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第35話   発現者

 エレベーターの扉が開くなり、ユタラは両耳の穴に人差し指を突っ込んだ。


 鼓膜を刺激する銃声がケージの上まで鳴り響いてきた。


 これでは前もってケージの中に放り込んでいた兵士は挽き肉になっているだろう。


 それでもユタラは表情を崩さずに銃声が鳴り止むのをひたすら待ち続けた。


 どれほど弾丸が撃ち込まれたのだろうか。


 クリーム色だったケージ内が凄惨な屠殺現場のようになったとき、ケージに撃ち込まれていた弾丸の暴風がおさまった。


 エレベーターの手前で待ち伏せしていた兵士たちは気づいたのだ。


 ケージの中に潜んでいたのは敵ではなく自分たちの味方だと。


 ただし、兵士たちにとっての敵は実際に潜んでいた。


 兵士たちの敵であるユタラは、身を隠していたエレベーターの天上部から右手だけを出すや否や、右手に握っていたボール状の物体をケージの外に投げ放つ。


 放物線を描くように投げ放たれた手榴弾は、安全ピンを抜いた三秒後に勢いよく爆発する。


 ユタラは轟音とケージの揺れがおさまるのを見計らい、天井のハッチを開けてケージ内に身を投じた。


 鼻が曲がるような血臭は爆風により吹き飛ばされていたが、ケージの床は半ば細切れになっていた兵士の血や肉片で滑りにくくなっている。


 続いてユタラはケージ内から一階の通路へと躍り出た。


 エレベーター付近の床や壁は手榴弾の爆発によって葉脈のような亀裂が入っている。


 当然であった。


 ユタラが投げた手榴弾は殺傷能力の高い破片手榴弾だ。


 近距離で爆発すればコンクリート製の床や壁など軽がると破壊できた。


 人間ならばなおさらである。


 ユタラは敵から奪ったAK74を構えつつ歩を進めた。


 エレベーターから約五メートル離れていた通路は濛々たる煙が立ち込め、亀裂が入った床や壁には人間の肉片と血飛沫が放射状に飛び散っている。


 さながら地獄絵図の光景だ。


 他にも咽るような血の匂いに混じり、糞尿の匂いが鼻腔の奥を一方的に刺激してくる。


 何の耐性もない人間がこの場にいれば卒倒するに違いない。


 修羅場に対して常人よりも耐性を持ち合わせていたユタラでさえ、数人の人間が手榴弾の爆発によって爆死している現状は軽い吐き気を覚えた。


 だが、相手は民間人を人質に取ってホテルに立て篭もっているテロリスト集団。


 情けなどかければ手痛いしっぺ返しを食らうのは自分である。


 また舞弥を救出するに当たって敵は一人でも多く戦闘不能か始末しておいたほうがいい。


 苦労して舞弥を助け出すことに成功しても、逃げ帰るときに二人仲良く殺されたのでは洒落にならないからだ。


 そう考えていたからこそ、ユタラは死体を無視して両足を機敏に動かしていく。


 肉片や大量の空薬莢に足を取られないよう慎重かつ足早に移動し、手榴弾の爆発による影響を受けていた範囲から抜け出す。


 ほどしばらくして、ユタラは慌ててスニーカーを脱いで素足になった。


 靴底には凄惨な現場を抜けた代償として、血や肉片がびっしりとこびりついていたのだ。


 スニーカーを履いたまま歩き続ければ、血の足跡を残すことになって他の敵に追跡されてしまう。


 加えてユタラは、相打ちを信条とする上地流空手の使い手だ。


 正直に言えば靴を履いているよりも素足の方が性に合った。


 なのでユタラは裸足でも一向に気にせず目的地へと急ぐ。


 うかうかしているとハイエナのように別の敵が爆心地へと群がってくる。


 ただ、これは同時に絶好の機会でもあった。


 敵と遭遇すれば生死を賭けた銃撃戦になるのは必至だったが、逆に敵との遭遇を回避できた場合はノン・ストップで目的地に辿り着けるはず。


 今のユタラは不必要な戦闘に関して恐ろしいほど過敏になっていた。


 無理もない。


 ホテル内に侵入してから七、八人の敵を戦闘不能にしたものの、残りの敵の残数が不明なのだ。


 どれだけユタラが超人的な能力を持った〈発現者〉といえども、アサルトライフルを持った複数の敵に攻撃されたら勝ち目はなかった。


