貴金属店を出て、それで終わりかと思っていたが、彼がどうしても寄りたい場所があるという。
「実はね、そこが本命なんだ。つぐみさんにとっては苦痛かもしれないけど……」
彼は苦笑してそう言った。
私にとって苦痛かもしれない?
それって苦痛ではないかもしれないって事なの?
よくわからない事を言われて首を傾げる。
しかし、まぁ、着いて行くしかない。
彼を信頼してるから。
そう思っていたら、とある喫茶店に着いた。
結構おしゃれな感じのお店で、ハーブを売りにしているらしく、手作りケーキとハーブティーのお店と看板には書かれてある。
どうやらここが目的地らしいけど……。
そんな事を思いつつ、彼に誘導されて店内に入る。
彼がきょろきょろと店内を見回し、手を上げた。
どうやら誰かと待ち合わせのようだ。
そして彼と一緒に歩いていった先には、一人の女性が待っていた。
年の頃は五十歳前後だろうか。
美人と言うより、かわいい感じの穏やかな表情の人で、私達を温かそうな目で見ている。
「えっと、この方は?」
思わず、そう聞くと彼は照れたように紹介してくれた。
「えっと、急だけどね。僕の母です」
『僕の母』。
それって、彼のお母さんってことよね。
これってつまり……。
つまり家族に彼女紹介してるって事なのよね。
そう理解した瞬間に、かーーーっと身体が熱を持ち、筋肉がカチンコチンになる。
何か言わなければと思うものの、言葉にならず、その場に立ち尽くす。
まさにテンパってますって感じで、頭の中はパニックで思考はあるようでない状態になっていた。
そんな私を彼はやさしそうな微笑で見た後、母親の方を見て言う。
「えっと、彼女が星野つぐみさん。今、きちんと付き合っている人だよ」
彼の言葉で、何か言わなければと焦り、口を開く。
「えっと、ほ、ほ、星野つぐみですっ。か、彼とお付き合いさせてもらってますっ」
何とかつっかえつっかえながらもそう言って頭を下げる。
頭を上げると、母親の興味津々な視線が私に注がれているのがわかる。
「ここで立ちっぱなしもなんだから、座って、つぐみさん」
そう言われて、テーブルの奥のほうに誘導され座る。
し、しまったーっ。
奥の方だったら途中で逃げられないじゃないのっ。
なぜ逃げる事を考えたのか。
多分、正和さんのお母さんがトラウマみたいになってしまっているのだろうか。
どちらにしても、私は逃げたくて仕方なかった。
なんか目が潤んでいる。
泣きそうだ。
しかし、そんな私をなだめるかのように彼は微笑み、そしてポンポンと背中を叩く。
そんな様子をじっと見ている彼の母親。
もし、正和さんのときのようなことになったらどうしょう。
あの時のような悪夢は嫌だった。
本当に、好きだと思える人に出会えたというのに…。
恐怖だった。
怖い。
ただ、ただ、怖かった。
それだけしか考えられなかった。
情けない事に、多分、彼の母親の目からしたら今の自分はすべてに怯える小動物のように映ったのではないだろうか。
「もう。そんなに怖い?」
苦笑して彼の母親が口を開く。
「母さんっ、言っただろう。つぐみさんはっ」
「わかってるわよ。でもね」
そこまで言った後、彼の母親は少し考え込んだ後、ちょいちょいと彼を呼ぶ。
そして、彼になにやら耳打ちする。
最初は渋っていた彼だが、最終的には頷くと、席を立った。
「つぐみさん。すぐ戻るから。がんばってね」
彼はそう言うと、奥のトイレの方に歩いていった。
一気に不安が大きくなる。
おろおろしているのが自分でもわかる。
心が拠りどころを求めて、視線があちこちに動いている。
そんな私を、彼の母親はくすりと笑って見た後、席を立って私の隣に座りなおす。
その行為に、私の身体はびくっと身体に刺激が走り、緊張して固まる。
思考が真っ白になる。
逃げたい。
逃げたい。
その思いだけが心を支配する。
その瞬間だった。
暖かいものに包まれるかのような優しい抱擁を感じたのは。
耳ともで声がする。
「大丈夫よ。あなたの事、私、すごく気に入っちゃった。すごくかわいいんだもの」
それで私は彼の母親に抱きしめられている事を理解した。
すーっと体の緊張が抜ける。
心が落ち着いていく。
よかったという安堵感が私を満たし、不安も恐怖も崩れ落ちて塵となっていく。
どれくらいそうしていただろうか。
実際は数分も立っていないのだろうが、今の私には、すごく長く感じられた。
それどころか、そのままでいたいとさえ思っている。
「ふふっ。落ち着いたわね。きちんと自己紹介しないとね。私の名前は、鍋島弘子。あの子の母親なんてのをしてるわ」
そう言って、くすくす笑う。
