「氷の鍵」を探す旅が翌朝から始まるという前夜のこと。青山智也は、ダンジョンの中に設けられた一時的な休息所で、一人、目を閉じていた。周りでは仲間たちが思い思いの準備をする物音が響いていたが、彼の心はずっと遠くへと飛んでいた。
東京での過去。IT企業での栄光と挫折。そして地元に戻ってきた時の複雑な思い——。
すべてが不思議な縁で繋がっているような気がしてならなかった。
「だいじょうぶ?」
静かな声に、青山は目を開けた。白石乃絵が心配そうな顔で覗き込んでいる。
「ああ。ちょっと考え事を」
「無理もないわ」白石は彼の隣に腰を下ろした。「ここ数日の出来事は、SF映画の脚本を地で行くようなものだもの」
白石の言葉に、青山は小さく笑った。確かにその通りだ。磐梯山の中に突如として現れたダンジョン。火の巫女との対面。そして「火の鍵」の発見——。すべては非現実的なことばかりだった。
「白石さんは信じられますか? この状況を」
「どうかしら」彼は少し考えてから応えた。「医学的には説明できないことばかりだけど、それでも目の前で起きていることは否定できないわ。だから私は、この現実を受け入れることにしたの」
白石の穏やかな言葉に、青山は少し心が軽くなるのを感じた。
「あの、青山くん」白石が少し身を乗り出してきた。「失礼かもしれないけど、聞いてもいいかしら? あなたの家族のこと」
「僕の家族?」
「ええ。『蒼の血を引く者』という言葉が気になって」白石は真剣な表情で言った。「あなたの家系と火の巫女には、何か深い関係があるのでは?」
青山はため息をついた。「実は、僕自身もよく分からないんです。父はあまり家系のことを話したがらなくて...」
そこで会話が中断した。村瀬副団長が二人に近づいてきたのだ。
「悪いな、話の最中に」村瀬は二人の表情を見て言った。「だが、青山、ちょっと来てほしい場所がある」
「場所ですか?」
「ああ。このダンジョンの中で見つけたものでな。佐久間が、お前に見せるべきだと言っている」
青山は白石に小さく頷いて立ち上がった。「後でまた話しましょう」
「ええ、もちろん」
村瀬に導かれるまま、青山は休息所を出て、青白い炎が照らす通路を進んだ。二人は黙々と歩いていたが、ふと村瀬が口を開いた。
「お前、自分の名字の由来を知っているか?」
「え?」青山は意外な質問に首を傾げた。「『青い山』からでしょうか...」
「そう単純なものじゃない」村瀬は足を止めずに言った。「この辺りでは、かつて『蒼』という一族がいた。古くは平安時代から続く名家で、磐梯山の火の巫女を守護する役目を担っていたという」
「それが...僕の先祖?」
「可能性は高いな」村瀬はうなずいた。「『蒼山』が転じて『青山』になったという説もある。だが、消防団の古い記録にも、『蒼の一族』の名が出てくるんだ」
「消防団の記録に?」
「ああ。実は消防団の起源も古い。かつては『火消衆』と呼ばれ、火の力を操る術を代々伝えてきたとも言われている」
青山は驚いて足を止めた。「まさか...」
「驚くな」村瀬は苦笑した。「俺も最近まで伝説だと思っていた。だが、今回の出来事で、伝説の中にも真実があるのかもしれないと思うようになった」
二人は再び歩き始め、やがて大きな石扉の前に辿り着いた。扉には炎と氷が交差するような模様が彫り込まれている。
「ここだ」村瀬はノックするように扉を叩いた。
中から佐久間の低い声が応えた。「入れ」
扉を押し開けると、そこは小さな部屋だった。中央に石のテーブルがあり、佐久間がランプの明かりで何かの古い文書を広げていた。
「来たか」佐久間は顔を上げずに言った。「見てみろ、青山。おまえの家系図だ」
「え?」
青山は驚いて石のテーブルに近づいた。そこには古びた和紙に、細かい墨書きで系図が描かれていた。最上部には「蒼氏系図」と書かれている。
「これは...どこで?」
