「火が無いと寒いだろう。こっちでやったらどうだ」
シイは文机から侃爾に視線を転じて、「あ、で、でも……」と困った顔をした。
「俺は別に気にしない」
侃爾がどすんと座る。本を開くと一番に猫が来て、続いてシイが小さな文机をやたら重そうにふらつきながら運んできた。何度か往復して仕事道具を運ぶ。その忙しないさまを、侃爾は本で顔を隠しながら観察していた。
ちゃぶ台の隣に並べた文机に向かい、静かに息を吐いたシイが顔を作成途中らしき櫛に近づける。
すっと通った鼻先と板面の間、およそ一寸(約三センチメートル)。流石に近過ぎるのでは、と侃爾は訝る。
「目が悪いのか?」
思わず尋ねた。
シイは背筋を伸ばして、
「あ、はい、み、右目が……」
と長い前髪の上から右目に触れる。
「右目が悪いのか?」
「え、と、見えて、……いないようです」
侃爾は絶句した。
幼い頃は見えていたはずだ。めくらだという噂は無かった。
眼病か。否、嘘だ。それよりも有力な原因を、侃爾はとっくに思い浮かべていた。
「他人(ひと)に、やられたか」
侃爾の確信の籠った問いに、シイは控えめに頷いた。
肺を空にするような溜息を吐きそうになり、侃爾は堪える為に下唇の裏を噛んだ。読みかけの本の頁が手汗で湿る。
「でも、もう片方の目は、み、見えます」
「ああ、…………そうだよな」
空しさが広がる。
消えない傷、見えない目。
あとは?
隠れたところに、どれだけの瑕疵を負っている?
再び櫛に左目を近づけたシイに倣って、何も気にしてないというふうに侃爾は本に視線を落とした。
すると背中に温かいものが触れ、くるりと正面に回って来た猫が侃爾の胡坐の上で丸まった。
「俺の足じゃあ硬いだろう」
ニャアと返事をするように鳴く。
「あっちに行けよ」
シイに視線を投げるも、彼女は貝片を櫛に貼り付ける作業に夢中で、侃爾と猫のやり取りには気付いていないようだった。
侃爾は小さく息をつき、指先で猫の腹を擽る。
「……二つあるならば一つが無くなっても平気だと、――そういうものなのだろうか」
シイには気付かれないよう、猫に向かってひとりごちた。
もし、自分の目が、家族の目が、友人や恋人の目が――――。
そんな想像をするだけで心臓が凍りそうになる。
猫が高い声でニャアと鳴く。
まるで己の暗い思考を理解し共感しているように鳴くから、侃爾は三色の毛を掻き分けて柔らかな皮膚に触れ、欠けたところの無い生物の体温に癒しを求めた。