「うちはね、旦那と息子だけで女は私だけなの。だからね、つぐみちゃんみたいなかわいい娘は大歓迎だから。そうだっ、今度家に遊びにいらっしゃい。大歓迎するわよぉ。えっとつぐみちゃんは何が好きなのかしら?こう見えても料理は得意だから、大好物を用意して待ってるわ。そうそう、うちの子はねぇ……」
まさにマシンガントークのような言葉の勢いに圧倒され、私はただ聞き、頷くぐらしいか出来ない。
「それぐらいにしてあげてよ」
困ったような彼の声に、私は彼が戻ってきた事を知る。
「あ、あのっ……」
そう言いかけた私だったが、何を言ったらいいのだろうか。
言葉が続かない。
「ごめんね。うちの母がどうしても会いたいって駄々こねてさ」
彼が苦笑してそう話すと頭を下げる。
「だっていきなり指輪を買ういいお店知らないって聞かれたんだもの。私の方がびっくりしたわよぉ。まさか付き合っている人がいるなんて知らなかったから」
「それで根掘り葉掘り聞くほうもどうかしてると思うんだけどさ。しまいには会いたいって駄々こねるし」
彼にそういわれて、少し拗ねるようなそぶりを見せる弘子さん。
そして彼に向いていた視線が私に戻ってくる。
「いいじゃないのっ。ねっ、つぐみちゃん」
「ち、ちょっと、まだ会ったばかりなのにちゃんづけは……」
彼が慌てて言うが、それを気にせず弘子さんは言葉を続ける。
「何言ってるの。私の娘になるんでしょう?それぐらいいわよねぇ」
いえ、私に同意をもとめられても、なんと言ったらいいんでしょうか。
思わず、彼の方に視線を向ける。
その私の助けを求める視線に奮起したのか。
「あのね、母さんっ。つぐみさんは僕の奥さんになる人なの。母さんの娘になるのはそのついでなの」
そう言ってしまって、はっとする彼。
もちろん、私もその言葉がはっきりと耳に入る。
一気に体温が上昇し、沸騰していくかのような感覚が身体中を満たしていく。
そんな私達を見て、してやったりという表情の弘子さん。
「惚気るわねぇ。でも、そこまで考えているのなら、ますます私は歓迎するわよ。いい人を見つけたわねぇ」
そう言って私をぎゅっと抱きしめてから席を立つと入口に向かって歩き出した。
「ち、ちょっと、母さんっ」
そんな彼の言葉に、弘子さんはくすくす笑いながら答える。
「今度は、きちんと家に招待なさい。絶対だからね。じゃあね。つぐみちゃん、待ってるわよ」
そういい残して、支払いを済ませるとさっさと帰って行った。
唖然として立ち尽くす彼と呆然として見送る私。
どれくらい経っただろうか。
「本当に今日はごめん。つぐみさんっ」
彼が頭を下げる。
「い、いえ。こっちこそ」
慌ててそう言うも何を話していいのか思いつかない。
嵐のような人だった。
それが私の第一印象。
しかし、それは荒々しいものではなく、優しく相手を癒すような風を纏う嵐だ。
気がつくと、あれほど怖いと思っていたことがたいしたことではないように思えてしまう。
席に座ると、彼はまた頭を下げた。
「実はね、根掘り葉掘り聞かれてつぐみさんのこと、いろいろ話してしまったんだ」
それはつまり、許婚がいたときのことや別れた原因も含めてということなのだろう。
「本当にごめん……」
本当なら怒っていい事かもしれない。
でも、それを知っているからこそのあの対応だったのだろう。
あれは彼女なりの自分の息子を好きになった相手への愛情の現われだったのかなと考える。
だから、彼を責める気はない。
「いいわ。気にしないで。私もなんか気が楽になっちゃった」
笑いながらそう言うと、彼はほっとした表情を浮かべた。
「よかった。もしつぐみさんが怒ったり、母さんが気に入らなかったりしたらどうしょうと気が気でなかったんだ」
その言葉と表情から、それは彼の本音だとわかる。
ああ、怖かったのは、私だけではなかったんだ。
そう思うと、なんだが怯えるだけだったのが馬鹿らしく思えてきた。
今度は本当の自分が出せそうな気がする。
そう思えるのに十分だった。
ただし、一つだけ彼に言っておかなければならない事を思い出す。
「ねぇ。今回の事を責めるつもりはないんだけど、これだけは言わせて」
「え、えっとなんでしょう?」
おどおどと聞き返す彼。
そんな彼に、私はにこりと笑う。
「もう少し、どういう事があるのか事前に教えてください。どうせなら、あなたのお母様とはもっといい格好で会いたかったです。だって、化粧と服は女の戦闘服なんですから」
そう言って笑った後、彼の耳元で囁いた。
「再戦のセッティングを近々お願いしますね」
その言葉に、彼は苦笑し頷いたのだった。