「この部屋で見つけた」佐久間はようやく顔を上げた。「ここはかつての記録庫だったようだ。磐梯山の秘密、火の巫女の封印、そして『蒼の一族』の歴史...すべてがここに記されている」
青山は震える手で系図に触れた。そこには千年以上にわたる名前の連なりがあった。そして、系図を辿っていくと、現代に近づくにつれ、「蒼」という姓が「青山」に変わっていくのが見えた。
「まさか...本当に僕の先祖が...」
「間違いない」佐久間は静かに言った。「おまえは『蒼の血を引く者』だ。火の巫女・
「でも、それならなぜ父は何も...」
「それこそが、おまえが知るべき真実だ」村瀬が重々しく言った。「青山家は代々、ある秘密を守ってきた。しかし、その使命は次第に忘れられていった...いや、意図的に忘れさせられたと言うべきかもしれない」
佐久間が別の文書を広げた。それは日記のようなものだった。
「これは、百年前の『火の封印の儀』に参加した青山治郎の日記だ」佐久間は説明した。「おまえの曽祖父にあたる人物だろう」
青山は息を呑んで、その文書を覗き込んだ。達筆な文字で綴られた日記には、こう書かれていた。
『八月十五日。今夜、またもや炎舞祭が行われる。表向きは祭りとして、しかし真の目的は火の巫女の封印を強めるためのものだ。私は蒼の末裔として、本来であれば巫女を救うべき立場にある。しかし、村の長老たちは私の家系を監視し、真実を語ることを禁じている。先祖の蒼が愛した女性が、今や悪霊として扱われることの悲しさ。されど、今の私には力がない。せめて、後の世に真実を伝えるため、この日記を残す。いつか訪れるであろう「選ばれし者」のために...』
「曽祖父が...こんなことを...」青山は言葉を失った。
「青山家は両面の立場にあった」佐久間は静かに説明した。「一方では火の巫女を封印する儀式に参加することを強いられながら、もう一方では巫女の真実を知る唯一の家系として、密かに真実を守り続けた」
「矛盾した立場ですね」村瀬が腕を組んだ。「そういえば、青山、おまえの父親は消防団に入らなかったな」
「はい...」青山は少し考え込んだ。「父は『火には近づくな』と言っていました。子供の頃は単なる心配かと思っていましたが...」
「おそらくは『火の封印』に関わることを避けていたのだろう」佐久間はうなずいた。「彼なりの抵抗だったのかもしれん」
青山はさらに日記を読み進めた。そこには、治郎の苦悩と葛藤が克明に記されていた。そして、最後のページには衝撃的な記述があった。
『私は決意した。次の世代には真実を伝えよう。しかし、その翌日、私の家が放火された。幸い家族は無事だったが、古い文書の多くを失った。これは明らかな警告だ。村の長老たちは、真実が明かされることを恐れている。今後は表向き、彼らに従うふりをしながら、密かに真実を守り続けねばならない。そして千年目の封印の時...「選ばれし者」が現れる時まで待つのだ...』
「放火...」青山は震える声で言った。「これが消防団の...いや、火消衆の歴史の一部だったなんて」
「すべての消防団員が知っていたわけではない」村瀬は悲しげに言った。「一部の古参団員が、代々『火の封印』を守る秘密の任務を負っていたんだ。おそらく高倉団長の先祖も、その一人だったろう」
「それで僕が『選ばれし者』に...」青山は自分の掌を見つめた。「でも、なぜ今なんですか?」
「千年に一度の時だからだ」佐久間は文書を丁寧に畳みながら言った。「火の巫女が封印された時から、ちょうど千年。そして、『蒼の血』を引く者として、おまえこそが巫女と対話できる唯一の存在なのだ」
青山は頭を抱えた。あまりにも突然の真実の重みに、思考が追いつかない。
「混乱するのも無理はない」村瀬は彼の肩に手を置いた。「だが、時間がない。明日から『氷の鍵』を探す旅が始まる。その前に、おまえは自分の立場を理解しておく必要があった」
