昆虫に疎いユタラでもスズメバチの姿や恐ろしさは知っていた。
ハチの中でも最高ランクの攻撃力を持ち、腹の先から突き出る毒針には免疫系や神経系に甚大なダメージを与える強力な毒性があるらしい。
有名なのはアナフィラキシーショックだ。スズメバチの毒針に二度刺されると、外来抗原に対する過剰な免疫反応のせいで心不全を起こす。
すなわちアナフィラキシーショックに見舞われたら、速やかにホルモン剤やアドレナリンを投与する必要があった。
(どちらにしろ本番はここからだな)
ユタラは短い呼気とともに自流の構えを取った。
両足は漢数字の「八」になるよう前足と後ろ足を内側に曲げ、前方に軽く突き出した両手の親指を曲げる。
上地流空手独特の拇子拳の構えだ。
同時にユタラは全神経を背中に集中させた。
するとカメの甲羅を剥ぎ取ったような音と、カニの脚を金槌で砕いたときのような音が周囲に鳴り響く。
続いてユタラの背中の一部が不自然に膨れ上がり、シャツを突き破って何かが突出した。
硬質化した一本の尻尾だ。
いや、この場合は背中から生え出てきたので背尾と呼んだほうが正しいだろう。
それでも先端に向かうほど鋭く尖っている形は、大蛇と並んで淡水域に生息している獰猛な爬虫類であったワニの尻尾に瓜二つである。
だが、ユタラの生物タイプは断じてワニではなかった。
「どこの組織の手の者か知らんが、シュナが味わった以上の苦痛を受けて死ね!」
ユタラが背尾を発現させた直後、怒りに身を任せていたムーナは大量の粉塵を舞い上げて飛翔した。
四枚の羽翅を高速に唸らせて突進してくる。
完全変態を遂げたユタラは真っ向からムーナを迎え撃った。
素早く右手を脇の位置まで引いて親指を除く四本の指をぴんと伸ばし、砲弾のような速度で迫ってくるムーナに対して必殺の貫手を繰り出す。
刀剣や弾丸を防ぐ畳を五枚重ねても悠々と貫く完全変態したユタラの貫手。
どれだけ〈発現者〉の肉体が頑強でも刺されば皮膚を裂いて内臓を突き破れる。
けれども、そう考えていたユタラの思案は呆気なく砕け散った。
大気を切り裂きながら肉薄してきたムーナは全身に暴風をまとっており、その狂おしいほどの暴風がソニックブーム現象を起こしてユタラの貫手を弾き返したのだ。
圧縮した空気を叩きつけられたような衝撃波を受けたユタラは、床に散らばっていた大量のパイプ椅子と一緒に中空に巻き上げられ、数メートルも離れた床に真横から落下した。
ユタラの肉体を受け止めたリノリウムの床は大きく凹み、さらに追い討ちをかけるようにユタラの真上からは何脚ものひしゃげたパイプ椅子が雨あられのように降り注ぐ。
常人ならば致命傷だっただろうが、〈発現者〉としての能力を最大限まで発現させた今のユタラは装甲車並みの防御力を有していた。
当然である。
ユタラは今から六千五百万年前の中生代、地球上の王者として君臨していた巨大爬虫類――恐竜の能力を持つ〈発現者〉なのだ。
ユタラは覆い被さっていたパイプ椅子の山からむくりと起き上がると、背尾を突出させたことで半端に破れていたシャツを脱ぎ捨てた。
見る者が見たら思わず息を呑んだだろう。
露になったユタラの上半身は一部の弛みもないギリシャ彫刻も顔負けの筋肉質な肉体だった。
上地流の空手を学ぶ者は、常日頃から筋骨を叩いて肉体を鋼の如く鍛えている。
ユタラもそうだ。
盛り上がった胸筋、波打つように割れている腹筋、小手鍛えという交互に相手の腕を叩く鍛錬で鍛えた手首から肘までの部分は二の腕よりも発達している。
ただし、傷一つない外見とは裏腹にユタラは内臓に深刻なダメージを負っていた。
その証拠にユタラは食道を通って逆流してきた塩気を含んだ液体を飲み返す。
食道から溢れてくる塩気を含んだ液体など一つしかなかった。
血だ。
ソニックブームの衝撃波で内臓を損傷したのは間違いない。
戦闘機などが音速で飛行する際に生じるというが、まさか生身の肉体でソニックブーム現象を作り出す〈発現者〉がいるとは夢にも思わなかった。
完全に誤算である。
これでは飛行中のムーナに一太刀も浴びせることができない。
