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第16話 過去 その1

「えっと……」

いざ自分から話すとは言ったものの、どこから話せばいいのか迷う。

そして、そんな私を彼はじっと見て待っている。

しかし、それは急かす為ではなく、どんな事を話しても受け止める為のように思えた。

だから私は、息を何度か吸っては吐きを繰り返して自分自身を落ち着かせる。

別に今更誤魔化そうとか、少しでもいいように見せようとか考えなくていいじゃないか。

きちんと本当の事だけ話せばいい。

それで駄目なら仕方ない。

だって、過去には戻れないし、やり直しは出来ないんだから……。

だから、わたしはゆっくりと口を開いた。

「あの日、店に来ていた男の人…彼は四頭正和さんと言ってね」

そこで口の中に溜まった唾を飲み込む。

「私の……許婚だった人なの」

彼がごくりと唾を飲み込むのかわかる。

多分、想像はしていたんだろう。

表情には変化はなく、ただ少しでも聞き逃さないように真剣に私の言葉を待っている。

「彼とは、中学生の時に始めて会ったわ。彼はその時、高校生だった。彼の父親と、私の父親が友人でね、いつかは互いの子供同士を結婚させたがってたみたい。だから、口約束だけとはいえ、その場で会った時に父からお前の許婚だって紹介されたの。もちろん、その時初めて聞いて驚いたけど、彼の父親はよく私の家に父に会いに来ていたし、私も小さいころは結構遊んでもらっていたから、ああそうなんだって普通に受け入れたの」

そう言って、すーっと視線を彼に向けると、彼は私をしっかりと見ていてくれた。

だから私は安心して続きを口にする。

「彼、正和さんはすごくいい人でね。不満もないし、私のことをしっかり見てくれていると思っていた。だから、私、将来はこの人と結婚するんだってずっと思ってたの。でもね、大学生になって私の父が亡くなってから関係がおかしくなった」

いつの間にか私は自分の手をぎゅっと握り締めていた。

その手の上に彼が手を載せて優しく握り締めてくれる。

「彼の父親は私の父親が死んでも変わらなかった。でも、彼の母親が、ね」

そこまで言って、自然と目頭が熱くなっていく。

ああ、泣いちゃ駄目なのに。

しかし、そう思ったものの、止める事は出来ずにすーっと涙が流れる。

視線が段々と下がっていき、いつしか目に入るのは涙で歪んだように見えるコンクリートの床だけになっていた。

「無理しなくていいよ……」

彼が優しくそう言ってくれる。

しかし、それに甘えては駄目だ。

これは私のけじめなのだ。

彼を苦しめてしまった自分への……。

だから、首を横に振るとすーっと視線を上げる。

目の前に広がる町並みを見て、私は口を開く。

「どうもね、彼の母親は私のことが気に入らなかったようなの。大学卒業すれば結婚しょうということになって、私、結構彼の家に通っていたの。で、そこでね、彼の母親にいろいろ言われたし些細な嫌がらせもされたわ。『本当ならうちの子はお前みたいな女は相応しくない』とかストーレートな事も結構言われたっけ。でもね、私、彼がすごく好きだったの」

私がそういった瞬間、彼の表情が曇る。

しかし、彼はぐっと奥歯をかみ締めるかのように顔の表情に力を入れて何もない風を装う。

そんな彼を、私は優しいと思う。

私を傷つけないように必死になって耐えている。

そう感じたから……。

でも、ここで話を終わらせるわけにはいかない。

だから話を続ける。

「だから、耐えられると思ったわ。それにね、彼も私のことを好きだと思っていたから。だから、大丈夫だと思ってた。あの日が来るまでは……」

そこまで言って、言葉を一旦切る。

しばらくの沈黙。そして彼は黙って待っている。

私は視線を彼に移して言った。

「その日は、たまたま大学の講義がなくてね。私、早めに彼の家に行ったの。今日は休みだから家にいるって言ってたから。だから家に着いた時、魔がさしたと言った方がいいのかな。リビングで声がしたから何話しているのか気になって庭の方に回って行ったの。そしたら、私がいないところで彼の母親がね、彼に向かって私の悪口を言ってた。まぁ、それはいつもの光景だったから気にしなかった。でもね、私、彼がそういう時はいつも反論してくれていると思ってた。でも、彼は……反論しなくて……それどころか……同意までしてたの。それも笑いながら……」