「少し...時間をください」青山は絞り出すように言った。
「ああ」村瀬はうなずいた。「じっくり考えろ。だが、一つだけ覚えておけ。おまえは一人じゃない。我々全員がおまえを支えている」
村瀬と佐久間が部屋を出て行った後、青山はしばらくその場に立ち尽くしていた。目の前に広がる系図と日記。そこには彼の知らなかった過去と、これから向き合わねばならない使命が記されていた。
「蒼の末裔...」
彼はつぶやいた。かつて火の巫女を愛した男の血を引く者。千年の時を超えて巡り巡り、また同じ運命に導かれた者。
「父さんも知っていたんだ...」
青山は父親のことを思い出していた。無口で厳格な男だったが、磐梯山を見るときだけは、どこか物憂げな表情を浮かべていた。それは今思えば、先祖から受け継いだ悲しみだったのかもしれない。
しばらくして、扉が静かに開く音がした。振り返ると、そこには橘遥が立っていた。
「ごめんなさい、邪魔しちゃった?」橘は申し訳なさそうに言った。
「いや、大丈夫だよ」青山は微笑んだ。「何か用事?」
「村瀬さんから聞いたの」橘は部屋に入ってきた。「青山くんが自分の家系の秘密を知ったって...」
「ああ、まだ整理できてないけど」
橘はテーブルの文書に目を向けた。「わあ、これが青山くんの家系図? 歴史研究家として見たら宝物ね!」
彼女の素直な反応に、青山は少し気持ちが軽くなるのを感じた。
「橘さんは、こういう伝承を研究してきたんだよね」
「そうよ。特に火の巫女の伝説には以前から興味があったの」橘は目を輝かせた。「でも、公式の歴史と民間伝承には大きな違いがあって...今回の発見は、その民間伝承の方が正しかったことを証明しているわ」
「どういうこと?」
橘は系図に目を通しながら説明した。「公式な歴史では、火の巫女は災いをもたらす存在として描かれてきた。でも、一部の古老たちの間では別の話が伝わっていたの。巫女は本来、村を守る存在だったという...」
「そう書かれてる」青山は日記を指さした。「曽祖父のこの日記にも」
「そうでしょう?」橘は興奮した様子で言った。「私が集めてきた話と一致するわ。そして『蒼の一族』についても。彼らは巫女の守護者だったという伝説があったの」
「守護者...」青山はその言葉を噛みしめた。「なのに、巫女が封印されるのを止められなかった」
「それが悲劇なのよ」橘は真剣な表情になった。「権力者たちは巫女の力を恐れ、『蒼の一族』を監視下に置いた。真実を語ることさえ禁じられたの」
青山はふと思い出した。「そういえば、小さい頃、祖父から不思議な話を聞いたことがある」
「どんな話?」
「『青い炎を見たら、決して逃げるな』って」青山は懐かしむように言った。「当時は怖い話だと思ったけど...今思えば何か意味があったのかも」
橘は目を見開いた。「それ、『火の巫女の唄』の一節よ! 『青き炎見たらば 逃げずに立ち向かえ 選ばれし者なれば 真実見えてくる』」
「まさか...」
「きっと祖父さんは、少しでも真実を伝えようとしていたのね」橘は感動したように言った。「直接的には言えなかったから、昔話の形で...」
青山はテーブルに広げられた文書を見つめながら考え込んだ。そこには彼の知らなかった過去が広がっている。そして、その過去は現在の彼の存在意義にも関わるものだった。
「橘さん」彼は決意を固めるように言った。「もっと知りたい。僕の家系のこと、火の巫女のこと、そして...なぜ彼女が封印されなければならなかったのか」
「一緒に調べましょう」橘は力強くうなずいた。「この部屋には、きっとまだ多くの真実が眠っているわ」
二人は黙々と文書を調べ始めた。封印の真実に迫り、過去と向き合うことで、未来への道も見えてくるはずだと信じて。
部屋の隅に置かれた青白い炎のランプが、かすかに大きく揺らめいた。まるで、千年の時を超えて二人を見守る者がいるかのように。