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第21話

「お帰り~!」

 母――瑠璃子(るりこ)が機嫌良く広げた腕を躱した侃爾は、物静かな父――春一(はるいち)に促さるまま実家の奥座敷に入った。


 並んだ二人に向き合うと、春一が柔和な笑みを浮かべて侃爾に声を掛けた。

「学業の方はどうだい?」

「変わりない。一か月前に報告した通り」

 侃爾は平坦な調子で答える。

「寮の生活は? 学友とは仲良くしてる?」

「問題無い」

「じゃあ、何か困っていることは?」

 父の微笑みを眺めながら侃爾は寸の間考えた。


 最近ずっと頭の隅にある靄のようなものをどうすればよいか、という悩みなどはあまりに抽象的で打ち明け難い。その靄が女に似た形をしているなど、ますますもって問い難い。

 黙していると、何かを察したらしい春一が二、三度頷き「そういう年頃だもんねえ」と意味深に呟いた。父の勘違いを否定しようと侃爾が口を開けると、

「やだ、春一さん。侃爾ったらお付き合いしている方がいるの?」

 と瑠璃子が横やりを入れてくる。


「さあねえ。でも、本当に仲の良い子がいるならそのうち連れておいで。悪いようにはしないからさ」

 教師の手本のような親しみやすく穏やかな口調で春一は微笑む。対して隣の瑠璃子は、「どんな子かしら? 女学生さん? どこの生まれの方?」と声を弾ませて身を乗り出した。侃爾が瑠璃子の下世話な質問を適当にあしらっていると、彼女はやがて膨れっ面をしてそっぽを向いた。

 そこにルカが茶を出しにやって来て、不貞腐れた瑠璃子の様子に気付くとワハハと笑った。


「仲間外れにされましたか?」

「そうなの。侃爾ったら意地悪なのよ」

「それはいけませんねえ」

「そうよね、そうよね」と泣き真似をした瑠璃子がルカの腰に腕を絡ませる。湯気を立てる湯呑を乗せた盆を持っていたルカは、おっとっと、と膝をついた。

「危ないですよお」

「あら、ごめんねえ」


 賑やかな二人を緩衝材のように感じながら、侃爾は春一に清那の様子について尋ねた。

 父は「あの子も変わりないよ」と茶を啜る。

「この間来た女の子はやめちゃったけどねえ」

「せつ子、という名の? 彼女を紹介したのは一週間前の筈だが」

「まあ、でも嫌だったんでしょう。相性というものもあるし。しかしながら清那はものを教えるのが不得手と見た。こんなに何人も短期間でやめてしまうなんて」

「清那が相手をしているのは知恵遅れで神経衰弱な女どもだろう。きっと向こうが勝手に音を上げるんだ。そもそも何でそんな面倒なことを続けてるのか……」

 侃爾が苦い顔でぼやく。


 春一は鼻にかかった声で唸りながら顎を掻いて、天井のランプを見上げた。

「『出来が悪くて可哀想な子』、というのは目を掛けてやりたくなるものじゃないかい?」

「え?」

「ほら、馬鹿な子ほど可愛いと言うだろう。まさにそれだよ。うん、そういう意味では清那と僕はよく似ている」

 侃爾には分からないかい? と春一がゆっくり口角を上げる。その表情の作り方が、驚くほど清那に似ていることに今更ながら気付いた。

 侃爾は瑠璃子がそうしたのと同じようにそっぽを向いて、

「馬鹿は馬鹿だ。俺には分からない」

 と吐き捨てた。


 作家業も手がける父が、締め切りがどうだと書斎に籠るのと同時に、侃爾も世間話に花を咲かせる女二人を置いて二階へ上がった。皆が集まっていた階下とはまるで違う静寂が、三室しか無い階上の空間には寒々しく広がっている。



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