シイと猫は見に行くたびに仲を深めている様子で、猫のほうなどはシイが動けば金魚の糞のようについて回った。シイもまんざらでもないように構い続けるから、どちらも侃爾のほうなど見向きもしない。
熱い茶の入った湯呑を侃爾の前に置いて、彼女は真新しいガーゼが乗った頬を撫でる。
「だいぶ、な、治って、きました……の、ので」
「次の傷が出来るまで暫く来るなと?」
険のある言い方して茶を啜ると薄い味がした。
シイがぶんぶんと首を振る。
「な、何も、面白いものが無い家ですし……その、ば、バイキンが移ると、皆さんがゆ、言うので……」
震える語尾を聞いていると口の中が苦くなる。
神経衰弱とは本当に感染するものなのか、医師を志す者としては、やはり長い間疑問を抱いていた。数年前に精神病院法が公布されたが、いまだ病院数は多くなく、私宅監置で対処する家も多いと聞く。予測不能で危険な人間を健常人が忌避するのは当然であるし、実際にその実害を受けた家族を持つ自分が、神経衰弱の気があるシイを痛めつけるのは何も突飛なことでは無い。やり返しに遠慮気味の弟だって心ではそう思っているはずだ。――同じような辛い目にあってほしい、と。
侃爾は返事の代わりに勢いよく茶を飲み干して、シイの膝の上で己を見つめる猫に視線を落とした。
濁り無い湖を広げたような瞳がまるで責めるように侃爾を見ている。否、責められてると思うのは被虐的な妄想かもしれない。猫は言葉を発さないのだから。
「か、可愛い、ですよねぇ」
シイが猫に向ける侃爾の視線の意味を勘違いして、緩んだ声を出したことに驚いた。
儚い声質に足された甘みが、侃爾の耳孔にも優しく響く。
猫を見下ろす彼女の瞳には確かな慈愛が籠っていた。
「わ、私が、いなくなっても……だ、誰かにごはん……もらえると、いいのだけど」
小さな頭をゆっくりと丁寧に撫でる。
――――『私がいなくなっても』。
猫の未来を心配するシイの声が、侃爾にはまるで自傷のように聞こえる。言葉が見つからず、侃爾は聞かなかったふりをして煙草を吸いに外に出た。
雪が降らない冬の日は冷えがひどい。
玄関扉には、相変わらずひどい侮辱や悪口の書かれた呪いの札が隙間が隙間が無いほど貼ってある。
侃爾は糊付けされてあるその紙をバリバリと剥して足元に落とし、半分の長さになった煙草をポイと投げ込んだ。
落ちたばかりの夕日と同じ色の赤が、薄墨色の夕闇に小さく灯る。火はすぐに広がり、大量の紙を黒い灰に変えた。
悪意の死骸に残雪を被せて踏みつけ地に還す。
きれいになった扉を見ると、釜の中のしつこい汚れを落としたような清々しい気分になった。
家の中に戻ると、シイと猫は仕事部屋に籠っていた。
侃爾は腰を下ろす前にそちらを覗き声を掛けた。