それから何日か、侃爾はぼうっと過ごしていた。
それに気が付いたのは学友たちからの指摘で、本人は至って平時通りに過ごしていたつもりであった。透一などは「ついに侃爾にも春が来たか」と茶化した。
「そういうものとは一切無縁だ」
大真面目な顔で侃爾が言うと、透一は、
「お前は女っ気が無くて寂しい男だなあ」
とからかうように笑った。
実家の医院を継ぐ予定の透一にはすでに許嫁がいる。
女学校に通ってはいるが病気がちで、家で過ごす時間のほうが長いのだという。その為、透一は休日になるとせっせと土産物をまとめ朝一番の電車に乗って相手のもとへ向かう。女の為に時間を使うなど軟派だと思う反面、侃爾は少しだけ羨ましくも思っていた。心の中に好いた相手の残像があるというのはどういう心地だろう。独り身の多くが考えるようなことに、侃爾も想像を巡らせていた。
侃爾は折れてしまった教科書の端を指先で伸ばしながら、机の傍に立つ透一を振り向かず呟いた。
「俺だって憎い女のことなら考えている」
「ふうん。恋仲だった女か?」
「そういうのじゃない。俺の大事なものを傷付けた奴だ」
「ああ、何となく察しがついた」
言いながら透一は僅かに口角を上げた。
侃爾は喉を絞られているような掠れた声で独り言つ。
「どうやったら同じくらい、いやそれ以上に傷つけられるのか……」
「何だ、そんなことで悩んでるのか。簡単だろう。同じ目に合わせてやればいい」
透一の言葉に侃爾が大仰に顔を顰める。
「歩けなくしてやれと?」
「そう。それで気が済むなら」
食事場所でも決めるように透一は言ってのけた。
侃爾は黙った。
起こった現実を足して得られる解が、それくらい単純明解であるならよかったのに。
「――侃爾は優しいからな」
透一は優しく笑って、侃爾が弄っていた教科書の端に手を置いた。そしてゆっくりと火熨斗を掛けるように滑らせる。ぱっと離しても刻まれた折れ線は戻らなかった。
「それもある意味恋なのかも」
透一が人差し指を立てると、侃爾が彼の腹を軽く殴った。
「馬鹿言うな」
「うん、まあさ、嫌がらせくらいにしておきなよ。過激なことをすると自分が後悔するから」
「……分かってる」
もう十分に過激な罰を与えてしまった――――とは、言えなかった。
嫁入り前の女の顔に、など。
侃爾が肺を空にするような溜息をつくと、透一は端正な顔を愉快そうに緩めた。