あの日、遂にプロポーズしてから僕とつぐみさんの生活は大きく変化したという事もなく、月に一回になった親子プラモ教室や南雲さん達の模型同好会の展示会に合わせての訳アリ模型販売会の準備、それに新しく取引のできた模型同好会との話し合いやイベントの参加といった事を仕事の合間にやりつつ過ごすいつもの日常。
まぁ、忙しくはなったが、二人の間が大きく変化したわけではない。
いや、まったく変わらなかったわけではなく、大きな変化こそないが小さな変化がいくつもあった。
その一つにつぐみさんの家で食事をして、泊る日は間違いなく増えた。
反対に、母が『寂しいよぉ~』って言って、つぐみさんがうちに泊まる事もあるが、要は二人で一緒にいる時間が増えたのである。
そして、その時間もただベタベタしていたわけではない。
二人で結婚式や今後のことを話し合っていたのだ。
それも小さな変化の一つだ。
それらは大きな変化ではなかったが、幸せな変化だった。
まぁ、結婚とか二人で一緒に生活することの大変さを痛感する時間でもあったが……。
そんな感じで二人で話し合った結果、僕はつぐみさんの家に住むことになり、名字を変える事となった。
つまり、婿養子といった感じになるのだろうか。
父は最初こそいい顔をしなかったが、賛成だった母の説得と悟さんと何回か飲みに行くうちに意気投合したこともあってか、反対はしなかった。
そんな感じで、少しずつ二人で話し合い、周りの協力で問題を解決していったのである。
だから、このまま順調にいくと思っていた。
だが、そんな時にこそトラブルは起こるのである。
「ごめんなさい。今日は会えないって……」
今日は泊まる日ではなかったが、声が聞きたくてお店に寄った僕に、美紀ちゃんがそういって申し訳なさそうな顔をする。
「何かあったの?」
そう聞くと、言っていいのか迷っている美紀ちゃん。
まさか、結婚が決まった人がかかるマリッジブルーとか言う奴じゃないだろうな。
思わずそんな事を考えてしまったが、そんな事ではなかった。
「貴方ならきちんと言った方がいいよね」
そう言って、美紀ちゃんは言葉を続けた。
「つくねぇの大切にしていた眼鏡がね、壊れたの。で、いつものごとく修理に持っていったんだけど、もう無理だって言われて……」
そう言った後、慌てて眼鏡の事を説明しょうとし始める。
すぐに、僕はわかった。
以前、話してくれたお父さんの眼鏡だ。
だから、僕は慌てて説明しょうとする美紀ちゃんに言う。
「お父さんの眼鏡のことだろう?」
「う、うんっ。よかった……」
ほっとした表情をする美紀ちゃん。
話していいのか迷っていたんだが、つぐみさんがきちんとその事も僕に話していたのでほっとしたのだろう。
やはり、他人に知られたくない思いってのは誰にでもあるし、第三者が言っていいのか迷う気持ちもわかる。
だから、美紀ちゃんに言う。
「よく言ってくれたね。ありがとう」
僕の言葉に、美紀ちゃんは、僕を見てはっきりと言う。
「つくねぇ、多分、落ち込んでいるんだと思う。で、そんな顔を見せたくないんだよ」
「わかっているさ。つぐみさんはすぐに思い込んでしまうんだから」
そう言った後、僕は苦笑した。
「でも、そんなつぐみさんだから、より僕がしっかり支えないと駄目だって思うんだけどね」
軽口の口調でそう言ったが、それは僕の本心でもある。
多分、それがわかったのだろう。
美紀ちゃんは苦笑して、言い返す。
「うん。ありがとう」
「ああ。任せとけ。それにちょっと考えがあるんだ」
僕はそう言うと、ニコリと微笑んだ。
「えっ?!考えって……」
僕は一旦車に戻ってあるものを持ってきた。
そして、それを見せつつこう言うつもりだと美紀ちゃんに説明すると、美紀ちゃんは僕の背中をパンと叩いた。
いやすごく痛い。
だけど、それは彼女の熱い激励のエールでもあった。
「それいいと思う。だからさ……」
美紀ちゃんは笑った。
「絶対、つぐねぇの事、幸せにしてね」
「ああ。そのつもりさ」
そして、僕は家の中に入っていき、つぐみさんの部屋の前に行くとトントンとドアを叩く。
「美紀ちゃん、ごめんね。今は一人にしておいて」
つぐみさんの沈んだ声が少し遠くから聞こえた。
