蒼い月の下で揺れる純白の花畑。風はほとんど吹いておらず、遠くでたまに木々が枝葉をこする。エイル湖も穏やかで、水面を魚が跳ねる音がかすかに響く。
しかし、それら全てはアイーシャの目に映っていないだろう。視界の先で仲睦まじそうに腰を下ろす両親――アイザックとミシェルの姿――に夢中のようだった。
「今日は久しぶりにいい天気。これだけ晴れていたら、洗濯物も乾きそうね」
「昨日まで雨が続いたからね。おかげで一息つけそうだよ」
2人のセリフが状況に合致しないのは、過去を映しているせいだ。ミシェルの長い蒼髪が揺れる様は、現在と乖離していて少しだけ違和感。
アイーシャが両親に歩み寄り、対面に座ろうとした。しかし何かに気づき、一歩下がって腰を下ろす。彼女の眼前には、幻ながらも、赤子を寝かせるクーファーが置いてあった。
その中では、穏やかに眠る赤子がいる。「この子はアタシだ」とアイーシャが呟いた。
「ミシェル。しばらくは家に居られるんだろう? また出かけたりしないよね?」
「そのつもりだけど……どうかしら」
「錬金術はこの先も続けて構わない。どうせ辞めろと言っても聞かないだろうし。でも冒険者だけはお休みしてくれないか」
「世の中には困ってる人が大勢いるのよ。騎士や教会に見捨てられた人たちが」
「それでも僕は夫として、父親として君を止めるよ」
アイザックがそっと視線を落とした。赤子は今も安らかな寝息を立てていた。
「せめてアイーシャが大人になってから。一人立ち出来る日まで、そばで見守ってくれないか」
「そうね。出来れば私だってそうしたいわ」
ミシェルの髪がそよぎ、あわせてアイザックの赤い髪も揺れる。唯一、アイーシャだけが、風の動きと連動しない。その些細な違いが残酷に思えた。奇跡の入り込む余地もなく、厳然と告げるようだった。
今そこに存在する両親は、幻でしかないと――。
「アイーシャはどんな大人に育つかな」
アイザックが話題を変えた。ミシェルの反応はのんびりとしているが、アイーシャだけは沈痛な面持ちになる。両手を握りしめて、胸元に強く押し当てた。
「そうね。まだ想像できないわ、赤ん坊だもの」
「僕は何となく想像できるな。君みたいに好奇心旺盛で、興味が湧いたら走り出して、気づけばポッと帰って来る」
「まだハイハイしか出来ないのに、もうそこまで見えてるの?」
「瞳が君と同じだよ。新しいものを見ると、これでもかと目を輝かせるんだ。君の気質はちゃんと引き継がれてるね」
「あら、それを言ったら敏感なところはアナタ譲りよ。ちょっとした物音で起きちゃうの。今は珍しくグッスリだけど」
「そりゃ僕ら木こりは、森の変化に敏感じゃなきゃ生きていけないからね。木々の声に耳を澄まし、ささやかな変化にも目を凝らすんだ」
「そんな両親に育てられたアイーシャはどうなるかしら」
「錬金術師かな……。もしかしたら、冒険者をやりたいって思うかも」
2人はそこまで語ると、視線を赤子に向けた。
しかしアイーシャだけは瞳を伏せた。そして、かすれた声を漏らした。声はやがて嗚咽混じりになる。
瞳には涙が浮かび、こぼれる。それは自責の念に満ちていた。
「ごめんなさい父さん、母さん。アタシは全然ダメだよ。免許はもらえなかったし、ダンジョンは怖くて仕方ないし。錬金術だって、母さんの足元にも及ばないもん……」
アイーシャの頬に涙が伝い、落ちる。それは純白の花弁を静かに揺らした。
「ごめんなさい。ちゃんとした大人になれなくて、ごめんなさい……!」
謝罪の言葉に幻が反応するはずがなかった。両者は今も顔色を変えず、微笑みを絶やそうとしない。
あまりにも痛々しい。そう思ってアイーシャに歩み寄ろうとした。しかし彼女に辿り着く前に、オレは目の当たりにしてしまった。
奇跡としか言いようのない、その瞬間を――。
「あっ、ご覧よミシェル。なんだろうこれは、綿毛かな?」
アイザックがおもむろに手を伸ばした。隣のミシェルもやはり手を伸ばした。
「あら珍しい、フワリダネじゃない。もっと南の方で見かける綿毛の種よ。昔から『柔らかな希望を届ける』って言われてて、縁起が良いのよ」
両親が差し出した手は、偶然にもアイーシャへ伸びた。更に言えば、2人の手のひらが、ちょうどアイーシャの頬に触れる位置と重なる。