加えてソニックブームの衝撃波は人体の内部にまで浸透するほどのエネルギーがあった。
ユタラは吐血して一時的にも楽になりたいという思いを何とか堪え、ホール隅の天井付近でホバリングしていたムーナを睨みつける。
毒針が唯一の武器だと高を括っていた自分が恥ずかしい。
ムーナは毒針に頼らなくてもソニックブームという攻防一体の武器を自然と身につけていた。
あれでは貫手どころか歩兵用の地対空ミサイルですら弾き返すのではないだろうか。
敵の戦力を推し量っていると、よく通るムーナの声がユタラの耳朶を打った。
「私のソニックブームを食らって生きているとは……貴様はどうやら爬虫類の能力を持った〈発現者〉らしいな」
ムーナはユタラの完全変態した姿を見て、ワニやトカゲなどの現代でも生息している爬虫類タイプの〈発現者〉だと勘違いしたらしい。
無理もなかった。
世界中を探し回ったところで、恐竜の能力を持つ〈発現者〉はユタラ以外に数人いるかどうか。
また亀裂が入ったような硬質化した肌と、ワニの尻尾に似ていた背尾のせいで現存している爬虫類を想起させたのは必然だっただろう。
「面白い。その大層な尾で私を止めてみろ!」
ホバリングしていたムーナは再び一陣の猛風となって襲いかかってくる。
ユタラは何とかムーナに一太刀を浴びせようとしたが、やはり強力なソニックブームの衝撃波を受けて後方へ吹き飛ばされてしまった。
(くそっ、どうする!)
平積みになっていたパイプ椅子の上に落下したユタラは、今度は飲み込むことができずに吐血した。
日本の通貨である十円玉を舐めたときのような鉄臭い味が口全体に広がる。
非常にまずい展開だ。
このままでは本当に嬲り殺されてしまう。
かといってソニックブームの衝撃波を抑える手立ては一向に浮かばない。
代わりに浮かんだのは別のことである。
ユタラは仰向けになっていた身体をうつ伏せにすると、全身を小刻みに震わせながら緩慢な所作で立ち上がった。
「おかしな奴だ。どうしてホールから逃げようとしない?」
口に付着していた血を手の甲で無造作に拭ったとき、ホール隅の天井付近にホバリングしていたムーナは「まさか」と心の底から驚いたように呟く。
「貴様、もしかして逃げたくても逃げられないのか?」
ユタラは肯定も否定もせず空中に静止していたムーナに視線を飛ばした。
「そうなんだろう? 爬虫類のタフネスを手に入れた引き換えとして、完全変態を遂げた貴様は己の肉体を自由に動かせない。だから逃げたくても逃げられないのだ」
敵に弱点を指摘されてユタラは小さく舌打ちする。
ムーナの推測は正しかった。
完全変態を遂げたユタラの肉体は圧倒的な攻撃力と防御力を持つ人型の恐竜と化すのだが、著しい体重の増加と身体のバランス感覚を大きく狂わす背尾のせいで迅速な動きが大きく損なわれてしまう。
「敵の弱点に気づいて鬼の首でも取ったように嬉しがるのは勝手だけど、僕もお前の弱点がわかったぞ」
ユタラは口内に残っていたすべての血を床に吐き出した。
「お前は完全変態を遂げると自由に飛翔できなくなる。せいぜい壁の端から端まで猛スピードで滑空するだけ……違うか?」
「ほう、あの短期間でそこに気づいたか」
ムーナは四本に分裂した手をわさわさと動かす。
「だが自由に飛翔できなくとも、今の私に傷を負わせることなど誰にもできん」
確かにソニックブームの衝撃波は厄介である。
筋骨ではなく内臓に浸透するダメージなど完全変態を遂げたユタラとて何発も食らえない。
それに能力の持続時間から考えても悠長に構えている暇はなかった。
やはりムーナを倒すには肉体にダメージを与えなければ駄目だ。
ユタラは一か八かの賭けに打って出た。
勝ち誇った顔を浮かべていたムーナに言い放つ。
「テロを起こすような非道な奴が何を言っている。自分は何でもできるだって? そんな甘い考えだから自分の大切な人間一人守れないんだよ!」
突如、極限まで糸が張り詰めたように多目的ホール内の空気が変わった。
「それはシュナのことを言っているのか?」
屠殺場の家畜でも見るような冷たい目で見下ろしてくるムーナに、ユタラはしっかりと顔を上げて拇子拳の構えを取る。
