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【徳川慶喜】慶喜の策略

 江戸城の広間は、冬の朝の冷え切った空気と張り詰めた緊張に包まれていた。障子から差し込む光は鈍く、今にも雨が降り出しそうな曇天が見える。まるでこの会見の行方を暗示するかのようだ。



 徳川慶喜は、格式高い着物を身にまとい、背筋を伸ばして座っていた。その顔は冷静を装っていたが、内心では心臓が音を立てていた。ここ数ヶ月、薩摩・長州・土佐の三藩が幕府に突きつける圧力は増すばかり。これが最後の譲歩の場だと、彼は痛感していた。



 対面に座るのは、倒幕の先陣を切る三人――長州の伊藤博文、薩摩の西郷隆盛、土佐の勝海舟。彼らはそれぞれ異なる表情を見せていた。伊藤博文は鋭い目つきで、まるで相手の隙を伺うかのように静かに息を潜めている。西郷隆盛は黙然として、巨岩のような威圧感を放っていた。そして勝海舟は一歩引いた態度で、和やかな笑みを浮かべながらも、その瞳には冷徹な観察者の光が宿っていた。



「さて、そちらの意見を聞こうか」



 徳川慶喜はわざとらしいほどに落ち着き払った口調で切り出した。扇子を軽く開き、手の中で弄ぶ仕草は優雅さを保ちつつも、その実、指先は汗ばんでいた。



 伊藤博文が前に出て、短く、そして明確に言い放った。



「率直に申し上げます。政権を朝廷に返上していただきたい」



 その言葉は刀の一閃のように鋭く、徳川慶喜の胸を貫いた。彼は一瞬、目を閉じ、深い呼吸をした。喉元に苦いものがこみ上げるが、表情には出さない。睨みつけるような眼差しを伊藤に向けた。



「なるほど。だが、こちらも無条件で返上するつもりはない。それでは、あまりに理不尽ではないか」彼の声には、譲歩を拒む固い意志と、幕府の最後の威厳が宿っていた。



「将軍様の言い分も分かりますが、我々も譲れぬ筋があるのです」



 伊藤博文が鋭く返す。その背後では、西郷が無言のまま、腕を組んで様子を見守っていた。広間に静寂が走る。張り詰めた緊張が、まるで刀と刀が触れ合う直前のようだった。



その沈黙を破ったのは、勝海舟の柔和な声だった。



「まあまあ、お二人とも。そのように角を突き合わせても、良い解決策は出ませんよ。将軍様、何か譲歩できる案はございませんか?」



 徳川慶喜は勝海舟に視線を向け、眉を寄せた。そして、思考の渦に再び沈む。薩長に政権を渡すなど屈辱以外の何物でもない。だが、ここで完全に退けば、徳川家が歴史の舞台から完全に消える。それだけは避けねばならない。



――新政府に、何らかの形で関与できれば……。



 その考えが電撃のように閃いた。



「そうだ、私自身が新政府に入るというのはどうだ?」徳川慶喜の目が鋭く光った。しかし、その言葉に伊藤博文は即座に反応した。



「それはできません。将軍様が新政府に入るとなれば、形だけの政権交代になってしまう」



「ふむ……」慶喜は苦々しく唇を噛んだ。だが、このまま引き下がるつもりはない。何としても幕府の影響力を残す。それが徳川の矜持だ。



 その時、彼の側近が思わず呟いた。



「あの……もし幕府がなくなったら、私はどうすればいいのでしょうか?」



 広間の空気が凍りついた。側近の発言はあまりに場違いで、伊藤も西郷も思わず顔を見合わせた。



「ばか者! こんな場で自分の心配をするとは、何を考えている!」慶喜が怒鳴りつける。



 しかし、勝海舟がその場を取り繕うように口を開いた。



「いや、将軍様。彼の言い分にも一理あります。幕府の崩壊で多くの者が職を失う。彼のように不安を抱く者は少なくないでしょう」



 その言葉に、慶喜の目がわずかに揺れた。彼は大きく息を吐き、視線を落とした。そして、静かに語り始めた。



「……分かった。政権返上の見返りに、私の部下たちを新政府で働かせてほしい。それだけは譲れない」



 その目には、幕臣たちへの責任と、最後の誇りが宿っていた。伊藤博文は困惑した表情で腕を組み、しばし沈黙した。



「それくらいなら、致し方ありませんな」勝海舟が静かに言う。



「部下たちの面倒を見てやってくれ」慶喜は深く頭を下げようとしたが、側近が慌てて止めた。



「殿、どうかそのようなことを……!」



 その光景を見た伊藤は、ため息をつき、渋々と頷いた。



「分かりました。部下たちは新政府で適切に処遇しましょう」



 徳川慶喜は、着物の袖で顔を覆う。その陰で、彼の口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。送り込まれた側近たちが、新政府の中で幕府の意志を残す――それが彼の密かな策略だった。

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