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第10話

 言いながら侃爾は腰を下ろし、鞄から茶色い硝子瓶に入ったヨードチンキと脱脂綿、医療用テープ、ガーゼとピンセットを取り出しちゃぶ台の上に並べた。そしてシイに濡らした手拭と小ぶりの椀を持って来るように言いつけ、戻ってきた彼女に自分の正面に座るように命じた。シイは戸惑いながらも侃爾の前に正座をする。彼女は居心地悪そうに膝の上に置いた両手を組んだり解いたりたまに侃爾の不機嫌そうな顔を窺い見たりしていた。


 侃爾が眉根を寄せる。

「まず傷の汚れを落とす。その手拭いで傷を拭いてみろ」

 シイは怯えた目をしながらも大人しくその指示に従った。顔を撫でた手拭いはすぐに赤く染まった。ついでというように両腕もさっと拭くと、土や砂利がぱらぱらと畳に落ちる。その間、侃爾は顔ごと視線を背けていた。布に滲んだ赤色を見ただけで眩暈がした。

「こ、これで……い、如何で、しょうか……」

 シイに話し掛けられ、せめて視界をぼかそうと目を細めながら彼女の顔を見る。


 血液が拭き取られると傷の様子や深さがよく観察出来た。侃爾のせいで出来た額の裂傷が一番ひどい。完治した傷のどれもがミミズのように隆起しているのを見ると、侃爾がつけた傷も刻まれたまま恐らく一生消えないだろうと思った。


 侃爾は下唇の裏を嚙みながら小鉢にヨードチンキを垂らし、そこに脱脂綿を浸して、その中の一枚をピンセットで摘まみ上げた。

「次は、消毒をする」

 その言葉に、シイが眠るように目を閉じた。まるで無防備な仕草に侃爾は当惑した。しかしすぐに己の弱さを隠すのに好都合と考え直し、薄目のまま、褐色に染まった脱脂綿を額の深い傷に当てた。

 ――――まるで反応が無い。

 侃爾の方がじんじんと痛みを覚えて脱脂綿を遠ざける。不安感に襲われぐらぐらと揺れそうな視界を律するために、太ももに爪を立てた。


 動揺する侃爾とは逆に、シイはどの傷に触れてもじっとしていた。

 冷や汗で背中がぐっしょりと濡れる。

 すべての傷を処置し終えたとき、侃爾は暫し放心して声も出なかった。手の震えが収まる前に、シイが目を開ける。

「あ……あり、がとう、ご、ございます」

 顔の半分がヨードチンキに染まったシイが畳に額がくっつくほど頭を下げる。


「おい、まだ終わってないぞ」

 侃爾がちゃぶ台からガーゼを手に取ると、シイはじっとそれを見つめてから短く返事をし、再び瞼を伏せた。呆れるほどに危機感が無い――というよりこの態度の底には自棄があるように感じられる。自分をひどく粗末に扱っているような。


 傷に合わせてガーゼの大きさを整え顔に宛がったとき、指先がシイの不健康なほど白い肌に触れた。ドキリとして思わず引っ込めてしまいそうになった腕を制し、何故動揺する必要があるのだと自分を叱咤する。


 ――――傷に対する嫌悪があるから触れたくないのだ。

 ――――神経衰弱の悪い菌が移るという意識があるから近付きたくないのだ。


 それから侃爾は無心で処置を進めた。

 やはりシイは呼吸をしているのかすら怪しいほど静かにしていて、侃爾が名を呼ぶまでされるがままでいた。


「あ、あ、ありが……」

「お前」

 侃爾が両手を揉み合わせながら、シイの言葉を遮る。

「傷に触れられて痛いとか思わないのか」

 鋭い目つきで問う侃爾に、シイはたじろいだ。

「い……痛くない、です。もう、その……あまり、感じなくて」

「感じないというのはどういうことだ」

「ど、どう……? あの、ただ、いつからか……ふと、消えて」

「……それは便利なことだな」


 侃爾は投げやりに返したが、ひどく暗鬱とした気分になった。

 それならば、激しい暴力を受けても声すら上げない理由に合点がいく。

 しかし痛覚が突然消え失せるなど、脳や神経を傷つけ無い限り起こる筈が無いのだ。であれば、心的な原因が痛覚を鈍麻させたのだろうという予測は容易についた。――が、そんなことは侃爾の気に留める事項では無い。そう無理矢理思考を遮断した。


 傷の処置に必要な物はここに置いておくと告げて立ち上がる。部屋を出るとシイも慌てて追いかけて来た。学生帽を被る。

「また」

 言うとシイが頷いたのか礼をしたのか分からないような頭の下げ方をした。

 みぞれのせいで闇は湿っていた。


 己の節の目立つ手が軟弱にも震えている。

 生々しく新鮮な血の色が、網膜に張り付いて離れない。侃爾は恐怖心のままに叫びたくなった。

 一瞬だけ立ち止まる。しかし侃爾の強靭な理性は無様な感情の発露を許さなかった。

 息を整えて一歩踏み出す。


 耳元で、赤い雫が滑り落ちる音が聞こえた。

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