「そこまでだ。牧子」
牧瀬さんは、笑ってもういいという感じで肩をとんとんと叩きながらそう言った。
そして、笑うのを止めると、真剣な表情になって立ち上がるとすぐにこっちに向き直って頭を下げる。
「本当にすまなかった。不愉快な思いをさせてしまった。許してくれ」
それにあわせるかのように野々村さんの表情がさっきまでとは打って変わって申し訳なさそうな表情になり、立って一緒に頭を下げる。
もう彼を攻め立てるという雰囲気ではなく、かえって自分たちが悪いので謝罪させてくれと言った感じさえしてしまうほどだった。
その急変ぶりに彼と私はどういう状況なのか把握できず、突然の変化に唖然とするしかない。
「実はな、お前が好きな相手と言うのはどういう人なのか、それに彼女に対してどう思っているのかを試させてもらったんだ」
呆然とする彼に牧瀬さんは説明を始めた。
「確かにあの時お前に言われた事はすごくショックだった。ただ、あの時は精神が高ぶっていたんだろうと思って、少し経ったらまた見舞いに行こうと思っててたんだよ。ところが、お前は仕事はやめて住むところも変えてしまった。そっちの方がはるかにショックだったんだ。あの時の自分達の判断が間違っていて、それほどお前は追い詰められていたんだとよりはっきりと悟ったよ」
そう言って、横の野々村さんに視線を送る牧瀬さん。
「その後ね、マスターやら周りの人たちから知ったの。あなたが私のことが好きで、私や彼から相談を受けて板ばさみになって苦しんでいたって。それなのに、私達はあなたの事も考えずに……」
「いや、それはいいんだ。だけど、それでも、僕は君達にひどい事を言ったんだ。それは……」
そう言いかけた彼だったが、すぐに牧瀬さんが待ってくれとジェスチャーをする。
それで彼の言葉はそこで止まり黙り込む。
「それでね。私達、あなたに謝りたかったの。ごめんなさいって」
「ああ。それにあの出来事のおかげで、僕たちの関係も考えさせられたんだ。二人で何度も話し合ってね」
そこまで言った後、しばしの間があり、ゆっくりと二人は左手を見せる。
二人の薬指にはおそろいのシンプルな指輪があった。
「来月、結婚するんだ」
いきなりの展開に、彼はただ「おめでとう」というしか出来ないでいた。
いや、私だって呆気にとられて何を言っていいのかわからない。
そんな私らを見て、苦笑した後に二人は再度共に頭を下げる。
「お前の(君の)おかげで決心がついた。本当にありがとう」
その言葉に彼は震えていた。
顔を覗き見ると彼は泣いていた。
「お前の(君の)おかげで決心がついた。本当にありがとう」
その言葉を聞き、僕の身体が自然と震えるのを止められなかった。
視線が歪んでいく事で、泣いているということに初めて気がついた。
彼らは、僕があんなににひどい事を言ったのに、それをいい方に受け取り前進している。
なんていい人たちなんだ。
そう思うとうれしくて自然と涙が溢れ出していた。
つぐみさんがすーっとハンカチを出して僕に手渡す。それを僕は受け取る。
その時、彼女は囁くように言う。
「よかったね」
その言葉はとても優しさに満ちていた。
「ありがとう」
僕はそう答える。
しかし、その後の事は言葉にならなかった。
うれしくて泣いている僕を、つぐみさんは微笑んで見守ってくれている…。
そう考えただけで、何も考えられなくなっていた。
「なんとかうまい具合にお互いの誤解が解けて収まったみたいだな」
そう言ってマスターがコーヒーを持ってくる。
後から来た二人の注文の分だ。
多分、見計らって用意したのだろう。
実にいいタイミングだった。
「そして、いい感じに収まって、かっての友情が戻ったってわけだな」
マスターはそう言ってニカリと笑う。
その言葉に、牧瀬や野々村さんが、いいや違うな。修や牧ちゃんが頷く。
もちろん、僕もだ。
そしてそんな僕らをつぐみさんは優しく微笑んで見守っている。
僕はなんて恵まれているんだ。
相手の事を思いやってくれる友人に、そして、こんな僕を見守ってくれる愛しい人が傍にいてくれるなんて…。
そう思ったときだった。
「そんなお前らに、これは俺のおごりだ」
そう言ってマスターが出してきたのはケーキだった。
「おおっ、それって……」
「ええ、あれって……」
修と牧ちゃんが驚く。
そして、僕だって驚いた。
それはこの喫茶店特性の手作りチーズケーキだ。
一日限定10個程度しか作らない超限定もので、本場で修業してきたマスターがかなりアレンジしてレアな一品に仕上げている。
長年通っていた僕でさえもマスターが気まぐれで出すもんだから何回かしか口にしたことがない。
「本当なら、売り物なんだけどな。うちの常連さんのめでたい日なんだ。これくらいはさせてくれよ」
そう言って、マスターがウインクする。
「ありがとう、マスター。私、これすごく食べたかったのよぉ。本当にありがとうっ」
牧ちゃんが涙目で喜びに震えている。
確か、牧ちゃんは始めて食べてから、このチーズケーキの虜になっていたはずだ。
だからそんな反応も当たり前だろう。
「そりゃよかった。後は、四人で親睦を深めるといい」
そう言って、手をひらひらさせるとカウンターに戻っていく。
「では、いただこうか…」
修がそう言い、僕は頷く。
牧ちゃんはもう食べ始めている。
「つぐみさん、ここのチーズケーキは絶品だからね。覚悟して食べてね」
僕はそう言って、つぐみさんに微笑み返す。
そして耳元に口を寄せて、感謝の言葉を囁いた。
「本当に助かったよ。つぐみさんがいたから、何とかなった。本当にありがとう」
彼女はそれを聞いて、頬を染めると何か言いかけたが止めて、頷くと微笑み返してくれた。
多分、そんな事はないと言いたかったのだろうか。
でも、それを含めて、僕を立てて彼女は受け入れてくれた。
本当に、出来た人だな。
感謝しつつ、僕はそんな彼女をますます好きになっていた。