「武流ちゃんは良い人に巡り合ったのねえ」
那美は柔らかな笑みを浮かべたまま右手を頬に当てて首を傾げた。
そして何か含みのある視線を武流へと向けたのだが、当の武流本人はその視線の意味をまるで理解することなく——
「ああ、会ったばかりだけど、二人とも良い人だぞ」
と、何の含みも無い返事を返す。
「あらあら、武流ちゃんにはまだ早かったかしらねえ」
「いや、むしろ遅すぎるわ。四十のおっさんやで。ちゃんとそういうことも教えとかなあきませんよ」
「あの、お母様。決してそういう意味ではなくてですね……」
「でも本当に残念ねえ」
那美は目を細めたまま目尻を下げ、残念そうにそう言った。
「月読様——神様との契約は絶対なのよ。そこには人のどのような意思も割り込むことが出来ないの」
それは愛たちの希望を打ち砕く最終通告ともいうべき言葉。
ゆったりとした口調ながらも、その言葉は二人の心に重く圧し掛かる。
「……まあ、そらそうでしょうね。あれだけの力を与えられておいて、自由になりたいから破棄します、では通らんでしょう」
それは二人とも最初から解っていた。
解った上で、何か方法が無いだろうかと藁にも縋る思いで那美の下を訪れていたのだ。
だから——
「何でも良いのです!月読様との契約について詳しく教えてはくれませんか!」
最終通告だと感じていたとしても、そう簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
愛は額を畳に押し付けるように頭を下げ、心からの叫びを那美へと向けた。
「おい、初鹿野さん。何でそこまで……」
武流は愛の行動が自分の為であるということは理解していた。
しかし、どうしてそこまでして自分と月読との婚約を破棄させたいのかまではあまり理解していない。
那美の言うように自分の力を利用(武流としては必要とされている程度の認識)したいのだとしても、そのことについて嫌悪感を抱いてはいない。
そもそも武流は生まれてからずっと村のみんなの為に力を揮ってきたのだから、愛が武流の力を必要としているのであれば、可能な限り叶えてあげたいとすら思っている。
でも自分はこの村から離れることは出来ない。
だから愛は月読との婚約を破棄することで自分をこの村の外に連れて行きたいのだろう。だからこそ、ここまで必死になってその方法を見つけようとしている。
では——
——この村以外の外の世界を武流殿に知って欲しいのです。
その後の愛のこの言葉は?
武流は一度として外の世界に行きたいと考えた事はなかった。
話には聞いていたので興味はあったが、自分はずっとこの村で生き——そして死ぬ。
そして魂となった後は月読と高天原で結婚して神の一員となるのだと、その人生のレールから外れることは絶対にないのだと思っていた。
だからこそ自分に外の世界を知って欲しいと言う愛の真意が読み取れず混乱していた。
「初鹿野さん。頭を上げてください。月読様との契約内容でしたら隠す様なことではないですから、そんなことをしなくても教えて差し上げますわ」
「神様との約束って隠す様なことやないんや……。もっとこう、機密性の高いもんやと思っとったわ……。そういや武流はんも簡単に概要を教えてくれとったな……」
「ええ。別に月読様からは誰かに話すな、とは一言も言われてませんからね」
那美はそう言ってにっこりと微笑んだ。
「それは月読様も普通は誰にも話さんやろって前提で言うてるんや……」
「村の者も全員知っておりますから問題ないでしょう」
村長もそう言ってにっこりと微笑んだ。
「確かに、村長はんも知ってはったな……」
「是非詳しく教えてください!」
愛は頭を上げると、真っすぐな目で那美を見つめる。
「とはいえ、契約書のようなものがあるわけでも、細かい取り決めがあるわけでもないですけどねえ」
村長はそう言いながら那美へと視線を送る。
那美はそれに軽く頷いてから話し始めた。
「月読様との契約は簡単なものです。武流ちゃんにこの
那美の説明が終わっても誰も口を開かない。
