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第9話

 舞うように降ってくる淡雪が頬に当たって溶ける。

 校門で透一と分かれた侃爾はシイが身投げしようとしていた橋を渡っていた。外套を着ていても露出している指先が冷たい。

 矢庭に水の跳ねる音がして橋の下を覗くと、川の水面に何匹かの鴨が浮かんでいた。と、同時に目に入ったのは、狭い川辺で頭を守りながら蹲る菫色の着物を着た女だった。


 女――シイの体に次々と小石が飛んでくる。

 つぶてが飛んでくる土手の上を見ると、如何にも虐めを趣味としそうな意地悪顔の男児三人が、下品な笑みで石を集めていた。

 離れていても聞き取れる邪気のある言葉。降り注ぐ硬い雨。


 ――――あれがあるべき姿だ。

 ――――当然の仕打ちだ。


 恨みと復讐心が侃爾の心を凍らせる。

 己に言い聞かせて、目に焼き付けるようにその暴力的な光景を観察していた。


 が、川辺の枯草が点々と赤く染まっていくのを見ると途端に眩暈がしてきて、その場を逃げ去る他無かった。

 先ほど薬屋で購入した品々が、速足に合わせて学生鞄の中で跳ねる。


 商店通りの裏路地に入るのは初めてだった。知り合いでもいなければ、学生が他人の営みの場に近寄る機会など皆無なのである。侃爾は教えられた通りに十戸以上もある長屋の間を歩き、ついにシイの家を見つけた。雨風さえ凌げればいいというような小さく古い建物だった。


 彼女の家だと分かったのは、玄関扉に『死ね』『バイキン』などと書かれた紙が張られていたからだ。糊付けされたそれを一枚剥がし、形の整っていない文字の羅列を眺める。

 このような陰惨な嫌がらせを幼い頃にも見たことがある。あのときシイは同情してしまうほど泣きじゃくっていたが、今も同じように悲しんでいるのだろうか。


 ――――まあ、自分にはどうでもいいことだ。


 侃爾は紙を丁寧に元の場所に張り直した。

 学生服のポケットから紙煙草と燐寸(マッチ)を取り出し火をつける。

 吸い込んだ煙は脳の疲労を曖昧にし、吐き出せば凍てつく空気に白く残った。

 シイを見つけた橋はここからそう遠くない。待っていればすぐに帰ってくるだろう。

 ――――そう思っていたのに、煙草が底を尽きてもシイは帰ってこなかった。






「あ……。ど、ど、どう……」

 扉に寄り掛かったまま顔を上げると、以前にも増して顔を傷だらけにしたシイが戸惑ったように侃爾の様子を窺っていた。

「お前、どこに行っていた」

 侃爾が怒気を含んだ双眸と地鳴りのような低い声で尋ねる。

「あ、う……そ、そこの、橋に、い、いて……でも……あの……」

「そこからここまでならすぐだろう」

「ね、ね、眠ってしまって、……い、いつの、ま、間にか……その……」


 細切れの話し方に苛々していたが怒る気にならなかったのは、シイの言う『眠っていた』が『失神』のことだと察したからだ。たかが子ども相手に、どこもかしこも血塗れにして、頬には赤黒い痣を作っている。


「まさか約束事を忘れたわけではあるまいな」

 侃爾が腕組みをして責めるように言うと、シイはふるふると首を左右に振って「どうぞ、入って下さい」と玄関扉を指差した。

 施錠されていなかったようで、取っ手を引けば確かに開いた。

 滑りの悪い引き戸がガタガタと動く。


 ――――あまりに不用心だ。

 …………別にどうでもいいが。


 狭い土間に下駄を脱ぎ、何とは無しに振り返るとシイが上目遣い気味に侃爾を見ていた。止める声も掛からないので遠慮無く正面の障子を引く。そこは六畳の畳の間だった。

 埃の被った小さな食器棚とちゃぶ台があるだけのその部屋は閑散としていて、生活感がほとんど無い。


「な、何も、おもてなし出来るものが無く、……す、すみません」

 立ち尽くす侃爾から三歩ほど距離を取り、シイは頭を下げた。その拍子に畳に血が一粒垂れる。侃爾はぎょっとして一歩下がり、シイは台所らしき所から布切れを掴んで来て慌てた様子でそれを拭き取った。


「ご、ご、ごめんなさい。き、汚くて……」

「いや、……まず座れ。手当てをするから」

「でも……」

「『でも』じゃない。そういう約束だろう」





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