紘子が鼻をすんすん、と訓練された犬のようにひくつかせながら「あそこです」と廃アパートの部屋の1つを麻倉に指さす。
「今回は僕も行く。君がまた怪我をしても困るしね」
「えー。今度はちゃんと上手くやりますから、いつもみたいに外で待っててくれていいんですよ?腕だってちゃんとくっつきましたし」
紘子が麻倉の同行を断ろうと元気よく腕を振ってみせた時、廃アパートのベランダの柵の上に誰かが座っていたような気がした。紘子はあわてて目をこすって二度見をするが誰もいない。
「今……あそこに誰かいませんでした?」
「君の気のせいじゃないのか」
首をかしげる紘子に麻倉は呆れ顔で返し、目的の部屋に行くため廃アパートの入り口へと歩き出した。
*
骸の血を吸ったことにより、戦いで傷ついた和己の体にはいくらか体力が戻ってきていた。彼の忠告どおりさっさと逃げたほうが得策かもしれない。眠そうな様子の瑠花を再び体の中に収め、屍蝙蝠の姿に変身する。骸が出ていったベランダの柵に乗り、下の様子をうかがってから音もなく夜空へ飛び立つ。
(どこか……奴らに見つからない場所へ。もっと遠くへ行かなければ)
和己は休める場所を探して町の中を飛ぶ。自分のために常に血を流してくれている瑠花を少しでもゆっくりと休ませてやりたかった。高層ビルの外壁や屋上を走り、人間を超えた跳躍力で住宅街の民家を屋根から屋根へと次々に飛び移る。
《父さん、父さん。どこに向かってるの》
《誰にも……。いや奴らに見つからない遠いところさ》
《そんなの無理だよ。だってあいつ、すごく鼻が利くからどこかに隠れても絶対に見つかっちゃうよ》
瑠花が不安を隠さない声で呟く。確かにあの能力は非常に厄介だ。前回のは振り切って逃げたが、そう何度も体が傷つくのはリスクが高い。和己は飛び続けながら体内にいる瑠花と声を使わない会話で一緒に対策を練ろうと提案する。
《瑠花、あいつを倒す何か良い方法はないか考えてくれないか。父さんも考える》
《うん、わかった。考えてみるから待ってて》
*
紘子と麻倉が廃アパートの部屋に到着した時には中はもうもぬけの殻だった。元から誰もいなかったと言われれば普通の人なら信じてしまうだろう。けれども屍人である紘子の鼻には同じ屍人が発する独特な臭いが届いていた。
「湿った土と獣臭、あと血の臭いも少し……。間違いないですね。ここにいたのは屍蝙蝠さんです」
「それは分かった。奴はどこに行ったかはわかるか」
「うーん……そうですねえ。たぶんここから臭いは辿れるとは思うんですけど、かなり遠くに逃げてると探すのに時間かかりますね」
麻倉がそう返すと同じように胸の前で腕組みをした紘子は片手を顎にそえて思案する。
「麻倉さんもたまにはアイデアだしてくださいよ。ここ最近はいっつも私じゃないですか」
「僕はこういうの苦手なんだよ。紘子にそっちは任せる」
「……はーい、了解です。こっちで何とかしますね」
紘子は頷くと部屋に残る屍蝙蝠の臭いを辿ってみる。臭いは窓を挟んでベランダへと続き、そこからはぷっつりと途絶えていた。相手は翼を持っていたのでおそらく飛んで逃げたのだろう。
(ん。何だこれ。屍人の臭いがもう1つある……?)
「麻倉さん。あのちょっといいですか」
「何、どうかしたのか」
「屍人の臭いがなんか……もう1個あるんですけど」
紘子がそう言うと麻倉の眉が片方だけ疑うようにつり上がる。
「何だって?屍蝙蝠じゃないのか」
「違います。どうしますか」
「決まってるだろう、屍蝙蝠のほうを追う。アイツだけは……倒さないと被害者が増える一方だ」