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第55話 誕生日 その4

結局、ケーキはその場では食べなくて持ち帰りをする事にした。

彼も最初からそうするつもりで言ってあったのだろう。

私がそう言うと、すぐにボーイさんがケーキをかわいいラッピングのされた箱に入れて持ってきてくれた。

「では、そろそろ帰りましょうか」

少し残念そうな顔の彼がそう告げる。

ああ、彼もこの時間が終わるのを残念に思っている。

それがわかるだけで、私の心はうれしさで満たされる。

ああ、私と一緒だ。

それがきゅんと私の胸を締め付けていた。

そして、私達はレストランを出ると帰途につく。

時間にして1時間と少し。

それが私と彼が一緒にいられる時間……。

もう周りは暗闇に染まり、空には星が輝いている。

楽しく話をしながら時間が進み、一緒にいられる距離も縮まっていく。

寂しさが心の中から泉のように湧き出していき、心を満たし始める。

もう少し、もう少し一緒にいたいな。

そういう思いが、私を行動させた。

「ねぇ、そこの岸壁の駐車場に止めて」

私はそう告げた。

彼はどうしたんだろうという表情をしたけど、言われるまま駐車場に車を止める。

二人とも無言の時間が流れ、互いに下を見て、ちらちらと相手を見る。

どちらが切り出そうか。

そんな風に感じられる雰囲気があった。

やっぱり私が言ったんだから……。

私はすーっと静かに息を吸って吐くと彼の方を見た。

難しい事を言う必要はない。

私の心の中にある事をただ言葉にすればいい。

そう決心し、口を開く。

「今日は、本当にありがとう。すごくうれしかった。こんなに楽しかった誕生日は初めてだった。この時間、すごくすごく幸せだった。ありがとう」

多分真っ赤になっているだろう。

しかし、これからする事を思えば、こんな事を言うのは簡単だ。

彼が私を見つめ、「そんな事は……」と言いかける。

しかし、私はそこから先を彼に言わせなかった。

唇に当たる感触が……。

すぐ感じられる彼の肌の熱さが……。

すべてが真っ赤に燃えるような感覚を私に引き起こしていた。

まるで何時間のように感じられたが、実際はほんの数秒の出来事。

でも、私は顔を離すと唇に自分の指を当てて確認する。

そう、私は彼とキスをしたという事を。


お互いに何を言ったらいいのだろうか。

いきなりつぐみさんが駐車場に車を止めて欲しいといわれ、なんだろうと思っていた。

しかし、車を止めた後の沈黙。

独特の雰囲気が二人ほ包み込んでいるのがわかる。

な、なんだ、これ……。

と、ともかく何か言わないと。

そう思った瞬間、下を見ていたつぐみさんが僕の方を向いた。

その顔には、必死さと真剣さが交じり合ったような感情が表れている。

彼女は決心したんだろう。

口を開く。

「今日は、本当にありがとう。すごくうれしかった。こんなに楽しかった誕生日は初めてだった。この時間、すごくすごく幸せだった。ありがとう」

耳まで真っ赤になりながらも感謝の言葉を告げるつぐみさん。

それは間違いなく、今のつぐみさんの心だとわかるほどの重みがあった。

だけど、それは褒めすぎたと思う。

僕はただ、つぐみさんが喜んでくれたら僕もうれしいからやっただけなんだ。

だから、そんなに言わなくても……。

だから思わず「そんな事はないよ。僕はつぐみさんに喜んでもらえたらうれしいからやっただけだよ」と言い返そうとする。

しかし、その言葉は途中までしか言えなかった。

彼女の顔を僕に近づいてくる。

それは、つまり……。

唇に当たる感触。

そして目の前にあるつぐみさんの顔。

そして僕を満たす彼女の香り。

まるで彼女に包まれているかのような錯覚さえ感じる。

このままずっとこうしていたい。

そう思ってさえいた。

しかし、その永遠のようで、わずかな時間は過ぎ、唇から感触がなくなってつぐみさんの顔が離れる。

呆然としている僕を上目遣いで見るつぐみさん。

その唇に右手の人差し指と中指を当てて、まるで僕とのキスが本当だっと確認しいるかのようだ。

口の中にたまった唾をごくりと飲み込む。

無意識のうちに舌で唇を軽く濡らす。

今、キスされたんだよな、僕は。

頬にキスされた事はあった。

しかし、唇のキスは初めてだった。

そして気が付く。

抱きあったのも、キスをしたのもいつも彼女からだ。

僕はただ流されてしまっているだけ。

僕が煮えたぎらない分、彼女はリードしてくれる。

情けないな。

そんな事を考えてしまう。

もっと彼女を引っ張っていけるようにならないと駄目だな。

そうしないと彼女に相応しい男になれない。

うれしさと喜びの洪水に浸かりながらも僕はそう思っていた。


キスの後、しばらく互いに下を見て黙り込む。

だって、何を話したらいいのだろう。

刻一刻と時間だけが過ぎていく。

そんな中、突然私のスマートフォンが鳴った。

お互いにびくっとしたのはご愛嬌だろう。

どうやら電話の相手は美紀ちゃんのようだ。

助かった。

私はほっとしながら電話に出る。

「もしもしっ……」

「つぐねぇ、無事?事故かなんかに巻き込まれた?」

いきなり大きな声でそういわれる。

「えっと、なに?いきなり……」

「最初に帰って来るって言ってた時間はだいぶ過ぎたし、もう1時間近く岸壁のところで移動していなかったから事故にでもあったかと」

どうやら事故にでもあったかもと思って心配して電話してきたらしい。

でも、ちょっと待て。

聞き捨てならない言葉があったぞ。

1時間近く岸壁のところで移動していないって……。

私は慌てて、スマートフォンを耳から離し、上に出ていたお知らせのアイコンをスライドさせる。

そこには、美紀ちゃんの電話番号が、私の位置をチェックしてますよって表示が何回も出ていた。

スマートフォンを耳に戻し、美紀ちゃんに聞く。

「私のいる位置を何度もチェックしてたみたいね」

無意識のうちに少し声のトーンが下がっっていた。

「あっ、う、うんっ。心配してたからね。ほらっ、いつ頃帰って来るかなとか。もしかしたらどっかによって遅くなるのかなとかさ。それに朝帰りだったら、明日のお店どうしょうかとかも考えてしまったし……」

どうやら私がすごく怒っているのがわかったようだ。

自らボロボロとボロを出してくれる。

「心配してくれるのは、すごくうれしいしありがたいんだけどね。ねぇ、美紀ちゃん……」

私がそう言うと電話の先で必死な声で謝る声が響く。

「ごめんっ。つぐねぇっ。別にホテルに行ってるのを確認しようとか思ってたわけじゃないのっ」

そう言ってしまって、「あ……」という間抜けな声が電話先から聞こえる。

「ふーん。詳しい話は帰ってから聞きます。首を洗って待ってなさい」

私はそう言うと、通話を切って彼の方を見る。

「ごめんなさい。そういうわけで、すぐに家まで送ってください」

彼は呆然としていたが、慌てて頷くと車を動かし始めた。

それを見ながら、どう美紀ちゃんに言おうか考える。

ともかく美紀ちゃんにはしっかりお説教しないと…。

それに、こういうのはどこから漏れるかわからないから、しっかり口止めも必要よね。

でも、まぁ、この電話のおかげで二人とも固まってしまっていたのが動き出せたのは事実だから少しは手加減してあげるかな。

そんなことを思いつつ、私は彼に家に送ってもらったのだった。

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