目が覚めて、呑気に目を開けて息を吸おうとしたが、それより早く感じたのは肌を満たす冷たさと重さ。
認識した異変を何だと不思議に思ったが、目を開いてすぐに答えに辿り着き、慌てて口や鼻を手で押さえながら状況を確認していく。
スカイタワーの屋上で何かとてつもない衝撃を感じたと思えば、次の瞬間にはこのザマだ。
恐らくここはどこかの川底。何をされたかは分からないが、屋上から落とされてここまで墜落した。単純に考えるのであれば、おおよそそんな所だろう。
あーあ、水没したらスマホがおじゃんだよ。
それにどこの川かは知らないが、都会の汚い川じゃスーツも駄目になってそうだ。高かったのになぁ。
どこか他人事のように考えながら、呼吸のためにひとまず上がろうとして上を向いて──水中だというのに、目を大きく見開いてしまう。
見上げる空は、月はこんな川の水を通してでも、あんなにも禍々しいほど赤に染まっている。
……なるほど、これが先輩達の言っていた赤い月ってやつか。
先輩や世の中の
『人よ悪魔よ、傾聴せよ。我はヴァミリオン。唯一在る赤、世界の色となる赤である』
聞こえる。聞こえてきてしまう。
水の中だからとかじゃなくて、当たり前のように耳じゃなくて心臓……いや魂にまでよく届いてくる、少女であった悪魔の声が。
俺達は……いや、俺は失敗した。
あんなにも自信満々に豪語したのに、あんなにも格好付けて任されたというのに、先輩の友人を器とした悪魔達の目論見をまんまと果たさせてしまった。言い訳なんてしようのない失態だ。
──だから、だから何だというのだ。
助けを呼ぶ声がする。
誰かが泣いている声が聞こえる。
先輩はまだ、自分の友人を助けようと願っている。
助けたいと願う人が折れないのであればもちろん、例え誰もが折れようとも、このイケメン仮面が折れていい道理なんてこの世にはない。真のイケメン、真のヒーローなんてのは、それだけで立ち上がれるはずだ。
そうだ、俺の名はイケメン仮面。
可能な限り市民を助ける正義のヒーロー、俺が誰もに自慢できる唯一絶対の最推しであるイケメン。
そんな男がまだ何も終わっちゃいないのに、またうだうだ落ち込んでいるなんてことあり得ないだろう?
強く決意した瞬間、どこからともなく湧き上がってくる不思議な感覚。
冷たい水の中だというのに、そうじゃないとさえ思える居心地の良さ。何だって出来るかもしれないなんて思えてしまう万能感。
自分の目が、五感が、魂が輝いていると実感する。
黄金。湧き上がってくるイケメンパワーは無尽蔵のゴールデンで、いつもよりずっとずっと熱く強く煌めいている。
自分に何が起きているのかよく分からないが、今はどうだっていいことだ。
今ならどこへだって行ける気がする。どこまでだって飛べる気がする。どんな危機だって乗り越えられる。やり方なんて分からないけど、きっと先輩の友人を助け出せるはずだ。
「イケメン仮面、イケメンゴールデンジャンプ」
ゴールデンを付けた意味なんてのは、その場の気分でしかないけれど。
それでも今のイケメン仮面はゴールデンフィーバーモード。全力の更に先、イケメンパワーの大覚醒だ。
進化したイケメンジャンプは、のし掛る大量の水を吹き飛ばしながら空へと出て。
イケメンハイジャンプでは数回とダッシュを要した摩天楼を、たったの一っ飛びで屋上へ舞い戻らせてくれた。
「返してもらうよ。平和な夜と、器の少女を!」
屋上へと躍り出た俺は、髪を茶色から赤へと変えた少女に、紅い瞳でじっと睨まれる。
「……無粋な人よな。諸共に染まれ、
少女が──否、ヴァミリオンと名乗った赤の大悪魔がこちらを流し見ながら、人差し指を下ろす。
刹那、赤く光る月が妖しく輝いたと思えば、雲もない夜空から無数の赤い雨が降り注ぐ。
雨のように大量に、槍のように鋭く、鉄のように重く、そして絵の具のように塗り潰さんと。
直感する。もしも一滴でも地上へと届いてしまったら、地上に溢れる人々に当たってしまったら、たちまち世界は赤という脅威で埋め尽くされてしまうだろう。
──だけど大丈夫。ここには、この空には、黄金に輝くイケメン仮面がいるのだからっ!!
