伊藤博文は重厚な執務机に肘をつき、静かに瞳を閉じた。西洋の大国と肩を並べるほどに成長した大日本帝国。その勢いは、南アメリカ攻略後も衰えることを知らなかった。しかし、繁栄の影には常に不安が潜んでいる。今や世界地図の大半は、日本とフランスによって塗り替えられている。残る勢力はわずかだが、そのわずかな国々が、今後の最大の障壁となるだろう。
伊藤は天井を見上げ、ふと口元を歪めた。フランス――かつては友好関係にあった国。だが、この関係が永遠に続くわけがないことは、彼自身がよく理解している。互いの領土が膨張し、利益が衝突する日が必ず来る。「その日」は、今はまだ見えぬ未来のようでありながら、背後から静かに忍び寄る影のようでもあった。
思考の海に潜る彼の心を、フランスへの武器供与の記憶が刺した。イギリスとフランスの戦争の折、自動式機関銃やダイナマイトといった新兵器を提供した――その代償として、フランスが中国進出を黙認したのは事実だ。だが、いくら戦略的な決断とはいえ、これが「やりすぎ」であった可能性は拭いきれない。新たに開発された飛行機があるとはいえ、全世界を相手にするには、楽観視できるほどの余裕はない。
執務室の大窓から差し込む月明かりが、伊藤の顔を照らす。彼は地図の上に目を落とした。北中米、インド、インドネシア、オーストラリア、そして中国――日本の領土は広大だ。だが、その多くが海に囲まれた島国である。一方、フランスはアフリカ大陸を手中に収めている。地続きの大陸と、孤立した島国。どちらが戦略的に有利かは、一概には言えない。
「いや、問題はない」――彼は自らに言い聞かせる。新兵器は飛行機だけではない。「奥の手」がまだあるのだ。できれば使いたくはないが、その時が来れば、迷いはしない。
ふと、執務室の扉が勢いよく開いた。側近が焦燥の色を浮かべた顔で駆け込んできた。手には、まだ新しいインクの匂いが残る新聞を握りしめている。
「首相! この新聞を見てください!」
伊藤は冷静に新聞を受け取り、その一面に踊る文字を目で追った。「大日本帝国を潰せ! 全世界で団結せよ!」――その見出しは、まるで冷水を浴びせかけるように彼の心を凍らせた。予想を超えた事態だ。これでは南アメリカ攻略どころではない。世界が一丸となり、日本に牙を剥こうとしている。
彼は深く息を吐き、机の上で指を組んだ。全世界が敵に回る中、大日本帝国本土の守備を固めることすら困難かもしれない。頭の中で冷徹な計算が巡り始める。資源、兵力、補給路――それらを全て再配置しなければならない。だが、その計算の中で、ふと一つの記憶が蘇った。フランスの貴族の娘――通商条約の際に日本が取った人質だ。
「……人質か」
伊藤は低く呟いた。その存在が今の状況で意味を持つとは思えない。人質一人で全世界の憎悪を抑え込めるわけがない。しかし、その時、彼の頭の中である考えが閃光のように走った。視線が鋭くなる。
「今から書く手紙を貴族の娘に渡し、フランスへ帰国させろ」
側近は目を丸くした。驚愕と疑念が入り混じった表情で、恐る恐る言葉を絞り出す。
「首相、まさか降伏するおつもりですか?」
伊藤は冷たく微笑んだ。その笑みには、不敵な自信が滲んでいる。
「いや、違う。その逆だ」
側近の理解が追いつかないのだろう。彼は口をぽかんと開けたまま、答えを待っている。
「まもなく、全世界は我が国のものになる。それも、意外な方法でな」
伊藤の声には、確かな信念と冷徹な策略が絡み合っていた。静寂の中で、世界の命運を決める一手が、彼の頭の中で形作られていく。