何事にも相性の善し悪しというものがある。
人間同士でも信頼関係や恋愛関係を持つのに相性は切っても切り離せない。
どれだけ見た目や性格に惚れても、相性が悪ければ疎遠になる可能性も上がってしまうだろう。
そんな相性は信頼関係や恋愛関係以外にも存在する。
ユタラは足元に転がっていたパイプ椅子を拾うと、天井近くでホバリングしていたムーナに投げつけた。
パイプ椅子はフリスビーのように高速回転しながら標的に飛んでいく。
ムーナはこれ見よがしにパイプ椅子を余裕の動きで避けた。
天井に衝突したパイプ椅子は無残にひしゃげて床に落下する。
(これで八脚めか)
さすがに八発中八発も空振ればユタラも別の手段を考えるしかなかった。
背中から突出している半透明の羽翅を見れば、ムーナが自分と同じ〈発現者〉だということは一目瞭然。
それも飛翔能力を持った厄介な昆虫タイプだ。
ユタラは足元に散乱している無数のパイプ椅子の一つに目を馳せた。
無駄だと知りつつもパイプ椅子に目が行ってしまうのは、空中戦に秀でているムーナに対抗できる術がパイプ椅子しかなかったからだ。
もちろん、ユタラも何十脚とパイプ椅子を投げたところで徒労に終わるということは重々承知していた。
何せ相手はアサルトライフルのフル・オート射撃を難なく空中で回避する機動力を持った〈発現者〉。
たとえパイプ椅子が命中したところで致命傷は見込めない。
やはり闘いの相性が悪すぎる。
ユタラの〈発現者〉としての能力が百パーセント生かされるのは一対一の白兵戦。
それも地上でこそ持ち味が発揮される陸戦タイプなのだ。
だからこそ、ユタラは歯痒さを抑えきれなかった。
互いに顔を合わせてからムーナは一度たりとも地上に降りてこようとしない。
それどころか、ムーナは回避行動を取るのに飽きたとばかりにシャンデリアの上に降り立ってしまった。
地上を這う獲物を仕留めるのに、わざわざ地上に降り立つ鷲はいない。
天空の覇者である鷲が獲物を仕留めるときは、上空から一気に垂直落下して鋭利な牙で攻撃する。
だが、ムーナは鷲ではなく人間の知能と昆虫の能力を持った〈発現者〉だ。
空を飛べないユタラを仕留めるなど、赤子の手を捻るより簡単だと思ったに違いない。
ユタラは九脚めのパイプ椅子を拾うのをやめ、ギシギシと揺れている巨大なシャンデリアで羽翅を休めていたムーナに向かって吼える。
「いつまで無駄な時間を費やすつもりだ! さっさと降りてきて僕と闘え!」
「断る」
ムーナは余裕の笑みを消して両足を颯爽と組み替えた。
「そんな下手な誘いに乗るほど私は愚かではない。それに今の貴様に近づくのは危険だと私の本能が告げている。ヘリを爆破されても生き残れた桁外れの強運。〈ワーカー〉どもを倒してここまでやってきた戦闘技術。数キロのパイプ椅子を楽々と天井まで投げ飛ばせる膂力。爬虫類を髣髴させる硬質化した肌……どうやら貴様も私と同じ〈発現者〉らしいな」
「答える義理はない。それとも素直に教えれば降りてくるのか?」
くくく、とムーナは薄笑いを浮かべた。
「そうだな。教えてくれたら考えてもいいぞ」
「どうせ考えるだけだろ」
ユタラはムーナの嘘を瞬時に看破すると、九脚めのパイプ椅子を拾って投げ放つ。
パイプ椅子はムーナではなくシャンデリアの一角に激突した。
パイプ椅子とともに大量のガラスの破片が霧雨のように降り注いでくる。
しかし、肝心のムーナは落下してこなかった。
当然である。
パイプ椅子がシャンデリアに衝突する直前、ムーナは羽翅を唸らせて別の場所に退避したのだ。
すかさずユタラはシャンデリアから目線を外した。
シャンデリアから数メートル先の空中でムーナが両手を組みながら留まっている。
「少しは頭が回るようだな。確かに私は貴様の正体を聞いたところで地上に降りるつもりはなかった。当たり前だろ? 殺し合いの最中に相手の要求に従う敵がどこにいる」
ムーナに指摘されなくともユタラにはわかっていた。
なのでユタラは先ほどからパイプ椅子を何脚も投げつけて挑発していたのだ。
空中を自在に飛行できるムーナを倒すためには、拳足が届く間合いに引きずり込むことが必要不可欠なのだから。
距離にして二メートル。
どんな小さなきっかけでも構わなかった。
どうにかしてムーナを二メートルの間合いに入ってくるよう仕向けなければ勝機は遠退く一方だ。
けれどもムーナは反撃を警戒しているのか攻撃を仕掛けてこない。
何脚ものパイプ椅子を投げても避けるだけ。
挑発的な言葉を吐いても微風のようにひらりとかわすのみ。
「どうした? もうパイプ椅子を投げるのは諦めたのか?」
攻め手に困っていると、耳障りな羽翅音を鳴らして飛んでいるムーナが嘆息した。