寸分のずれもない。両親が意図して頬に触れたようにしか見えなかった。
「父さん、母さん……」アイーシャは涙で濡れた瞳を前に向けた。ミシェルたちも、アイーシャと視線を重ねるかのように、優しく見つめている。
「なんにせよ、健康に育ってくれたら十分さ」
アイザックがつぶやき、ミシェルも続く。
「そうね。本人が幸せなら、それだけで良いわ」
アイーシャは声をからしてまで泣いた。心の奥深くから、感情が吹き上がり、止められないのだろう。
普段から見せる底抜けの明るさからは、全く想像できない姿だった。まさかこれほどの屈託を、罪悪感を抱えていたとは。
(人は見かけによらない。見た目と心の内はまったくの別物か……)
やがて幻は音もなく消えた。依然として泣き続けるアイーシャに、エビルボアーがぴたりと寄り添った。
(これは……。しばらくデカブツに任せて、そっとしておくか)
そこへゴーレムが足早に歩み寄ろうとする。
「アイーシャ様、あまり夜風に当たると風邪をひきます。用事が済んだならサッサと屋内に――もがもが」
「はいはい邪魔すんな。好きにさせてやれ」
無粋極まるゴーレムを抱えて家に戻る。そしてベッドに潜り込んでいると、しばらくして、アイーシャが戻ってきた。
隣のベッドで衣擦れの音、それとささやき声が聞こえてくる。
「先に帰ってくれてありがとうね、ライル。あんなにワンワン泣いちゃったから、ちょっと恥ずかしかった……って、もう寝てるか」
おやすみ、と短く聞こえたのを最後に、オレも眠りに落ちた。
そして翌朝。異変に気づいたのは見回りの最中だ。近くの小屋で、入口が不自然に開いていた。
「ルカのやつめ……逃げられちまった」
小屋に捕らえておいた教会の助祭は、いつの間にか脱走していた。
あの女はロープで縛り付けていたのだが、それは床に散らばっていた。錆びたナイフも残されている。どうやら小屋の端に寄せた不用品の中に、ナイフが紛れ込んでいたらしい。
「騎士団に突き出してやろうと思ったのにな。デモノイドウェーブの首謀者として」
居ないものは仕方ない。そもそも物的証拠を押さえてないなら、逃がした時点でお終いだった。
ただ1つ覚えておくべきは、アルフィオナ教会の残忍さだ。ことと次第によっては、人々を死なせる事も厭わない危険な組織。それだけは決して忘れてはならない。
それからアイーシャの家に戻ると、すでに朝食が用意されていた。チーズサンドの目玉焼きのせ。ゴーレムはアニマストーンを腹に収めて、エビルボアーは、どっかから掘り起こした芋をかじっていた。
「あれからね、少し考えたんだ」アイーシャがポツリと言った。
「アタシね、全然ダメだなって思ってた。ライルが居なかったら、ダンジョンで死んでただろうし、アルケイルを救うことも出来なかった。錬金術だって、母さんみたいに作れてないし」
「んな事あるかよ」頬張った目玉焼きの塩加減は、いくらか強かった。「たまたまオレが居合わせたから、結果的にそうなっただけだ」
「そうかなぁ……」
「お前1人でも、必死こいてダンジョンを切り抜けたかもしれない。アルケイルの救援も、ゴーレムを生み出したお前なら、きっと持ちこたえた。最悪、村を棄てる事になったかもしれないが、凌げただろうよ」
「でも、アタシ1人じゃ何も出来なかったよ」
「少なくともお前はデモノイド・ウェーブに立ち向かった。騎士団や冒険者どもが我先にと逃走する中、戦場にとどまり続けたんだ。それだけで十分だろう。誇れ」
「うん、そうかも……」
アイーシャは手元のパンを眺めたかと思えば、いきなり大口を開けて食らいついた。小さな頬が丸く膨らんだ。
「それじゃあ、食べたら出発かな」
「どこへ?」
「そりゃ旅を続けるんだよ、イルタールを目指して」
「村には留まらないでいいのか?」
「もちろんだよ。父さんも母さんも、好きに生きろって言ってくれたでしょ? だからアタシは、母さんを探しに行く。今も絶対、どこかで生きてるはずだから!」
「やりたいなら好きにしたら良い。お前の人生だ」
「一緒に来てくれるよね? ライルだって強いやつに会いたいでしょ?」
