「それで、あいつらの要望はなんだ? やはり、『朝廷に政治を返せ』という内容か?」
徳川慶喜は、深い疲労の色を滲ませた顔で、目の前に立つ側近を見つめた。ここ最近の薩摩と長州の動きには、さすがの彼も辟易としていた。表面上は交渉の形をとっているが、その本質は脅迫に他ならない。「要求に応じなければ、武力で潰す」――薩長はそう言外に突きつけてくるのだ。
執務室の障子越しに差し込む陽が、慶喜の影を長く引き伸ばす。障子には、揺れる木々の影が模様を作り、その静けさが今の幕府の揺らぎを暗示しているかのようだった。
徳川幕府が形式的になりつつあることは、慶喜自身、痛いほど理解していた。だが、だからといって薩長の言いなりになるのは、彼の矜持が許さなかった。幕府はまだ、完全には死んではいない――そう信じたいという思いが、彼の胸中にかすかな炎となって残っていた。
「ええ、そのまさかです。薩長のみならず、土佐も賛同しているようです」
側近の報告は冷たい現実を突きつけた。慶喜は深いため息をついた。これで薩摩、長州、そして土佐が一枚岩となった。西郷隆盛の豪胆さ、伊藤博文の冷徹な計略、そして土佐からは勝海舟や坂本龍馬――手練れの策士たちが集まり、倒幕の大波を起こそうとしている。
執務室の空気が重く沈み、蝋燭の炎が揺らめいた。しばらく無言のまま、慶喜は目を閉じ、心の中で状況を整理する。倒幕運動が過熱したのは、異国の船が次々と来航し、日本の孤立が破られたあの瞬間からだ。
「早く開国しなければ、日本は後進国になる」
「日本は外国の属国になる」
そんな声が街中に渦巻いている。確かに、その主張は半分正しい。焦ることなく開国できれば、損害は最小限に抑えられるだろう。しかし、慶喜の望みはそれだけではない。何かしら日本の立ち位置を高め、諸外国と対等に渡り合う――それが彼の見据える未来だった。
「なあ、何かいい案はあるか? 我々が恥をかかずに政権を明け渡す方法が」
低く抑えた声に、慶喜の切実な苦悩が滲む。側近は眉間に皺を寄せ、「うーん」と唸ったが、具体的な案は浮かばないようだった。室内に沈黙が広がる。
「政権を完全に渡すことはしたくないんだ。何かしらの形で関与できる余地を残したい。そうだな、誰かが新政府で働ければいいのだろうが……」
慶喜の言葉は、まるで自問自答のように宙に漂う。彼の手に握られた扇子が、無意識にゆっくりと開かれ、閉じられる。沈黙の中で、扇子のわずかな音だけが、時計の針のように時を刻んでいた。
「それならば、殿が新政府に参加することを条件に政権を明け渡すのはいかがでしょうか」
側近が顔を上げ、名案とばかりに提案した。しかし、慶喜は首を振る。
「それは無理だな。そこまで露骨では、奴らも条件を飲むはずがない」
淡々とした口調に、確かな諦観がにじむ。自らの立場が、新政府に受け入れられるはずがない――慶喜はそれを理解していた。
しばし静寂が流れた後、慶喜の表情が一瞬だけ鋭くなった。そして、電光が走るかのように、彼の脳裏にある考えが閃いた。
「そうだ! お前だよ、お前! お前が新政府で働ければいいんだ」
慶喜の目が鋭く輝き、側近に向けられる。突然の指名に、側近は目を丸くし、状況を飲み込めずに口を開いた。
「え、私ですか!? いや、そんな大役は……」
声が震え、彼の表情には狼狽が浮かぶ。だが、慶喜は手をひらひらと振り、笑みを浮かべた。
「そんなに身構えるな。大仕事をしろとは言わない。時々、情報を流してくれれば、それでいい」
その言葉には、かすかな信頼と期待が込められていた。
「はあ……」
側近の返事は気の抜けたものだったが、慶喜はすでに次の一手を見据えている。
「おいおい。これから新政府で働くんだ、情けない返事をするな」
軽い冗談のように言いながらも、その眼差しは真剣だった。新政府への浸透――それは、慶喜が幕府の矜持を守るために選んだ、最後の手段だった。
「それで、具体的にはどこで働けばよろしいので?」少し落ち着きを取り戻した側近が尋ねる。
「新しい首相の側近だ」
短く答えた慶喜は、口角を少しだけ上げた。その言葉の重さに、側近は再び驚愕した。
「なるほど。……って、ええええ!」
側近の声が部屋に響き、慶喜はその様子を静かに見つめていた。これで、わずかながらも幕府の意志が、新時代に残る――そう信じて。