 勝ち目があるとすれば不意打ちである。


 単独でホテル内に侵入したユタラにとって、数が未知数の集団と戦って勝つには正面からではなく奇襲を仕掛けるしかない。


 などと思考を巡らせていたとき、鬼門とも呼べる曲がり角に差しかかった。


 ユタラは余計な雑念を捨てて影のように素早くコンクリートの壁に背中を預ける。


 次に聴覚を研ぎ澄ませて曲がり角の奥の音を探った。


 ブーツと床が擦れる摩擦音。


 英語でもヒンドゥー語でも構わない人間の話し声。


 アサルトライフルを動かすときに鳴るガチャガチャとした金属音など、曲がり角の奥に敵がいるという音が拾えれば何でもよかった。


 とにかく、今は一人でも敵と遭遇せず多目的ホールに到着することが重要なのだ。


 もしも曲がり角の奥に敵がいるなら迷うことなく引き返す。


 ユタラは息を殺してそっと耳を澄ました。


 けれども曲がり角の奥からは何の音も聞こえてこない。


 そして体感時間で十数秒が過ぎた頃、ユタラは内心あせっていたことも相まり半分だけ顔を出して曲がり角の奥の様子を覗き見る。


(あれって……)


 通路の奥の壁にぽっかりと穴が開いていた。


 綺麗な円形の穴ではない。


 内部からの衝撃で形成されたような歪な穴であった。


 よく見れば穴の近くにはコンクリートの欠片や木片が飛散している。


 手榴弾かプラスチック爆弾かまでは判別できなかったが、コンクリートの壁に穴を開けたのは間違いなく爆発物による衝撃だ。


 開いていていた穴を中心に外へ逃げるように入っていた無数の亀裂や、通路の床に散らばっていたコンクリートの残骸が銃火器によるものではないことを如実に物語っていた。


 よもすれば魔物が大口を開けて獲物が来るのを今か今かと待ちわびているような錯覚に陥ってしまう。


 そのため一瞬だけ引き返したい衝動に駆られたユタラだったが、残念ながらユタラには魔物の口内へと突入するしか選択肢はなかった。


 魔物の口を彷彿とさせる穴からは非常灯の光とは比較にならないほどの光量が漏れ出ており、穴の奥に数え切れないほどのパイプ椅子が見えていたからだ。


 あそこがネットにアップされた多目的ホールに違いない。


(どうしたものかな)


 ユタラは顔を引っ込め、AK74の銃身を額に押しつけて自問自答した。


 敵と遭遇せずに目的地の近くまで辿り着けたまではよかったが、果たしてこのまま馬鹿正直に突入していいのかという疑問が徐々に身体を蝕んでくる。


 穴の向こうが多目的ホールなのは疑いようがない。


 大量のパイプ椅子はオリビア・パクシーの講演を聴きたかった聴講者のために用意されたものだろう。


 そして多目的ホールの入り口付近に敵の姿はなかった。


 ゴールが目の前にあるのに立ち止まるランナーはいない。行くなら今である。


 意を決したユタラはAK74の銃身から額を離すと、魔物の口を想起させる歪な穴に向かって小走りに駆けていく。


 やがて歪な穴まで二メートルという場所まで来たとき、ユタラは無意識のうちにAK74を持つ両手に力を込めた。


(……いるな)


 視認などしなくても歪な穴から流れていた重苦しい空気でわかってしまった。


 十中八九、多目的ホールには敵がいる。


 あらゆる負の感情を混ぜ合わせたような独特の気配は、どんなに過酷な訓練を積んで殺人機械となった人間だろうと出せるものではない。


 そればかりか、漂ってくる気配の中には一種の余裕すら感じ取れた。


 敵を警戒している様子が微塵もないのだ。


 おそらく、誰がどんな武器で攻めてこようとも返り討ちにできるという自信があるのだろう。


 ユタラは敵の奇襲を警戒しながら、顔をそっと出して多目的ホールの中を窺う。


 多目的ホールは想像していたよりも広い場所だった。


 穴の近くには粉々になったパイプ椅子が散乱しており、数十メートル前方には壇上が見えた。天井には豪華なシャンデリアが吊るされていた。


 数百坪はあるであろう多目的ホールを隅々まで照らしている。


(どういうことだ?)