「そりゃそうだが」窓辺に置かれたメモリースコープを見て言った。「もう良いのか?」
「ありがと。思い出なら、もう十分楽しんだよ」
「分かった。食ったら支度だ」
そうしてアルケイルに旅立ちを告げた。すると出立を知った村人たちが、郊外まで押し寄せてきた。彼らの発する言葉の多くは滞在を勧めるものだったが、強いものではなかった。
「ゴーレムちゃん。アルケイルの皆を守ってあげてね」
アイーシャは村の防備に不安を抱いている。そのため、ゴーレムをここに残すという。戦力だけを考えたなら、オレも賛成なのだが――。
「お任せください。このド田舎の寒村を守るメリットを何一つ見いだせないまま、しかし見事なまでに、命令を完遂してみせましょう」
「こいつ大丈夫かよ、マジで……」
「ムッ、失礼な槍使い。破損した腕ならアイーシャ様に直していただきました。これで百人力。不届き者はおろか、アイーシャ様を卑下するもの、すべからく粉砕する所存です」
「釘刺しとけアイーシャ。これだとトカゲを追い払う代わりに、虎を招き入れる結果になりかねない」
そして旅立ち。カーターや村人たちは大声で見送ってくれた。比較的軽症の怪我人も、声を張り上げてくれた。
「本当にありがとう、またアルケイルに寄ってくれよ〜〜!」
「いつでも歓迎するよ! 今度は手料理でもてなすから!」
オレとアイーシャ、そしてエビルボアーは、数々の声援を受けつつ歩いていった。エイル湖を右回りに行き、小道を進む。それはまだ見ぬ街マギノリアへと続くものだ。
「ねぇライル」
意気揚々と出た割にアイーシャは、妙に沈んでいた。その顔は晴れない。せっかくの好天だというのに。
「なんだよ。村が恋しいのか?」
「そうじゃないよ、お礼をしなきゃなって」
「お礼? 誰にだよ」
「もちろんライルに。なんだかお世話になりっぱなしで、申し訳なくて」
「フィンに金を払ってくれたろ」
「それだけじゃ全然足りないよ。どうしたら良いかな、アタシに出来ることなら何でもするし」
「お前に……ねぇ」
お願いするなら槍破壊の一択。最近になってイルタールや教会なんてもんが出てきたが、目的は変わらない。借金がある限り自由なんてないのだ。
(出来ることと言われてもな……)
隣を行くアイーシャの身体を眺めてみる。ひょろひょろ腕に細い足。ある程度筋肉がついているとはいえ、武器破壊なんて期待できない。
そもそも骨格からして、筋肉を蓄えるのに向いていないかもしれない。コイツが野獣のごとき逞しさを体現する姿なんて――全く想像できなかった。
「ちょっと、どこ見てんのよ……!」
耳まで真っ赤にしたアイーシャが睨む。同時に胸元を手で隠した。服の上から手のひらで覆い、視界を遮るようにして。
今さら身体を隠した所で、その戦力を見誤る事もない。おおよその見当なら把握している。
「あのねライル。言っとくけど、そんな話じゃないから! そういうアレコレはお礼とかじゃなくて、もっとこう……睦み合うというか……気持ちが通じ合ってからじゃないと!」
「不合格だな」
「はぁぁぁ!? それどういう意味よ! 言っとくけど結構スタイル良いからね? 服を脱いだらそりゃもう、ヤバすぎんだから!」
「アッハッハ、それで良いよお前は。変に気を遣うな面倒くせぇ」
「信じてないでしょこの野郎! だったらその目で確かめたら良いさアタシの奇跡ボディを! そして額を地面に擦り付けて謝れ!」
急に賑やかになったが、これで良いと思う。旅路は何かと苦労がつきまとう。だったらせめて、笑い声が絶えないようにとは思う。
何かを察したのか、エビルボアーもフゴッと楽しげに鳴いた。
「いや笑ってんなよデカブツ。お前はどこかでお別れだからな、付いてくる気になってんじゃねぇ」
「ぽぇ〜〜」
「ライル、それは可哀想でしょ? ボアちゃんも一緒でいいじゃん! ほら、すごく大きなお馬さんってことで」
「こんなバカでかい馬がいてたまるか〜〜ぃ」
こうしてアルケイル村を旅立ったオレたちは、まだ見ぬマギノリアへと向かった。そこでは教会の暗躍と、そして聖杖の継承者が待ち受けるのだが、今はまだ知る由もない。
抜けるような青空の下、一歩一歩と進むばかりだ。他愛もない会話で耳を楽しませつつ。
(第一章 完)