和己は日が暮れた空を数時間ほど飛び続けた後、町はずれにある廃墟になったアパートを見つけ鍵のかかっていなかった一室に入りこむ。月明かりしか差さない室内は薄暗く寒い。両翼をたたみ巨大な蝙蝠の怪物じみた姿から人間の姿に戻ると着ていた喪服の上下やネクタイとシャツは形状が記憶されているかのようにそっくりそのまま新品の状態に戻っていた。
「……瑠花、出ておいで。ここなら安全だよ」
《うん》
和己はスーツとシャツを脱いでを上半身を晒し、体内にいる瑠花に外へ出てくるように促す。和己の胸から腹のあたりの青白い皮膚が縦に割れ、中から制服姿のままの瑠花が這い出てくる。紺色の制服や三つ編みにされた色素の薄い髪は和己の血でじっとりと黒く汚れていた。
「大丈夫だったかい、どこか怪我は?」
「……ううん。父さんが避けてくれたから平気。それよりも」
瑠花の手が紘子がつけた和己の胸の傷口に触れる。傷は時間の経過で幾分かふさがってきていたが出血はまだ完全には止まっていなかった。
「父さん私の血……吸ってもいいよ。傷、ひどいんでしょ」
顔の前に差し出された瑠花の首筋から漂った血の香りに和己の喉がぐっ、と鳴る。しかし自宅にいた時に吸えるだけ吸ってしまったことを思い出し、今すぐに血を吸いたい衝動を自分の手のひらを噛んで必死に抑えこむ。
「父さん?」
「いや……今はいい。それより瑠花、自分の体が保てなくなる前に父さんの血を飲め」
和己は瑠花の顔を両手で包みこんで自分の血が流れ続けている胸の傷口のほうによせる。
「でも……。それじゃ父さんが」
「構わない。瑠花が飲めるだけお飲み」
瑠花は和己の顔を不安げに見上げていたがやがておそるおそる舌を出して流れる黒い血を舐め始めた。瑠花の舌が紘子に貫かれた傷口にあたるたびにひりひりとした鋭い痛みが走るが、和己は声を出さないよう歯を食いしばって耐える。
「ごめん父さん。痛かった?」
和己は娘を心配させまいと首を横にふる。瑠花の舌が丁寧に傷口を舐めていく。和己が自ら噛んで屍人化させたせいか黒く変色していた。頬の蝙蝠の形の痣はさらに広がり、瑠花の額や顎のあたりまで達していた。
「……もう、いいのかい」
「うん」
和己は瑠花が傷口から顔を離したのに気づいて声をかける。瑠花は口元の血を手の甲でごしごしと拭ってから名残惜しそうに指先を舐めていた。
「こんばんは。ごめんね、2人だけの大切な時間に僕なんかが割りこんじゃって」
和己と瑠花の背後から陽気な声がした。2人が振り向くと和己と同じような喪服姿に白髪の初老の男が1人、ベランダの柵の上に器用に乗って見下ろしていた。
「父さん、この人誰。もしかしてさっきの奴らの仲間?」
「いや。この人は違うよ瑠花……
和己から骸と呼ばれた男は隣にいる瑠花を指さして「ありゃ、和己くんの娘さんかな。もしかして屍人化させたの?」と人懐っこそうな笑顔で見つめながら手を振って挨拶をする。瑠花は骸を警戒して和己を盾にするように後ろに隠れた。
「……あらら。嫌われちゃったかな僕。まあいっか。用は特にないんだけどさ、早くここから逃げたほうがいいと思ってね。あの子たち、もうすぐそこまで来てるし」
骸はそう言ってベランダの下を指さす。さっき交戦したばかりの紘子という少女と同じ制服を着た麻倉という青年が下の道を走っていく姿が見えた。
「わざわざご忠告ありがとうございます。では、また後ほど」
和己がそう返して翼を広げて飛び去ろうとすると骸に「ちょっと待った」と止められる。
「はいこれ。和己くん今傷を治すための血が足りないんでしょ。僕のならいつでも好きなだけ吸ってもいいからどうぞ」
骸が自分の尖った爪で手首を切り、和己に差しだす。傷口から溢れ出した黒い血を見た途端に抑えていた衝動についに抗えなくなった。和己は骸の足元に
「あはは、やっぱり凄い食いつきようだね。君もしかして
ずるる、と返事の代わりに和己が骸の血を啜る。胸の傷は異常な速さでふさがって薄らとした痕が残っただけだった。
「…………ごちそうさまでした」
「どういたしまして。じゃあ頑張って逃げてね」
骸は和己と瑠花に向かって笑顔で手を振ると、ベランダからくるりと宙返りしながら下の地面に飛び降りていった。