愛と猫野瀬は那美の言葉を頭の中で繰り返し、どこかに突破口が無いかと必死で考えていた。
そしてそのまま数分の時が過ぎた。
「武流ちゃん」
那美が唐突に武流を呼ぶ。
その声は静かで、優しさの籠った母親の声。
「あなたはどうかしら?この人たちの言うように、この村を出て、外の世界に行ってみたい?」
「え?」
想像していなかった質問に武流は戸惑う。
「俺は……」
どう返して良いのか分からず戸惑う武流。
とにかくさっきから戸惑いっぱなしの武流。
「そんなに深く考えなくても良いのよ。お母さんは今あなたが感じている素直な気持ちが知りたいの」
そんな武流の心中を察した那美が優しくそう言った。
「俺は……この村が好きだ。この村の人たちが好きだし、みんなが俺の力を必要だと言ってくれるなら全力でその想いに応えたいと思っている」
「外の世界のことはどう思う?」
「外の世界のことはずっと興味があった。どんな村があって、どんな人が住んでいるんだろうって、みんなの話を聞く度に思ってた」
「村以外もあるんやけどな」
「だけど、この村を出てまで行ってみたいとまでは思ったことがなかった」
「そうね。あなたは子供の時からずっと責任感が強い子だったものね」
「生まれてすぐにおっさんの姿になったからそうなったんちゃう?」
「でも、「なかった」ということは、今は違うのかしら?」
「……分からない」
武流はそいう呟いて視線を膝の上に落とす。
「実際に外の世界の人と会って、話をして、そのことで心境に変化があった?」
「……分からない」
武流は本当に自分の気持ちが解らずにいた。
どうしてはっきりと村を離れるつもりは無いと言い切れないのか。
どうして彼女たちが自分を外の世界に連れ出したいと思っているのか。
様々な考えと感情が武流の頭と心の中でぐちゃぐちゃと絡まった糸のようになって気持ちが悪かった。
しかし、那美はその武流の様子に満足したようで——
「分かりました」
慈しむような目で武流を見つめながらそう言った。
「初鹿野さん。猫野瀬さん。武流があなたたちに会ったのは運命だったのかもしれ——」
「山田さーん!!」
那美が何か良いことを言おうとしたタイミングで、家の外から大声で山田家の人を呼ぶ男の声が聞こえた。
「あら?あの声は……」
那美は立ち上がると中庭に望む障子を開ける。
すると、庭を挟んだ先、家を取り囲む塀の上から老人が顔を覗かせていた。
「ああ、山田の奥さん。天気が崩れそうだけぇ、洗濯もん取り込んどきないや(天気が崩れそうだから、洗濯ものを取り込んでおきなさいよ)」
その言葉に那美は空を見上げる。
どんよりとした黒い雲が徐々に空を覆い尽くそうとしており、今にも雨が降って来そうな空模様だった。
まあ、ちょっと視線を横に向ければ、比較にならないほどの暗黒の洞窟が視界に入ってくるのだが……。
「え?あらあら、本当だわ。吉田のおじいちゃんありがとうございますね。あ、皆さん、ちょっと失礼します」
那美はそう言って縁側に置いてあったサンダルに履き替えると、慌てた様子で干してある洗濯物のところへと向かった。
「あれ?父さん?」
村長がいつのまにか縁側まで出てきており、吉田と呼ばれた老人に向かって声をかけた。
「なんや、おめもおりなったんかい(なんだ、お前もいたのか)」
「村長殿のお父様?」
「ちゅうことは前の村長はんてことやな。てか、村長はん吉田いうんや」
二人とも考えてみれば村長の名前を聞くことを失念していた。
「父さんこそこんなところで何をして……あっ」
「――あ!!」
「うわ!なんや!」
「どうした武流殿!?」
突然大声を出した武流に驚く二人。
「……完全に忘れてた」
ああ、と声を漏らし、手を額に当てて天井を見上げる武流。
「何をしてっておめえ――」
——ああ、吉田の爺ちゃんが昨日死んだから
「いつまで待っても葬式始まらんだから、この先に行かれんわいや(いつまで待っても葬式始まらねえから、この先に行けねえんだよ)」
「吉田の爺ちゃんの葬式のこと忘れてた……」