侃爾が低い声で呼び掛ける。
文机に向かっていたシイは体を跳ねさせてから振り返った。
「前も言ったがな、こんな暗いところで作業が出来るか?」
叱られていると感じたらしいシイは、吐息を震わせながらで謝った。
「質問しているだけだ。暗くて不便じゃないのか」
「ふ、不便、では……無いです。いつも、こ、こう、なので……」
「……そうか」
そんなわけなかろう、と思う。
しかし侃爾は言葉を飲み込んで、ちゃぶ台に広げていた本を鞄に詰め始めた。シイが静かに近付いてきて「幼い頃と同じく、本を読むのが……お、お好き、なんですね」と侃爾の傍に膝をつく。
「別に、日課みたいなものだ」
「生前……父も、ほ、本を集めていまして。もし、お好みのものがあったら、持って行って下さい。そちらの部屋の、お、押し入れに、まとめてありますので」
「いや、それは――……」
侃爾は迷った。
彼は接触で『バイキン』が感染するのだと聞いたことがあった。
医療の知識の無い者が吹聴していたことだが、否定出来るほどの経験や知識を侃爾は持ち合わせていなかった。もし噂が真実であれば、物を介して、――否、この家にいること自体に感染の危険が伴っているに違いない。それを受け入れていい筈が無かった。嫌悪の対象と同じになることは許されない。
押し黙った彼の逡巡の理由を悟り、シイは膝の上で両手を握り合わせて「いえ、な、何でも、……ありません」とどこか自嘲するように唇を歪めた。猫がニャアと鳴いて女の尻の辺りに頭を撫でつける。目を細めるさまはひどく幸福そうで、顎を擽られると喉を鳴らした。
「随分懐いているな」
侃爾はわざと話を逸らした。
シイは膝に乗ってくる猫を受け入れ、毛並みを整えるように手を滑らせる。
普段怯えるような表情ばかりの彼女が微かに頬を綻ばせるのを、侃爾は郷愁に似た気持ちで見ていた。自分には到底踏み入ることの出来ないような甘く穏やかな雰囲気に、油断をすれば侃爾も芯を抜かれてしまいそうになる。
「仲良く出来て、嬉しい……可愛い、です」
照れたように言うシイが猫を抱き上げると、それは餅のようににゅうと伸びた。ふわふわと毛の立った腹に鼻先を押し付け、心底愛おしそうに微笑むシイを見たとき、侃爾の心臓はドキリと跳ねた。激しく胸骨を叩き始めた臓器を隠すように外套を羽織り、侃爾は焦って障子を開ける。
「また、来る」
告げて、猫と共に土間に出てきたシイを振り向かずに家を出た。
お気をつけて、と言うシイのたどたどしい声が背中を撫でた。
寮に帰って食堂で一人残りものを食べていると、浴衣姿の透一が「今日は冷えるな」と己の腕を擦った。
「憎い女のところだろう?」
言いながら侃爾の隣に座して肘をつく。
侃爾がコロッケを頬張ると、彼は女受けする顔で「一途だな」と愉快そうに笑った。
「嫌がらせがそんなに楽しいのか?」
「……別に、楽しくは無い」
「一発殴って許してやればいいじゃないか。お互い面倒じゃなくていいだろう?」
「そんなこと、お前出来るか。……女に」
「じゃあ思いきり優しくして好きにさせて振るっていうのはどうだ? 勝手に身投げしてくれるかもしれないぞ」
なーんてな、と人懐こい笑みを浮かべる透一を一瞥して、侃爾は重い溜息をついた。
「後味が悪い」
シイの傷だらけの顔が思い浮かんだ。殴らなくても傷は増えるし、好意を持たせて振らなくても身投げをするのだ。では自分が出来る報復とは何だろう。絶対に滲みるであろう消毒も、いくら塗っても効いていないようだし。
嚥下しているのが食い物なのか石ころなのか判然としないまま皿が空いた。
透一は己の横髪を弄りながら、
「まあ、侃爾が憎むくらい悪い奴ならそのうち勝手に罰が当たるさ」
と怪しく微笑み、と食堂を出て行った。
近所の銭湯に行き、温まった体で布団に入っても寝つきが悪かった。
シイは今頃夕餉を済ませてぐうすかと眠っているだろうか。
いつも世辞にも健康的とは言えない顔色をしていて、握っただけで折れてしまいそうな貧しい体格をしている女が、そんな暢気な生活をしているだろうか……。
渦にはまったように考えて、しかしこんなくだらないことを考えても仕方が無いと思い直して寝返りを打った。
搔巻を掛けていても首元から冷気が入ってくる。
そういえばシイは四畳間で一人、暖も無く仕事をしていた。よほど寒かったに違いない。猫を抱き寄せたくなる気持ちも分かる。
――――いや、これ以上考えるな。
侃爾はようやく眠る努力を始めた。頭蓋の中に蓋をし、心の声を遮るように耳を塞ぐ。透一の寝息も聞こえない。夜が明ければ不要な想像も消える筈――そう期待しながら瞼を落とした。