多分、部屋の奥にあるベッドにいるのだろう。
だから、僕は言う。
「僕だよ、つぐみさん」
その言葉に、部屋の中でガタガタと慌てて動く音が聞こえる。
「ごめんなさい。今日は……」
今度はドアのすぐ側で声がした。
多分、ドアの近くまで来たんだろう。
「大丈夫だよ。無理に開けたりしないさ。ただね、少し話がしたいだけなんだ」
僕がそう言うとつぐみさんは少し慌てたように答える。
「いえ。あなたならそんな事はしないって思ってる。でも、気が付いたらこっちに来てた……」
その言葉に、僕は言う。
「うれしいな。でね、話は聞いたよ。壊れた眼鏡って、この前話してた眼鏡だよね?」
その問いにつぐみさんは同意を示す。
「うん。もう駄目だって……。もう修理できないって。寿命でしょうって言われちっゃた。あなたに話したあの時はもう外してもいいって言っておきながら、壊れたらこんなにもショックで……、私、何やってるんだろう……って……」
段々と小さくなっていく言葉。
それを聞き、僕は言う。
「仕方ないさ。今までつぐみさんを支えてくれていたものだし、思い入れもあるだろうから」
そして、しばしの沈黙。
だが、その沈黙は意を決したようなつぐみさんの声によって壊される。
「貴方の声を聞いて決心した。私、もうこの眼鏡に頼ってはいけないんだって」
その言葉は、無理している感じが滲み出ていた。
まぁ、あれだけ思い入れがあるんだし、心の支えだったんだ。
そうなってしまうだろう。
だから、僕は用意してきた言葉を口にする。
「ならさ、僕の提案を聞いて検討してくれないかな?」
予想外の言葉に、つぐみさんが驚いたような声を上げる。
「提案?」
「うん。提案。でもさ、それを実行するには、会わないと駄目なんだ」
その言葉に、つぐみさんは沈黙する。
今の顔を見せたくない。
そんな思いがあるのだろう。
だが、僕の提案に魅かれるものがあったのだろう。
「えっと、今の私の顔見て幻滅しない?」
「幻滅なんてするもんか。この前も言っただろう。どんなつぐみさんもつぐみさんだって。そして僕はそんなつぐみさんが大好きなんだよ。わかってる?」
しばしの沈黙の後、ドアの向こうから小さく「ありがとう」という言葉が漏れた。
その後、ドアが開かれるとそこにつぐみさんの顔があった。
眼鏡のないつぐみさん。
腫れて真っ赤になった目。
いつもの笑顔がそこにはなかった。
だけど、僕の大好きなつぐみさんだ。
だから、僕はすーつと用意したものをつぐみさんにかけた。
それは以前使っていた眼鏡と似たような黒縁の大きな眼鏡。
そして、僕は言う。
「これからは僕が君の支えになる。どんな時も君を支え続ける。これはその証だ」
この眼鏡は以前話を聞いて、用意していたものだ。
以前お父さんの形見の眼鏡を見せてもらった時、かなり傷んでおり、今回みたいなことが起こったらと思って念のためにという気持ちで用意していた。
別に壊れても今回のようにならない可能性はあった。
でも、用意していた方がいい。
そんな気がしてならなかった。
もし、今回のことのようにならない時は、笑い話のネタにでもすればいいかとか思ってはいたし、それにこんなに早く使う事になるとも思っていなかった。
だから、買っておこうと思ったその時の自分をほめてやりたいと思う。
つぐみさんは、眼鏡をかけられて驚いていた。
「えっ?この眼鏡……」
そんなつぐみさんに僕は優しく話しかける。
「前、話を聞いた後にね、もし今の眼鏡が壊れたら渡そうと思って準備していたんだ」
僕はそう言った後、苦笑して言葉を続ける。
「もっとも、こんなに早く使う事になるとは思ってなかったけどね」
そんな僕の軽口に、やっとつぐみさんは笑った。
「もう……」
ほっとしたような表情のつぐみさん。
「ありがとう」
そう言うとつぐみさんは僕に抱きついてくるとキスをする。
僕はそれを受け入れ、優しく抱きしめた。
「おとうさん、私、すごく幸せだよ。だから、見ててね」
つぐみさんが小さな声でそう呟く。
「ああ。見せつけないとな」
そんな僕の言葉に、つぐみさんは笑う。
目は腫れていたが、その笑顔はいつものつぐみさんのものであった。