「お帰り~!」
母――瑠璃子(るりこ)が機嫌良く広げた腕を躱した侃爾は、物静かな父――春一(はるいち)に促さるまま実家の奥座敷に入った。
並んだ二人に向き合うと、春一が柔和な笑みを浮かべて侃爾に声を掛けた。
「学業の方はどうだい?」
「変わりない。一か月前に報告した通り」
侃爾は平坦な調子で答える。
「寮の生活は? 学友とは仲良くしてる?」
「問題無い」
「じゃあ、何か困っていることは?」
父の微笑みを眺めながら侃爾は寸の間考えた。
最近ずっと頭の隅にある靄のようなものをどうすればよいか、という悩みなどはあまりに抽象的で打ち明け難い。その靄が女に似た形をしているなど、ますますもって問い難い。
黙していると、何かを察したらしい春一が二、三度頷き「そういう年頃だもんねえ」と意味深に呟いた。父の勘違いを否定しようと侃爾が口を開けると、
「やだ、春一さん。侃爾ったらお付き合いしている方がいるの?」
と瑠璃子が横やりを入れてくる。
「さあねえ。でも、本当に仲の良い子がいるならそのうち連れておいで。悪いようにはしないからさ」
教師の手本のような親しみやすく穏やかな口調で春一は微笑む。対して隣の瑠璃子は、「どんな子かしら? 女学生さん? どこの生まれの方?」と声を弾ませて身を乗り出した。侃爾が瑠璃子の下世話な質問を適当にあしらっていると、彼女はやがて膨れっ面をしてそっぽを向いた。
そこにルカが茶を出しにやって来て、不貞腐れた瑠璃子の様子に気付くとワハハと笑った。
「仲間外れにされましたか?」
「そうなの。侃爾ったら意地悪なのよ」
「それはいけませんねえ」
「そうよね、そうよね」と泣き真似をした瑠璃子がルカの腰に腕を絡ませる。湯気を立てる湯呑を乗せた盆を持っていたルカは、おっとっと、と膝をついた。
「危ないですよお」
「あら、ごめんねえ」
賑やかな二人を緩衝材のように感じながら、侃爾は春一に清那の様子について尋ねた。
父は「あの子も変わりないよ」と茶を啜る。
「この間来た女の子はやめちゃったけどねえ」
「せつ子、という名の? 彼女を紹介したのは一週間前の筈だが」
「まあ、でも嫌だったんでしょう。相性というものもあるし。しかしながら清那はものを教えるのが不得手と見た。こんなに何人も短期間でやめてしまうなんて」
「清那が相手をしているのは知恵遅れで神経衰弱な女どもだろう。きっと向こうが勝手に音を上げるんだ。そもそも何でそんな面倒なことを続けてるのか……」
侃爾が苦い顔でぼやく。
春一は鼻にかかった声で唸りながら顎を掻いて、天井のランプを見上げた。
「『出来が悪くて可哀想な子』、というのは目を掛けてやりたくなるものじゃないかい?」
「え?」
「ほら、馬鹿な子ほど可愛いと言うだろう。まさにそれだよ。うん、そういう意味では清那と僕はよく似ている」
侃爾には分からないかい? と春一がゆっくり口角を上げる。その表情の作り方が、驚くほど清那に似ていることに今更ながら気付いた。
侃爾は瑠璃子がそうしたのと同じようにそっぽを向いて、
「馬鹿は馬鹿だ。俺には分からない」
と吐き捨てた。
作家業も手がける父が、締め切りがどうだと書斎に籠るのと同時に、侃爾も世間話に花を咲かせる女二人を置いて二階へ上がった。皆が集まっていた階下とはまるで違う静寂が、三室しか無い階上の空間には寒々しく広がっている。