「今日はどうしたんだい?」
彼はいつもの微笑を浮かべて私に聞いてくる。
私は、どう切り出そうか迷っているうちに、注文したコーヒーが席に運ばれた。
その時、一瞬だが店長と目が合った。
その目は、がんばれと言っているように見えた。
そうだ。
がんばらなければ。
私には彼が必要なんだ。
悩んだ私が出した答え。
それが、結婚をしたいということなのかよくわからない。
しかし、今の私にとって彼はなくてはならないものになっていた。
それは空気と同じような感覚だ。
ごく当たり前に身近にあり、しかしそれがなければ生きていけない。
そんな感覚だ。
だからこそ、私は彼が必要なんだ。
私が星野つぐみという存在である為に。
私が私であるために。
そのために不可欠なもの。
それが彼だと思っている。
だから、軽蔑されるかもしれない。
怒られるかもしれない。
呆れ返られるかもしれない。
でも、それでも私には彼が必要なんだ
だから、私は頭を下げた。
「ごめんなさい」
いきなり私が頭を下げて謝ってきた為か、彼は鳩が豆鉄砲食らったかのようなぽかんとした表情になっている。
確かにいきなり謝れたらそういう態度になるだろう。
あああっ、私、何やったんだろう。
落ち着いているつもりがかなりテンパっているようだ。
慌てて、今まで心配かけてごめんなさいと言い直す。
それでやっと彼は納得した表情になる。
「それで、悩みは解決した?」
優しくそう言われ、私は首を振った。
そして、下を向いたまま私は少しずつ話していく。
私が木下さんにあなたを取られるんじゃないかと思い込んでしまった事。
イライラしてしまい、あなたやみんなに迷惑をかけてしまった事。
自分自身の情けなさや醜さに落ち込んでしまって、かえって心配させてしまった事。
そして、何より駄目なのはあなたを信じきれなかった事。
その結果、私はあなたに相応しいのかわからなくなってしまった事。
それらを話し終えると、ゆっくりと彼の顔を見た。
彼の表情を見るのはとても怖かったが、でも見なければ始まらない。
そこに浮かんでいる表情。
侮蔑なのか、見下しなのか、あきれ返りなのか。
どんな表情でも、私は受け入れなければならない。
だから、私は目をそらさずに彼の顔を見た。
そこに浮かんでいたのは、意外な事にうれしそうな表情だった。
「えっと、怒ってないの?」
私が恐る恐る聞くと、「怒って欲しいの?」と彼が聞いてくる。
「えっと、それとも呆れかえったとか?」
「いいや」
「なら、侮蔑したとか……」
「そんなわけないじゃないか。何でそんな事を聞いてくるんだい?」
「いや、だって……」
そこで私は言うか言わないか迷うが言ってしまった方がいいと思って言う。
「すごくうれしそうなんだもの」
その言葉に、彼は自分の顔を右手で触る。
「僕、うれしそうにしてた?」
「うん」
「そっか。うれしそうにしてたか……」
彼はそんな事を言ってなんか納得したような顔で頷く。
えっと……。
何?
どういうこと?
こんな反応予想外なんですけど。
多分、よほどきょとんとしていたんだろう。
彼が苦笑しつつ言う。
「なんかさ、つぐみさん。僕にメロメロなんだなって思えてさ」
そう言われて、私の顔に一気に熱が集まる。
耳まで熱い。
多分、真っ赤だろう。
しかし、何でそう取られるのだろうか?
真っ赤になりながらも、理由を聞きたくて彼を見つめる。
それでわかったのだろう。
頬をかきつつ、笑いながら彼は言ってくれる。
「だってさ、それだけ嫉妬したり不安に駆られるって事はさ、それだけ僕を好きにいてくれるって事だろう?」
そう言われ、私の顔に集まった熱がますます熱くなる。
確かに、言われてみたらそう取れるかもしれない。
だって、好きじゃなかったら、こんな思いはしないのだから。
だから、彼は前向きにそう取ってくれた。
私の心の中に渦巻く汚い感情、醜い感情を、それだけ自分を好きでいてくれる気持ちの一部して受け入れてくれたのだ。
自然と、私は泣き出していた。
そんな私に彼は優しく頭を撫でて慰めてくれる。
その手は暖かく、撫でられているとすごく落ち着く。
なんだろう。
このままずっと撫でられていたい気持ちになってしまいそうになる。
どれくらい時間が経っただろうか。
時間的には、それほど長い時間ではない。
でも、私にはすごく長い時間のように感じた。
そして、私が落ち着くのを見計らったかのように彼が呟いた。
「でも、怒ったほうがいいのかな?」
私は驚き、慌てて彼を食い入るように見た。
そんな私のに彼は笑いつつ言う。
「そうだな。一人で悩み、自分の価値を見下すつぐみさんにはお仕置きが必要だな」
「えっ?えっ?えっ?」
私が混乱している間に、彼は私を引き寄せて唇を奪う。
一瞬の事だ。
呆然としたまま、唇が離れて手が離された。
力なく私は椅子に深々と座り込む。
「いい、つぐみさん。これは僕からの提案だ。これからは何か悩みがあったら、僕に必ず相談する事。いいね?」
私はこくんと頷く。
右手の指で自分の唇を触る。
今の出来事が信じられなかった。
キスなんて何回もしたのに、今のキスは圧倒的だった。
「それに、自分の価値を勝手に決め付けないで。つぐみさんの価値を決めるのは僕だって、うぬぼれさせて欲しいな」
おどけたように言う彼に、私は圧倒されていた。
反対する気なんか起こる筈もない。
私にとっては、それはすごく幸せな事だと思う。
だから、私は何も言わずに彼の言葉を受け入れる。
「あとね。勘違いしているかもしれないから言っておくよ」
そう言って真剣な表情になる彼。
「今回のイベントも、僕の夢も……」
そこで言葉を区切り、彼はニコリと笑った。
「つぐみさんと一緒にやりたいからやるんだってこと。つぐみさんがいなかったら、こんな事はしないよ。僕はね、つぐみさんと一緒にいたいんだ」
その言葉が、私の心の中に染み渡る。
それは心だけに留まらない。
身体の中に、全てに染み込んでいく。
まさに、それが止めだった。
その時、私は始めて彼と結婚したいと思ってしまった。
ああ、これが、秋穂さんが言っていたことなんだ。
私の中にあったもやもやが晴れ、とどまっていたものがすとんと心の中の本来あるべき部分に落ち着いた気がした。
「私も、あなたと一緒にいたい……。ずっとずっと一緒にいたい……」
彼の右手が私の左手を握り締める。
それを私は握り返す。
「うん。ぼくもだ。つぐみさんと一緒にいたい。ずっとね」
そして彼が微笑み、私も微笑んだのだった。