「ならば貴様と戯れるのはここまでだ。貴様がパクの心配をしているように、私にも心配すべき相手がいるのでな」
だから、とムーナは腰にぶら下げていた手榴弾を手に取った。
警察が暴徒鎮圧時に使用する閃光手榴弾ではない。
戦場で使用される殺傷能力の高い破片手榴弾である。
「できるだけ苦しませずにあの世へ送ってやろう」
芝居がかった口調のムーナが手榴弾の安全ピンを引き抜こうとしたときだ。
ユタラは最後の手段とばかりに口の端を吊り上げた。
「お前の心配している相手はインド人の少年だろ?」
安全ピンを引き抜こうとしたムーナの手が静止する。
「なぜ、貴様がシュナのことを知っている!」
思ったよりも効果は抜群だったようだ。
ユタラは不適な笑みを浮かべると、見るからに狼狽え始めたムーナに対して一世一代の大芝居を打った。
「さっき、どこかの通路でばったりと遭遇してね。僕は銃を捨てろと言ったんだけど、彼は僕の忠告を無視して発砲してきた。だから僕は仕方なく応戦したんだ」
ユタラは冷酷な表情を浮かべながら言葉を紡ぐ。
「結果は僕がここにいる時点でわかるだろ? それでも即死じゃなかったから、死に際に彼と少しだけ言葉を交わすことができたんだ。彼は涙ながらにこう言っていたよ」
ここが正念場とばかりにユタラは白い歯を覗かせた。
「最後まで君の役に立てなくてごめん……だってさ。まったく、今どきB級映画の登場人物でもこんな陳腐の台詞は吐かないよね」
ユタラは悪ぶった態度で床に唾を吐き捨てた。
嘘である。
すべてはムーナを自分の土俵に引きずり込むため、ユタラは咄嗟にシュナという少年を殺した話をでっちあげたのだ。
次の瞬間、ムーナは無表情のまま手榴弾の安全ピンを抜いた。
常人離れした動体視力を持つユタラは、安全ピンが抜かれた手榴弾の行方を瞬き一つせずに見続けた。
手榴弾はムーナの手から離れて真っ直ぐ床に落下していく。
すぐに我に返ったユタラは、真後ろに身を捻りつつ両耳をしっかりと押さえる。
数秒後、人間を殺傷するに十分な装薬量が詰められていた手榴弾が爆発した。
対衝撃姿勢を取っていたお陰で爆風に飛ばされることはなかったが、ユタラは手榴弾の凄まじい衝撃を床から伝わってきた強震で知ることができた。
しばらくして爆風と強震がおさまったとき、ユタラは顔を起こして両耳から手を離した。両耳を押さえていたのは、手榴弾が爆発した際に起きる轟音から鼓膜を守るためである。
身体を起こしたユタラは踵を返し、爆心地から立ち昇っていた煙を見据えた。
床から天井まで伸びていた煙は一種の煙幕を作り出している。
(一体、どういうつもりだ)
ユタラは無傷ですんだことに喜びを抱かず、逆にムーナの不可解な行動に首を傾げた。
手榴弾の効果的な用途は敵の近くで爆発させることに尽きる。
どれだけ防弾能力に優れたボディアーマーや防弾チョッキを着ていようとも手榴弾の爆発は防げないからだ。
〈発現者〉の能力で身体を硬質化させているユタラも例外ではない。
身近で食らったら先ほど手榴弾で殲滅させた兵士たちと同様に挽き肉になっていただろう。
にもかかわらず、ムーナは手榴弾を投げつけてはこなかった。
起爆準備を完了させた手榴弾を誰もいない真下に落としたのみ。
あれではダメージを負えというほうが無理だ。
ただでさえムーナとユタラの間には十数メートルの距離があった。
これだけの距離があれば素人でも爆発の衝撃から逃れられる。
それゆえにユタラはムーナの行動に疑問を感じたのだ。
敵に致命傷を与えられる投擲武器を無駄に消費したムーナの考えが読めない。
まさか煙幕を作りたかっただけで手榴弾を一つ消費したわけではないだろうに。
やがて多目的ホールの一角を包んでいた煙が晴れていくと、様々な考えを巡らせていたユタラの耳に冷たく低い声が聞こえてきた。
「苦しませずに殺すのはやめだ」
ユタラは声が聞こえてきた方向に視線を固定させた。
声の主であったムーナは手榴弾の衝撃で抉れていた床の上に立っている。
再びムーナと視線を切り結んだとき、ユタラは死を予感させるほどの戦慄を覚えた。
軍服の上着とズボンは千切れ飛び、ムーナは一糸纏わぬ裸体を晒していた。
しかし、どんなアブノーマルな男でも現在のムーナを見て欲情することはないだろう。
天高く逆立っていた長髪の隙間から見えた額には逆三角形の複眼が浮かび、複眼の左右にはしなやかな鞭を想起させる二本の触覚が生え伸びていた。
それだけではない。
へそから下の部分にあった二本の足が密着して、毒々しい黒と黄の斑模様の腹に変形していたのだ。
逆に両手は人差し指と中指の間から肩のつけ根まで裂け、昆虫の脚に酷似した合計四本の腕へと枝分かれしている。
完全変態したムーナを見てユタラは確信した。
ムーナは、スズメバチの能力を有した〈発現者〉だった。