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第8話 奇跡のような魔法


『勝者は――エレンだァァァ!! 圧倒的!  魔法を使わぬ剣士、初陣を見事勝利で飾りましたァァァ!!』



割れんばかりの大歓声と、実況の興奮しきった声が、巨大な闘技場全体を揺るがし、私の鼓膜を激しく震わせる。先ほどまでの剣戟の金属音はもう聞こえない。ただ、熱狂だけがそこにあった。



(……ふぅ。エレン、お疲れ様。すごい戦いだったね。ちゃんと満足できた?)


エレナが、試合の興奮冷めやらぬ私の意識の奥で、労うように静かに問いかけてきた。その声には、安堵が混じっているような気がする。


(ああ。初戦の相手としては申し分なかった。久々に血が騒ぐ感覚を味わえたよ。実に楽しかった。)


私は内心の満足感を隠すことなく答える。


(なんだか……最後の方、ちょっと師匠みたいだったよ? グレンさんのこと、すごく見定めるような目で見てたから)


エレナが、くすくすと楽しそうに笑う気配が伝わってくる。


ふっと、私自身も思わず笑みがこぼれてしまう。確かに、あの若き騎士グレンの、荒削りながらも非凡な才能と、何よりあの燃えるような闘争心を感じた瞬間――私は無意識のうちに、弟子を導いていた時のような目で彼を見ていたのかもしれない。


磨けば光る原石、というやつか。


(……さて、エレナ。名残惜しいが、そろそろ代わろうか。長居は無用だろう)


(うん。わかった。ありがとう、エレン)


私はゆっくりと意識の主導権を手放し、身体の感覚がエレナへと戻っていくのを感じながら、意識の表層へと浮上していく。白銀の髪が陽光を吸い込み、再び柔らかな金色へと変わっていく。深紅の瞳は、澄んだ碧空の色を映す。


金の髪に、碧の瞳――私、エレナとしての姿に、完全に切り替わった。


闘技場の喧騒が、少しだけ遠くに感じられる。



(ねえ、エレン。せっかくだから、他の選手の試合も少し観ていかない? 面白そうな魔法を使う人がいるかもしれないし)


(ふむ、それも一興だが……確か君は今日、昼過ぎから教会で大切な用事があったはずだが? 忘れたわけではあるまいな?)


エレンの、少し呆れたような、それでいて冷静な声が響く。


――そうだった!! すっかり、綺麗さっぱり忘れてしまっていた!!


エレンのあまりにも楽しそうな試合運びと、闘技場の熱気に当てられて、今日の午後に予定していた「祈りの時間」のことが、頭から完全に抜け落ちていたのだ!


(わぁぁ! ありがとう、エレン!! 教えてくれなかったら、大変なことになるところだったよ!)


私は心の中でエレンに感謝しつつ、慌てて選手控室を飛び出し、興奮冷めやらぬ闘技場の出口へと駆け出し、一路、教会へと向かって全力で走り出した。


***


息を切らしながら教会へと戻ると、そこにはすでに、私を待つ多くの信者の方々が集まっていた。皆、それぞれの表情に、悩みや不安、そしてわずかな希望を滲ませている。



「エレナ様、お待ちしておりました。病気の妻を、どうか助けてはいただけんでしょうか……藁にもすがる思いで来たんじゃが……」


「聖女様……若くして死んでしまった私の息子は、今頃、一体どうなってしまうのでしょう……天国へは行けるのでしょうか……」


「あ、あの、エレナ様! 私の、その、意中の彼との恋の行方は……! どうか、お導きを……!」



皆、それぞれに深刻な悩みや、心の重荷を抱えている。私は定期的に、こうして教会の一室で“祈りの時間”を設け、彼らの声に耳を傾け、私にできる限りの助けを与えていた。


もちろん、最後の恋の相談に関しては……まあ、それは本人の努力と勇気次第としか言いようがないのだけれど。それでも、話を聞いて、少しでも前向きな気持ちになれるように祈ることはできる。


でも、私は私なりに、戦うことしかできないエレンとはまた違うやり方で、苦しんでいる誰かを、悲しんでいる誰かを、この力で救いたいと強く思っているのだ。


中でも、痩せこけた頬で、震える手で私の袖を掴み、病気の奥さんのことを切々と語るお爺さんの目は、痛々しいほどに切実だった。その瞳の奥には、深い絶望と、それでも消えない一縷の望みが揺らめいている。



(……このお爺さんの奥様のこと、詳しく聞かないと。瘴気の種類によっては、時間との勝負になるかもしれない)



「お爺さん。奥様は、どのような経緯で、そのようなお辛い状態になられたのですか? よろしければ、詳しくお聞かせいただけますでしょうか」


私はお爺さんの前にそっと跪き、視線を合わせ、努めて穏やかな声で問いかけた。


「あ、ああ……それが、数日前に森へ薪を取りに入った際に、なにやら得体の知れない魔物の瘴気に当てられてしまったらしくての…それ以来、日に日に弱っていって……医者も匙を投げる有様で……」


