その夜。和己は休める場所を探し求めて公園に来ていた。かなり遅い時間で彼らの他に人の姿はない。変身を解いてベンチに腰を下ろし、瑠花を解放して隣に座らせる。
「……どうやらお困りのようですね。もしかしてこれが要りますか」
いつの間にやって来たのか和己と瑠花の隣に骸が座っていた。瑠花が再び警戒して和己の背中にしがみつく。骸は微笑みをくずさず、和己に近づくと赤い水のような液体が入った小瓶を手渡してくる。
「骸さん、これは……?」
「屍人特有の体臭を消してくれるものです。少量体に塗りこむだけで嘘みたいに臭いが消えますよ。便利なので僕もよく使ってます」
骸は自分のスーツの袖をめくって中の液体を肌に塗りこんで実演してみせる。ほのかに花のような甘い香りがした。骸の気配はともかく臭いがしないのはこれのおかげだったのかと和己は納得する。骸から小瓶を受け取り瑠花に先に塗るように目で促す。
「お嬢さん……いえ瑠花ちゃんは元気になられましたか。この間はずいぶんと体力を消耗されていたようですし」
「ええ。この通りすっかり元気ですよ」
和己が瑠花を抱きよせる。骸はにこっと笑うと「それは良かった」と言ってベンチから立ち上がった。振り返り和己と瑠花に向かって一礼する。
「では僕はそろそろ行きます。ああそうだ。くれぐれも死なないでくださいね。困ったらいつでも頼ってください……見てますから」
「……骸さん。ずっと気になってたんですけど、どうして俺なんかにこんなに良くしてくれるんですか」
立ち去ろうとした骸に和己がぽつりと今まで感じていたある疑問を投げかける。
「それは……。前にも言ったでしょう。僕は君に期待してるんですよ和己くん。それから仲間が減るのはとても悲しいことですからね」
骸は一瞬だけ悲しみを顔に出したがすぐにいつもの人懐っこい表情に戻って和己たちに手をふった。
*
紘子と麻倉は人の気配がなくなった瑠花の自宅を拠点に数日かかって町中を探しまわったが屍蝙蝠の行方はつかめなかった。瑠花の母親の遼子は和己が訪れたのと同日から行方不明になっている。
「でも急にいなくなるなんて考えられないですよね。あれだけ強い臭いなら私の鼻が反応しないなんてことはまずないんですけど……」
「それは僕も思った。今までこんなことなかったからね」
リビングルームでテーブルをはさんで向かい合わせに座った紘子と麻倉はじっと考えこむ。
「もしかしてもう1人の屍人の仕業なんじゃないです?」
「君がこないだ言ってた奴か。でもそれだと……」
麻倉がそこまで言いかけた時、玄関でチャイムが鳴った。あまりにもタイミングがよくて2人は身構える。それから数回チャイムが鳴った後、諦めたのかドアが開き誰かが中に入ってくる。リビングルームのドアが開かれ、白髪を目元まで伸ばした黒いスーツ姿の男が入ってきた。
「ど、どなたですか」
「……いや、これは突然お邪魔をして失礼。どうもお困りのご様子でしたので参上したのですが。君たちは屍蝙蝠の行方を追ってらっしゃるのでしょう?」
白髪の男は麻倉のほうを見て頭の中を見透かしたかのように言った。紘子の鼻が男の体からかすかにする屍人の体臭をとらえる。紘子が麻倉に小さな声で囁く。
「麻倉さんこの人……屍人です!」
「え、それ本当か」
「ああ。やっぱりいい鼻をお持ちだ。この距離だとさすがに隠しても無駄みたいですね」
白髪の男は2人の様子を見てくすりと笑い、何かを思い出したのか話を続ける。
「ああ、そういえばまだ名前を名乗っていませんでしたね。失敬。僕は骸と言います。もちろんそこのお嬢さんが言ったとおりの屍人です」
「彼らの居場所、どうしてもお知りになりたいのならお教えしますよ。さあ……どうされます?」
*
骸が紘子と麻倉の前に現れてから1週間ほどが経ったある夜。骸は瀕死の状態の和己に追いすがられていた。仮住まいとして使っている廃屋の和室は障子を閉めきっても外からの隙間風が強い。あちこちが割れた
「る、かを……。骸さん瑠花、だけは。助けて……ください」
「君も……随分としぶといんですね和己くん。瑠花ちゃんなら先に亡くなりましたよ。あの傷ではもう手遅れかと。さすがの僕でも手の施しようがありません」
骸は左翼と足と右腕とを失い、黒く硬い毛が覆った屍蝙蝠の体に獣に引き裂かれたような爪痕だらけの和己の痛々しい姿を見下ろし、哀しげな深いため息をもらす。
「骸、さ」
「…………わかりました。そこまで言うのならやりましょう。ただし」
骸の言葉が和己が口から吐きだした多量の血が畳に落ちた湿った音にかき消される。骸はしゃがみこむと和己の背中を手が汚れるのも構わずに優しくさすってやった。
「ただし、それには条件があります。場合によっては瑠花ちゃんの体が不完全な状態で再生されるかもしれませんが……それでもやられますか?」
骸に背中をさすられながら和己は骸に向かって頷く。
「では手順をお伝えします。ですが……まずは一旦落ち着きましょうか。血をだいぶ流されたようですし、傷も酷い。このままでは瑠花ちゃんを蘇らせるよりも先に和己くんが死んでしまいます」
骸は肌を通して手のひらにふれる和己の脈拍が時おり乱れて不規則になるのを感じていた。これだけの大怪我で血を流していればいつ死んでいてもおかしくはない。
「さあ。すぐに僕の血を飲んでください」
爪で指の腹を切り、和己の口元へもっていく。和己の長い舌だけが別の生き物のように蠢き、骸の指から溢れる血を舐めとっていく。
「どうですか。気分は」
「ありがとう、ございます……」
小1時間ほど経ったころ。和己が骸の指先から唇を離した。片膝をついた体勢から立ち上がると貧血を起こしたのか軽くふらつく。空いているほうの手を和己の首にあてて脈を診るといくらかは力強さが戻っていた。
「…………よかった。それじゃあ僕はこれから町へ出かけるので、もし体調が戻ったら蘇生に使う材料を集めておいてください」
「俺は何を……集めればいいんですか」
「必要なのは……遺体を燃やした後の灰、蝙蝠の骨、それから僕ら屍人の血液です。何日かかっても構いません。多いほどいいのであるだけ集めてくれると助かります」
骸は和室の入口の障子を開き、言い忘れたことがあったのか和己のほうを振り返る。奥にある古い押し入れの戸を指して「中に布団があるのでよかったら休むのに使ってください。洗ってあります」と言って出て行った。
障子が閉められると、1人残された和己は人間の姿に戻る。片腕片足だけでバランスを取りながら押し入れまで行き、布団を出して敷く。ふと和己は和室の四隅に陶器の黒い小皿に盛った薄いピンク色の塩があることに気づく。鼻を近づけると甘い香りがする。おそらくこの部屋の結界のような役割をしているのだろう。
(……瑠花)
そのまま布団に倒れるように潜りこんだ和己は生きていたころに幼い瑠花と一緒に寝ていた記憶を、自分が今とはまったく違う穏やかな性格だったことを思い出す。無意識のうちに残ったほうの手がシャツの胸から腹の瑠花をいつも収めていたあたりに触れていた。
(お前だけは。父さんが……守る)
和己は「お休み」とだけ呟いて眠りに落ちていく。廃屋の中を冷たい隙間風がどこからともなく吹き抜けていった。
【了】