「僕は真実を言ったまでさ。それにソニックブームを起こせる程度で、今の僕を殺せるなんて思わないことだ」
ユタラは大声で転げ回りたい衝動を抑え、構えを崩さず右手で手招きする。
「僕を殺したければ自慢の毒針で一思いに殺してみろ。僕がお前の大切な人間にとどめを刺したときのように」
最後の言葉がムーナの逆鱗に触れたのだろう。
ムーナは怒りで目を血走せつつ、ホバリングした状態から三度目の突進を仕掛けてきた。
猛スピードで迫ってくるムーナのあとから、何十脚ものパイプ椅子が空中に舞い上がっていく。
しかし、三度目の突進は明らかに一度目や二度目と比べてスピードが劣っていた。
そのためソニックブーム現象が起きず、ユタラの肉体が衝撃波で吹き飛ばされることもなかった。
それでもユタラの身体は空中に浮遊した。
飛翔してきたムーナの四本の手に身体を拘束されて天井付近まで上昇したからである。
高所恐怖症などの不安障害がないユタラでも、十数メートルの高さから多目的ホール全体を見下ろす光景は肌が粟立つほど恐ろしかった。
この高さから落下したら完全変態を遂げたユタラでも無傷ではすまない。
「まさか、このまま床に落とすとでも思っているのか?」
顔を上げると、瞳の奥に怒りの炎を宿らせていたムーナと目が合った。
このとき、ユタラは改めて昆虫の力の強さを実感した。
ユタラの両腕と左右の脇腹はムーナの分裂させた手で一本ずつ掴まれているのだが、恐竜の力で抗ってみても腕を上下に数センチだけ動かせるだけで外せる気配がまったくない。
「転落死などという生温い死に方などさせん。望みどおり、私の針で息の根を止めてやる」
ムーナは黒と黄の斑模様で彩られた腹を持ち上げ、先端から突出させた鉄パイプほどの太さもある黒光りした毒針をユタラに見せつけた。
切っ先に小さな穴が開いているのは、相手の神経系や免疫系に大ダメージを与える毒液の注入口に違いない。
「さあ、シュナを殺したことを悔いながら死ね!」
「悪いけどお断りだ」
ユタラは大きく息を吸い込んで両頬を風船のように膨らませると、密かに胃の中から逆流させていたパチンコ玉を溜めた空気と一緒に吐き飛ばした。
常人をはるかに上回る肺活量で飛ばしたパチンコ玉がムーナの顔面に直撃する。
かつての恐竜たちは肉食、草食に限らず食物を丸のみしていた。
これではどんなに長い腸と強力な胃液の持ち主である恐竜でも食物を完全に消化することができない。
そこで恐竜たちは消化を助けるために石を食べた。
胃石である。
胃袋の中に溜め込んだ大量の石で食物をすり潰し、命取りになる消化不良を起こさないよう日々を生きていたという。
ただ、ユタラがパチンコ玉を食べていたのは消化不良を助けるためではなかった。
まさにこういった最悪の事態を想定していたからに他ならない。
もちろん、ユタラはパチンコ玉でのダメージなど期待していなかった。期
待したのは顔面にパチンコ玉を叩きつけられたことで敵が生じる一瞬の隙だ。
ムーナが予期せぬ不意打ちを受けて両目を閉じたとき、ユタラはその一瞬の隙を見逃さず背尾をムーナの毒針に向けて動かした。
パチンコ玉を顔面に食らって動きが数秒だけ止まったムーナの太い毒針を背尾で何とか絡み取る。
これで互いに決め手を欠いた状態となった。
ムーナの四本の手はユタラの両腕と胴体を、ユタラの背尾はムーナの毒針での攻撃を封じた形になる。
だが、パチンコ玉をぶつけたことや毒針の動きを封じることは複線でしかなかった。
ユタラが真に狙っていたのは、至近距離で確実に致命傷を与えられる攻撃のタイミングである。
「最後の最後みたいだから白状しておくよ」
ムーナが両目を開いたときには、ユタラは完全に攻撃用意を整えていた。右足の指全体を刃物のように鋭く固めていたのだ。
「僕はシュナなんていう少年と一度も会ったことはない」
直後、ユタラはムーナに膝のスナップを利かせた蹴りを放った。
完全変態したユタラが放った上地流空手の蹴り技――足先蹴りが無防備だったムーナの胸部に深々と突き刺さった。
傷口から噴出した大量の鮮血がユタラの上半身を赤く染めていく。
そして――。