伊藤博文は、重厚な木製の机の前で深々とため息をついた。その音は、静かな部屋にひときわ大きく響いた。窓の外には東京の街が広がり、冬の冷たい風が木々を揺らし、空気が一層凛と引き締まるように感じられた。寒さと無情な風が織りなす厳しさとは裏腹に、伊藤の心の内側には、熱を帯びた確信と共にわずかな焦燥が渦巻いていた。彼はその焦燥が、どこか自分を追い詰めるように感じられていた。
机の上に散らばる書類や地図が、わずかに手に取られるのを待っているかのように静寂の中で並んでいた。彼の指先は、その上を何度もなぞったが、目の前に迫る未来への不安が、まるでその紙面を超えてきそうだった。長い間、戦争の終結を目指して尽力してきたが、その先に待ち受けるのは未知の未来だ。これが本当に望んだ形で終わるのか、確信が持てなかった。
その時、重厚なドアがゆっくりと開き、ひときわ大きな足音が部屋に響いた。西郷隆盛と勝海舟が入ってきたのだ。西郷は堂々たる体躯で、まるで部屋の空気を圧倒するように立っていた。その鋭い目つきは、どこか伊藤を見透かすかのように鋭く、伊藤が思わず身を引くような感覚に捉えられた。西郷の表情は、隠しきれない焦燥と疑念が交錯しているように見えた。一方、勝海舟は落ち着いた佇まいで、顔に浮かぶ微かな微笑みが、まるで冷静さを装うための仮面のように思えた。しかしその目には、見えない鋭さがあった。
伊藤は二人を前に、軽く口元を引き締めると、静かな声で告げた。彼の声には、確信とともに僅かな挑戦的な響きが込められていた。
「長い間、苦労をかけた。まもなく、この世界から戦争はなくなる。戦争が好きな二人には残念かもしれないが――」
その言葉が終わらないうちに、西郷隆盛が大股で数歩近づき、低い声で遮った。
「ちょっと待ってください! 戦争がなくなるのは構いません! でも、どうやって勝つおつもりですか? 『フランスをはじめ、各国が降伏する』と言ったそうじゃないですか!」
西郷の目には、怒りとも焦燥ともつかない光が宿っている。それは、まるで一度信じたものを崩さなければならないという決意が込められているようでもあり、また、伊藤が何かを隠しているのではないかという疑念も込められているように見えた。勝海舟も腕を組み、冷静な表情の裏に疑念を浮かべていた。彼の目は、伊藤の言葉の真意を探るように鋭く、その瞳の奥にわずかな違和感を感じ取っているようだった。
伊藤は軽く頷き、冷徹な目で二人を見つめ返した。目の奥に、長年の戦乱を終わらせるという固い決意と共に、彼が選んだ道に対する自信が滲んでいる。しかしその自信には、ほんの少しの不安が共存していることを、誰もが感じ取っていた。
「それについては、問題ない。二人とも、アメリカのマンハッタンで極秘裏に開発中の爆弾を知っているな?」
その言葉に、勝海舟の眉がわずかに動き、驚きと疑念が交錯した。しかし、すぐに彼の顔に浮かぶのは冷静な分析だった。
「ああ、『原子爆弾』と名付けられた兵器ですか。でも、あれは実験さえ行われていません。原理を発見しただけです。脅したとして、各国が簡単に降伏するでしょうか」
勝の冷静な分析に対し、伊藤は微かな笑みを浮かべた。その笑みには、彼の持つ情報と実行に自信が満ちていた。
「まあ、もうそろそろ各国から降伏の連絡が来るさ。噂をすれば――だ」
その瞬間、ノックの音が部屋に響いた。ドアがゆっくりと開き、側近が手紙の束を抱え、にっこりと笑みを浮かべて入ってきた。その笑顔には、何か確信めいたものが感じられた。西郷と勝は目を見合わせ、沈黙の中でお互いの顔を確認するように見つめ合った。重苦しい空気が部屋を支配していた。
「その様子からするに、手元の手紙は『降伏する』という内容だろう?」
側近は深く頷き、力強い声で答えた。
「ええ。『大日本帝国の新兵器、原子爆弾の前では無力である。無条件降伏をする』と」
その言葉に、西郷の目が怒りに燃え、勝海舟は険しい顔で疑念を口にする。
「おかしくないですか? 手紙だけで存在を認めるはずがありません!」
伊藤は冷静に懐から一枚の写真を取り出し、机の上に放り投げた。その写真には、荒涼とした砂漠の風景と、天を突くような巨大なきのこ雲が写っていた。その姿は、まるで天災のように広がり、その威圧感は言葉では表現しきれないほどだった。
勝海舟の顔色が一瞬で変わる。その目は、驚愕と共に疑念が入り混じった複雑なものになっていた。
「これは、どういうことですか! まさか、我々にも秘密で完成させていたのですか?」
その声には、裏切られたかのような衝撃と動揺が滲んでいる。伊藤はゆっくりと首を横に振った。その動作には、何かを誤魔化す気配など微塵も感じさせなかった。
「まさか。砂漠は精巧なミニチュアさ。そこに小型の爆弾で、きのこ雲を作った。それだけでは信じられないだろうから、原子爆弾の原理も一部を手紙に書いたさ」
その言葉に、勝海舟の目がわずかに揺れ、そして西郷は深く息を吐いた。彼の胸の内に何かがひとつ落ちる音がした。
「つまり、もともと全世界を相手にするつもりはなかったと?」
伊藤は目を細め、机の上の地図に目を落とした。彼の指先が、大日本帝国の領土をなぞる。その動きには、何か冷徹な計算が込められていた。
「そういうことだ。確かに、我が国には飛行機という新兵器がある。これを使えば、数年後には世界征服を成し遂げていただろう。だが、その間に戦争で何人の国民が亡くなると思う? 大勢の犠牲者の上に成り立つ世界征服など、天皇陛下は望まれないだろう」
一息つくと、伊藤博文はこう続けた。その声には、冷徹でありながらも、人間らしさが滲んでいた。
「今から天皇陛下に報告をしてくる。きっと喜ばれるに違いない」
伊藤博文は大仕事をやり遂げた達成感に浸りながら、背筋を伸ばし、静かにその場を立ち去った。