秋穂さんから話を聞いて翌日。
私は彼をずっと待っていた。
メールや電話をしてもよかったが、毎日彼は寄ってくれる。
そう思っていた。
しかし、その日、彼はお店に来なかった。
「ねぇ、つぐねぇ、今日、彼来なかったね。何かあったの?」
夕飯の時、心配そうな美紀ちゃんの声が私の耳に入る。
「あ、うん。後でまたメールか電話してみるから……」
私は差し障りない言葉で誤魔化す。
原因はわかっている。
私だ。
私が彼を苦しめている。
秋穂さんが急に私に話をしにきたのだって、彼が言ったに違いない。
私は、彼にとって苦痛になってしまっているのだろうか。
そして、私自身も、怖くて臆病になってしまった。
だから、以前のように接することが出来なくなってしまっている。
以前はあんなに会うのが楽しみだったのに。
あんなに声を聞いて、彼の笑顔を見るのがうれしかったのに。
でも、それは遠い昔の事のようだ。
私は怖気づいている。
たった一つの言葉。
結婚と言う言葉の重圧に。
秋穂さんにはああ言われたけど、私は秋穂さんみたいになれない。
私は臆病で、嫉妬深くて、それでいて情けない女だ。
そう、駄目な女。
それが今の私。
だから、彼を苦しめている。
なら、いっそのこと別れてしまえばこんな思いもしなくて済むかもしれない。
そんなことさえ考える。
でも、それは怖い。
考えたくない。
でも、つい考えてしまう。
そのループが私の頭の中で繰り返される。
周りの音も光景も何もかもがぼんやりとなっていく。
そんな時だった。
「ちょっと、つぐねぇ、聞いてる?」
大きな声でそう言われ、私はやっと思考のループから抜け出す。
「ご、ごめんね。少し考え込んでたみたい」
何とか笑顔を作ってそう返す。
しかし、美紀ちゃんの視線は厳しい光を宿していた。
「ねぇ、彼と何があったの?」
「べ、べつに何もないわよ」
「嘘だっ。ここ最近、つぐねぇおかしいよ。どうしたの?」
段々と美紀ちゃんの声がうるさく感じてしまう。
そして、私は無意識のうちに声を荒げていた。
「いいじゃないっ。美紀ちゃんには関係ないでしょっ」
言ってしまって、しまったと思った。
でも出した言葉はもう戻らない。
言葉を失い呆然とした表情の美紀ちゃん。
「あ、ご、ごめんね、美紀ちゃんっ。ついイライラしちゃって」
慌てて謝るも、もう遅かった。
美紀ちゃんは無言のまま席を立つと自分の部屋に去っていった。
目の前には、まだ少ししか手の付けられていない夕食が残されている。
今日は、美紀ちゃんが大好きなとんかつだった。
でも、もう、それは食べられることはないだろう。
そして、その事実が私を余計に苦しませた。
何やってんのよ、私はっ。
私はその場で頭を抱え、自分のしでかした事の大きさにただ震えることしか出来なかった。
そして、翌日も彼は来ない。
私も怖くて、メールも電話も出来ない。
そして、美紀ちゃんとの関係もギクシャクしたままだった。
私はなにをやっているんだろう。
たった一つ……。
少し狂っただけで、こんなにもガタガタになるものなんだろうか。
全てが腐ったように駄目になっていくものなんだろうか。
こんなになるなら、なんで私は彼に言わなかったのだろう。
よく考えてみたら、今更じゃない。
正和さんのときの事を、私はきちんと話した。
それでも彼は受け入れてくれたじゃない。
信じなきゃ。
彼を。
でも、私はまた逃げた。
だから、また、こんな結果になってしまっている。
もうやだ。
もう嫌だ。
私は力なく、その場にうずくまる。
目から涙が留め止めもなく流れ落ちる。
それは私の後悔を流しだすかのように、止まる事はなく、ただただ床にいくつものシミを作っていく。
もういやだ。
そして、私は……
夢から覚めた。
慌てて起きて周りを見渡す。
まだ薄暗い部屋の中、私は歪んだ世界が目に入る。
それで私は自分が泣いている事に気が付いた。
涙を拭き、時計に目をやる。
時間は、朝の5時。
日付は、秋穂さんの話を聞いた翌日だ。
あの後、すれ違いで彼とは会えなかった。
多分、それが今見た悪夢の原因だろう。
いや、それだけではない。
私の迷う心が見せたのだ。
あんなのは嫌だ。
私はしばらくベッドの上で膝を抱えて考え込む。
ぐるぐると思考が空回りしているかのような感覚に陥りそうになる。
でも、考えなければ。
そしてそのまま時間が流れていき、気が付くと6時を回っていた。
よしっ。私は決心した。
後悔するくらいなら、やってしまおう。
それで駄目なら、諦めが付くじゃない。
多分、駄目でも、あの夢のようにはならないだろう。
あんなになるくらいなら……。
私は、スマホに手を伸ばす。
時間的には、まだ早すぎる時間帯だ。
でも、私は我慢できなかった。
指を動かし、メールに文字を入れ込んでいく。
短い分は、あっという間に出来上がる。
後は…送信のボタンをタップするだけだ。
指が振るえ、口の中に唾がたまる。
それをごくりと飲み込み、私はボタンをタップした。
彼にメールが送られる。
「今日、話したいことがあります。仕事が終わったら、時間をください」
たったそれだけの文章だが、今の私には決心して初めて打てた文章だった。
多分、まだ彼は寝ているだろう。
返事は、きっとまだ後だ。
だから、私はスマホを充電器に繋げ直すとベッドから起き上がった。
少し早いけど起きよう。
今日は気合を入れないと。
私はそう思いながら一階に下りていったのだった。