぎる。
かつて観測史上最大の太陽フレアが発生したのは事実だが、結果的に磁気嵐は地球から大きく逸れ、すでに打ち上げていた人工衛星や探査機に被害が遭った程度ですんだと何かの本で読んだことがある。
そうでなければ世界中の電力網が破壊されて天文学的な被害と文明の衰退が起こり、この土地で第四次印パ戦争が勃発することもなかったはずだ。
おそらく、ホックスは聞きかじりの知識を鵜呑みにしまっているのだろう。
とはいえ、ここで白人の知識の浅さを馬鹿にするほどユタラは空気の読めない少年ではなかった。
こういった手合いの自慢話は適当に同意して軽くやり過ごすことが吉だということは心得ている。
ユタラは笑みを崩さずホックスに喝采を送った。
「UMAの出現の裏にそんな理由があったとは知りませんでした。やっぱり場数の違いは知識の違いにも繋がってくるんでしょうね。いい勉強をさせてもらいました」
「いいってことよ。まあ、お前も俺みたいなプロのレンタル・ソルジャーになりたかったら幅広く勉強しろってことだ」
ユタラは辟易しながらも「そうですね」と肯定しようとした。
そのときである。
「人間を人食いUMAに変えるウィルスが人工衛星に冷凍保存されていた? しかも磁気嵐のせいで地球に落下って……馬鹿じゃないの」
突如、場の空気を乱したのはタール砂漠に入ってから口を閉ざしていた舞弥だ。
「そんな話は何の根拠もない俗説に決まっているじゃない。大体、誰が人間をUMAに変えるようなウィルスを人工衛星に冷凍保存して飛ばしたのよ? それに磁気嵐で人工衛星に不具合が生じたのなら、ウィルスはどうやって生き延びたのかしらね。宇宙の飛来物が大気圏を突破するときの速度は秒速十五キロメートルだっていうのに」
「そ、それがどうしたってんだ?」
ホックスは言葉に詰まりながら舞弥を睨みつける。
「あんた、秒速十五キロメートルがどれほどの速さか理解してないでしょう。いい? 秒速十五キロメートルって言うのは第一宇宙速度の約二倍。マッハにすれば五十三よ。そんな速度で人工衛星が地表に衝突したらどうなるかって聞いてんの」
これにはホックスも反論できなかった。
戦闘機の最大速度を二十倍以上も上回る数字を聞かされたことで、ようやく自分の話に信憑性がないことを実感したに違いない。
「疑問点なら他にもあるわよ。そもそもウィルスはどうやって生まれたの? 言っておくけど昔から人知れず存在していたというのはナシだからね。神話や民間伝承に登場する怪物たちが実はウィルスのせいでUMAになった人間と主張するのもナンセンス。本当にそんなウィルスが大昔から実在していたのなら、ペストやインフルエンザが発生したときよりも大きいパンデミックを起こしているはずだから」
「舞弥、もうそれくらいでいいじゃない。UMAのことなんて今は関係ないじゃないか」
ユタラが慌てて仲裁を買って出たのも当然である。
戸惑うホックスに質問の矢を浴びせた舞弥の様子が極端におかしかったからだ。
また売り言葉に買い言葉的に舞弥が〈発現者〉のことをうっかり漏らしてしまったら目も当てられなかった。
〈発現者〉という存在を生み出してしまった組織に属している以上、自分たちの口から〈発現者〉についての正確な情報を第三者に与えることは禁則中の禁則。
もしも〈青い薔薇〉の耳に入ったら始末書程度では絶対にすまない。
「そこのボウズの言うことも一理あるな。俺たちは別にUMAを捕獲するために砂漠くんだりまで来たわけじゃない。ほれ、お目当ての場所が見えてきたぜ」
意外な助け舟を出してくれたのは、ホックスの対面に座っていた黒人だった。
ユタラは黒人が指で示した方向に視線を投げる。
舞弥とホックスに意識を向けていたので気づかなかったが、ボンネット・トラックの荷台からは目的地の油田施設が視認できるようになっていた。
だが、見えたのは油田施設だけではない。
機銃が搭載されていた何台もの軍用車両、他にもマスコミの所有物と思われるマイクロバスが何台も視界に飛び込んできた。
やがてボンネット・トラックは油田施設から百メートルほど手前で停車した。
黄色がかった太陽を浴びていた油田施設は、神秘的かつ絵画のような美しさを放っている。
「よし、いっちょう暴れてやるか!」
誰よりも最初に荷台から飛び降りたのはホックスだ。
そのままホックスは舞弥との口論など忘れたように、二台目のボンネット・トラックへと一目散に駆けていく。
ユタラと舞弥を含めたレンタル・ソルジャーたちは拳銃やナイフといったサイドアームは装備していたが、任務の成功を左右するアサルトライフルやショットガンなどの強力な火器は二台目のボンネット・トラックの荷台に預けていた。
ちなみにレンタル・ソルジャーを目的地に運ぶまで護衛するのは募集したPMCと決まっている。
ホックスの行動を皮切りに続々とレンタル・ソルジャーたちは荷台から降り、自分の主要火器を預けていた二台目のボンネット・トラックへと向かう。
「ユタラ、あたしたちも行きましょう」
一方の舞弥も荷台の縁に手をかけて颯爽と砂漠に降り立った。