 多目的ホールの内装を把握したユタラは眉間のシワを深くさせた。


 舞弥どころか敵すらいない。


 多目的ホールは不気味なほどの静寂に包まれていた、無人の空間だったのだ。


 疑問に思いつつも引き返すという選択肢がなかったユタラは、周囲を警戒しながら多目的ホール内に足を踏み入れた。


 AK74の銃口を左右に向け、どこから敵が現れても先手を取れるように感覚を研ぎ澄ます。


 このとき、ユタラは先ほどから感じている奇妙な気配の正体を察知した。


 多目的ホールのどこかに自分と同じ〈発現者〉が潜んでいる。


 これは〈発現者〉同士のみ感じられる一種のシンパシーだ。中国には古来より不吉な出来事の前触れに〝虫〟という言葉をつけることが多く、現代の日本でも自分の身に危険が及ぶ際の感覚に「虫の知らせ」などの言葉を用いている。


 しかし、〈発現者〉には「虫の知らせ」よりも鋭敏に働く第六感が備わっていた。


〈発現者〉同士が一定の距離まで近づくと、悪意で作られたような泥が全身にまとわりついてくる不思議な感覚を受けるのだ。


 それだけではない。


 不快に思う嫌悪感だけならばまだしも、相手に抱いている感情を抜きにして殺意が湧いてくるから堪らなかった。


 生物としての本能が普通の人間よりも強く働くからだろう。


 とにかく、〈青い薔薇〉で〈発現者〉同士のバディが認められていないのもそういう理由からである。


 だが、どこを探しても〈発現者〉の姿が見当たらない。


 まさか敵は身体の色を自在に変色させる生物タイプの〈発現者〉なのだろうか。


 あり得るな、とユタラが先ほどよりも警戒を強めたときだ。


 ユタラは身の毛がよだつほどの殺気を明確に察知した。


 槍のように真っ直ぐで清水のような混じり気のない殺意が身体に容赦なく突き刺さってくる。


 前後左右からではない。まったく警戒していなかった方向からだ。


(真上からか!)


 次の瞬間、羽翅音を鳴らした何者かが凄まじい速度で落下してきた。


 事前に殺気を感じ取ったユタラは床を蹴って前方に跳躍。


 襲撃者の不意打ちを間一髪のところでかわした。


 すると天井から猛スピードで落ちてきた襲撃者は、床と激突する寸前に軌道を変えて再び上空へと飛翔していく。


 ユタラは体勢を整えて素早く振り返った。


 間髪を入れずにAK74の射撃モードをセミ・オートからフル・オートに切り替え、奇襲を仕掛けてきた襲撃者に対して発砲する。


 大量の空薬莢が排出され、銃口から発射された無数の弾丸が空気を切り裂いていく。


 正確な狙いなど定めていない。


 相手は天井から攻撃してきた非常識な敵だ。


 それこそユタラは目標の物体目掛けて弾切れになるまでトリガーを引き続けた。


 ところが発射した弾丸は一発たりとも襲撃者に当たらなかった。


 避けられた無数の弾丸はコンクリートの壁に衝突して虚しく穴を穿つのみ。


 もちろん、弾丸が当たらなかった原因は他にもあった。


 ユタラは弾切れになったAK74を足元に落とすと、空中でホバリングしている襲撃者と視線を切り結ぶ。


 端正な顔立ちに小麦色の肌。


 艶やかな漆黒の長髪。


 身体にフィットしている上下の迷彩服は汚れ一つなく、素足のユタラとは違ってジャングル・ブーツを履いている。


 大人ではない。


 襲撃者は十代と思しきインド人の少女だ。


 ただし背中から突出させていた羽翅を唸らせ、空中に静止している姿は何とも異様な光景だった。


「どこの特殊部隊が突入してきたかと思えば、パクと同じぐらいの子供がたった一人で乗り込んできたとはな」


 これにはユタラも驚きを隠せなかった。


 自分と同じインド人と思しき少女は、ヒンドゥー語ではなく英語で呟いたのだ。


「お前の言うパクとはパク・イルソのことか?」


 ユタラの英語での質問に少女は怪訝そうに首を傾げた。


「ほう、お前は英語が喋れるのか?」


「質問に答えろ! 舞――パクはどこにいる!」


「さあ、このホテルのどこかにいるんじゃないのか。まだ死んでなければの話だがな」


 聞き捨てならない台詞にユタラは右足を上げると、足元に転がっているAK74の銃身部分に足裏を落とした。


 クロムモリブデン鋼の銃身部分が見事なほど足形に凹む。


「そうか……言いたくないのはよく理解した」


 だったら、とユタラはインド人の少女――ムーナに鋭い視線を飛ばした。


 同時に〈発現者〉の能力を開放して全身を硬質化させる。


「力尽くで居場所を吐かせてやる」


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