彼は途切れ途切れに、肩を震わせながら、ぽつりとそう答える。その声は、今にも泣き出しそうにか細い。



魔物の瘴気……それは、時に人の命をも容易く奪う恐ろしい呪い。


魔物に直接襲われた人はもちろんのこと、その魔物が潜んでいた場所の近くに長時間いた者でさえも、稀にその濃密な瘴気によって身体の深奥を蝕まれ、徐々に生命力を奪われてしまうことがあるのだ。


最悪の場合、魂まで汚染され、命を落とすことだってある――けれど、私がここにいる以上、決してそうはさせない。助けられる命なら、必ず助けてみせる。



「わかりました。状況は理解いたしました。今すぐ、奥様の元へ参りましょう。一刻も早い方がよろしいでしょうから」


私が一切の迷いを見せず即答すると、お爺さんは驚きに枯れた目を見開いた。


「そ、そんな……エレナ様自ら、このような汚い家へ、急に来てくださるなんて……本当に、いいのか……? わしのような者のために……」


その声には、純粋な驚きと、戸惑い、そしてわずかな恐縮が混じっていた。


「ええ、もちろんです。目の前に助けられるかもしれない命があるのなら、そこに迷う理由なんて、ひとつもありませんから」私はきっぱりと言い切り、優しく微笑んだ。


すると、私たちのやり取りを静かに見守っていた司祭様が、穏やかな表情で背後から歩み寄ってきた。


「そうだね、エレナ君。君がそう言うのなら、それが最善なのだろう。ここでの残りの相談は、他の者に任せて、君はすぐにお爺様の奥様の元へ行って差し上げなさい」


「司祭様……ありがとうございます。ご配慮、感謝いたします」


私は司祭様に深く頭を下げ、そしてお爺さんの震える手をそっと取り、彼と共に教会を後にした。陽はまだ高いが、一刻の猶予もない。


***


その後、お爺さんに手を引かれるようにして案内され、王都の喧騒から少し離れた、古びた木造の小さな家に辿り着いた。家全体が、どこか寂しげな空気を纏っている。



「お邪魔いたします」


静かに声をかけ、薄暗い室内に入ると、部屋の奥、簡素なベッドに痩せ細った老婆が苦しそうに横たわっているのが目に映った。顔色は土気色で、呼吸も浅く、時折苦悶の表情を浮かべている。瘴気がかなり進行しているようだ。


私は静かに彼女の隣へ腰掛け、その冷たくなった手を、両手でそっと包み込むように握る。その手は、まるで枯れ枝のように細く、そして冷たい。


そして――深く息を吸い込み、心を集中させ、祈った。この小さな命の灯火が、消えてしまわぬように。


私はそっと目を閉じ、神聖なる言葉を紡ぐように、澄んだ声で祈りの呪文を口にした。


「聖なる光よ、我らを清め給え、そしてこの魂を癒し給え」


その言葉が紡がれた瞬間、私の両手から、まるで溶かした黄金のような温かく、そして清浄な光がふわりとあふれ出す。


その聖なる光は、老婆の身体を優しく包み込み、彼女の内に巣食う邪悪な瘴気を、まるで朝靄を払う陽光のように、静かに、優しく、そして完全に消し去っていった。光は部屋全体を満たし、澱んでいた空気を浄化していく。



「おお……おおお……!」


私の背後で、お爺さんが言葉にならない感動の声を漏らした。その目には、涙が溢れている。


すう……すう……と、老婆の口から、先ほどまでとは比べ物にならないほど安らかな寝息が聞こえ始めた。苦痛に歪んでいた彼女の顔から険が取れ、その呼吸が、次第に穏やかに、そして深く戻っていくのが手に取るようにわかる。



「もう、大丈夫ですよ。瘴気は完全に祓われました。数日後には、きっと元気に目を覚まされるでしょう」


「……本当に、本当に、ありがとう存じます……! エレナ様……このご恩は、一生忘れませぬ……ありがとう……ありがとう……」


震える声で、何度も何度も感謝の言葉を嗚咽混じりに口にする彼。その姿に、私の胸も熱くなる。


私は優しく頷き返し、心からの微笑みを彼に向けた。



私の持つこの聖女としての魔法の力は、他の魔法使いのものとは少し特殊で――このように、魔物の放つ邪悪な瘴気を祓ったり、誰かの負った深い傷や、重い病を癒したりすることができる。


人々は、この力を“奇跡”みたいだと、よくそう言ってくれる。


けれど私にとっては、それが高位の魔法なのか、それとも本当に神様が起こしてくださった奇跡なのか、そんな分類なんて、どうでもよかった。


私にとって本当に大切なのは、ただ一つ。


目の前で苦しんでいる人を、この手で救えるかどうか。

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