愛と猫野瀬が翠ヶ林村に来てから一週間が過ぎた。
武流の助力が得られない以上、二人だけで下山する事は難しい。
餓鬼だけであれば全力で駆け抜ける事も可能かもしれないが、すでに二人はがしゃどくろという怪物に出会ってしまっている。万が一あのレベルの魔の者に出会ってしまっては、とてもではないが今度こそ助かるとは思えない。
今の彼女らに出来る事は、逃がした師団の仲間が無事に本部に帰還することが出来ており、その上で自分たちの事を捜索に来てくれる事を祈るしかなかった。
報告を受けた上の判断がどうでるか。
普通であれば生存の可能性は限りなく低いと判断され、危険を冒してまでも捜索にくるようなことは無いだろう。
その上、がしゃどくろの存在を聞いたとなれば、それこそ生半可な規模の救助隊では返り討ちに遭うのが関の山に思われた。
それでも、二人には救助が来るという確信があった。
そのことを村長たちに説明し、それまでの間は村にいさせて欲しいと頼むと、空いている家もあるし、村にある施設でも良い。好きなところを使ってくれて構わないと快く了承してくれた。
「うちに泊まってくれても良いのよ?」という那美の言葉もあったが、その後の「救助が来るまでなんて言わずに、ずっと居てくれても」という言葉に何か危険なものを感じた猫野瀬が、一瞬お言葉に甘えようとした愛を説得して、武流の家からほど近い空き家を借りて生活をすることになった。
「中村の婆ちゃん。おはようさん」
猫野瀬は畑の中に見えた人影に向かって陽気な声をかけた。
支柱に張られたネットに巻き付いている長い蔓。
そこには立派に育ったきゅうりが数多く実っており、少し腰の曲がった老婆が地面に置いた籠の中へと収穫しているところだった。
「んん?ああ、猫の嬢ちゃんかい。おはようさん。どげなしたんな?今朝は早よ起きなったねえ(どうしたん?今朝は早起きやねえ)」
中村と呼ばれた老婆は、深い皺の刻まれた顔に笑顔を浮かべながらそう返す。
「早い言うても八時やからね。婆ちゃんたちはとっくに起きて畑仕事しとるやんか」
「わしらあはいつも五時には起きとって畑に出てきとるけえなあ(わたしらはいつも五時には起きて畑に出てきてるからねえ)」
「さすがにそんなはよ起きるんは無理やわ。もし起きたとしたら昼には
「年寄りは早よ起きるけえ、しょうがなかだ。若いもんはよう寝て大きならんとだめだで(年寄りは早起きだから仕方ない。若い人はよく寝て大きくならないとね)」
「婆ちゃん……。うちはもう十分に大人や。背もこれ以上は伸びへん……」
年齢32歳。身長150センチの猫野瀬。
女性としては特別小さいというわけではないのだが、男ばかりの師団にいると、どうしてもその身長では頭二つほど凹んでしまう。
「歳は別に言わんでええねん!」
ん?
「ああ、そんなんはどうでもええねん。婆ちゃん。昨日はいろいろ野菜もろたみたいでありがとな。きゅうりは瑞々しかったし、トマトもめっちゃ甘もうて美味かったわ」
「愛ちゃんにはいろいろ手伝ってもらいょーるけえなあ。ほんとはもっと持ってきないって言っただが、あれだけでかまわんって断られたわいや(愛ちゃんにはいろいろ手伝ってもらってるからねえ。本当はもっと持っていけって言ったんだけど、あれだけで構わないと断られたわ)」
「うちらは二人やからな。あれだけあったら十分や。他の人にも米やら野菜やらいろいろもろとるしな。ほんまに村の人たちには感謝しとるで」
外から来た二人が珍しいのか、老人の多い村だから若い人が来たことが嬉しいのか、またはその両方か。
二人が村に来たことはすぐに村中の知るところとなり、誰が言ったわけでもなく彼女らの下には多くの食料が届けられた。
「なんのなんの。みんなも武流のこともよろしく言っとったわいな」
「…………」
もう一つ別の理由もあるかもしれない。
「ん?猫野瀬も来たのか?」
そんな事を話していると、
早く起きた愛は、寝ている猫野瀬を起こさないように静かに家を出て、昨日と同じように中村の婆ちゃんの手伝いに訪れていた。
すでに一仕事終えた愛は額から汗を流しており、村の誰かが着替えにと持って来てくれていた作業着の裾も泥で汚れていた。
「ああ、愛さんおはようさん。来るんやったら起こしてくれたら良かったのに」
「気持ちよさそうに寝ていたからな。それにお前は田中さんのところの稲刈りの手伝いに行く予定があっただろう?」
「あれは昼からやから、別に午前中は予定入ってないねん」
「まあ、そうだとしても、ここは私一人でも大丈夫だ」
そういってタオルで額の汗を拭う。
すっかり農作業にも慣れた様子で、一見すると農家の嫁にしか見えない。
——主人は畑に出てて留守にしてるんですよ
「……予行演習しとるんかな?」
「ん?何か言ったか?」
「いいや、何でもあらへんよ」
そんなはずは無いと猫野瀬は自分に言い聞かせながらも、あの時武流に背負われていた時に見せた愛の表情が忘れられなかった。
「まあ、せっかく来たんやし、うちも何か手伝——」
猫野瀬がそう言いながら腕まくりをしていた時、村の外——深い山の中腹から強い神力の光の柱が天に向かってそびえ立つように出現した。
「——猫野瀬!!」
「間違いあらへん!!来おったで!!」
二人はあの神力を放ったのが誰なのか分かっていた。
離れた村の中にいても感じ取ることの出来るほどの圧倒的な神力。
武流以外でそれだけの事が出来る人物を彼女たちは一人しか知らない。
「中村さんすみません!少し抜けさせてもらいます!」
「婆ちゃんごめんな!この埋め合わせは絶対にするさかい!!」
中村の婆ちゃんにそう言うと、ぽかんとした表情の婆ちゃんを残して二人は村の入り口へと走り出した。