多分、私はそう話しながら涙を流して笑っていたと思う。

それもかなり引きつった笑いだったようだ。

彼の表情が驚愕に変わり、ごくりと唾を飲み込む。

多分、今の私の顔は、最も見せたくない顔をしている。

だけど、それでも私は彼に見せなければならない。

私の本当の顔を……。

「そしたらね、私、わかっちゃったの。彼は私のこと、好きではない事に。思い当たる事はいっぱいあったわ。それも数え切れないほどに。でもね、それでも私のことを好きだと思ってた。でも、現実は……。それでね、私の心から何かが抜け落ちていくのがわかったの。そしてね、すーっと一気に心が冷めてしまったの」

口から笑いが漏れる。

「彼のこと、あんなに好きだったのに。あんなに愛していたのに。なのに、あんなに簡単に……」

そこまで言ったとき、わたしは暖かいものに包まれていた。

何が起こったかわからなかった。

「もういい……。なにがあろうとつぐみさんは、つぐみさんだ」

彼の言葉に、やっと私は彼に抱きしめられているのがわかった。

彼の手がぽんぽんと私の背中をあやすかのように叩かれた。

そして、それが合図だったかのように涙が滝のように溢れ、ぼたぼたと落ちていく。

嗚咽が口から漏れる。

彼は慰めも何も言わない。

ただ、私を抱きしめて子供をあやすように肩をぽんぽんと叩く。

それだけだ。

でも、それだけで私はすごく満たされてしまっていた。

だから、私は彼に抱かれながらも、泣きながら言葉を続ける。

「それからはもう自暴自棄になって何もかもぶっ壊したくなって、彼とは別れたの。自分を傷つけて身体を壊したりしたし、美紀ちゃんやいろんな人に迷惑をかけた。そして今回はあなたにも……」

「いいよ。それに僕は迷惑だなんて思ってない」

耳元で囁くような彼の言葉には暖かさがあった。

その言葉に抜け落ちて隙間だらけの私のここが満たされ癒されるような気がする。

「でもっ。私はそんな自分が嫌なのっ。こんな醜い自分をあなたに知られたくなかったという理由で私はあなたを……」

「きちんと説明してもらったし。だから、気にしないで」

「でもっ……」

私がそう言おうとすると、彼は強く抱きしめて私の言葉を封じた。

ずるい……。

でも、それが心地よかった。

私はそのまま彼にしがみつくように抱きついていた。

どれほど時間がたっだろうか。

落ち着いた私は、すーっと彼から離れる。

「もういいの?」

彼は心配そうに聞いてきた。

だから、私は頷いた。

その時、彼の手の動きが少し寂しそうに見えたのは多分間違いではないだろう。

なんだか落ち着かない。

私は視線を下に向ける。

「ありがとう……」

なんとかそういうので精一杯だった。

彼は、そのまま、私の横に座って上半身をそらして空を見上げている。

その様子をちらりと横目で見る。

彼には今の私はどういう風に見えているのだろうか。

そんな事を考えてしまう。

そんな私の視線に気が付いたのか、彼が私を見てにこりと笑う。

その笑顔に、私は慌てて視線を下に向けなおす。

多分、耳まで真っ赤になっているに違いない。

「よし。つぐみさんの話はわかった。じゃあ、僕の話をしなきゃね」

彼はそう言って、昔を思い出したのか少し寂しそうに微笑んだ。

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