「見ていきなよ! イケメン、ゴールデンダンスをっ!」
イケメンゴールデンステップ。
黄金に輝いたイケメン仮面のステップは、空さえ踏み、どんな場所だって歩いていける。
そして更に、イケメンゴールデンダンス。
黄金に輝いたイケメン仮面のダンスは、どんな相手も、どんな攻撃だって虜にして敵意を奪う。
「……忌々しいな。なれば記念すべき最初の一人は、
赤い大鎌。
あのゴスロリ服の悪魔が持っていたのと同じデザインで、明らかにそれ以上の禍々しさを宿らせた大鎌を彼女は現出させ、その手で握りしめる。
あれもレッドスカー同様、何かしら厄介な力を秘めているに違いない。細心の警戒を払わなくては──。
一挙手一投足を見逃さないよう、大悪魔がその場で鎌を振ろうとしたその瞬間、イケメンゴールデンセンスがけたたましく警鐘を鳴らしてくる。
何かあるとイケメンステップを踏めば、先ほどまでいた場所には大きな歪みが刻まれている。
まるで空間ごと裂かれたみたいで、すぐに無理矢理世界が縫合したみたいに塞がれた穴。あんなの食らったら、人も街だってひとたまりもない。
「墜ちろ」
「そういうわけには、いかないね!」
ゾッとする間もなく、一瞬にして目前まで迫り大鎌を振り下ろしてきた大悪魔。
刃を躱し、振り下ろされる間際に柄を掴んで強引に軌道を持ち上げれば、次の瞬間には軌道の空に歪みの線が刻まれてしまう。
……危ない。あんな攻撃が地上に届いたら、人も街も大変なことになってしまう。
さっきの雨もそうだが、こんな程度の高さでは駄目だ。もっと高く、何も気にせず戦える高い場所へ移動しなければ。
「もっと上でやろう。イケメン、ゴールデンスロウ……なっ」
周囲などお構いなしと。
連続して鎌を振るう悪魔を投げ飛そうと腕を掴むが、まるで煙のように手応えを失ってしまう。
まずい、レッドスカーの煙化も使えるのか。
ここで逃がしたら駄目だ。もう一度接近することには、間違いなく被害が出てしまう。
イメージしろ。真のイケメンであれば、イケメン仮面であれば、形なき煙さえ握手やハグでファンサービス出来ると!!
「頑張れ負けるなイケメン仮面! イケメン、ゴールデン、スローウッ!!」
「……なに?」
自らを鼓舞しながら、イケメンパワーをひたすらに上げていく。
すると黄金を纏ったイケメンハンドは煙のまま掴み、困惑する大悪魔をそのまま更なる空へと放り投げ、イケメンゴールデンダッシュで追いかける。
「馬鹿な、あり得ない。煙の
「そんなことはないさ。正義のヒーローは、誰かを助けるためだったら煙だって掴めるものなんだ!」
赤に染まった夜空の中で、俺と赤の大悪魔はひたすら、何度も何度もぶつかり続ける。
赤と黄金の衝突は、きっと今宵の夜空に何よりも輝く星を描くだろう。
……不思議だ。
相手はあのゾンクリムよりずっと強いと分かっているのに、鎌だってあのゴスロリ少女が持っていた鎌よりずっと恐ろしいのに、今はどうにも負ける気はしない。
まるで止めどなく溢れんとするゴールデンが、負けるなと応援してくれているかのようだ。
「悪魔を凌ぐ色だと……!? あり得ないぞ貴様、何なのだその黄金は……!!」
「決まっているよ。イケメン仮面の力の源なんて、イケメンパワー以外にないだろう?」
イケメンチョップで巧みに振るわれる鎌を砕き、イケメンキックで思いっきり蹴り上げる。
どうにか空で制止した大悪魔は、顔を歪ませながら真っ赤な血を吐き落とし、空さえ軋ませるほどの赤色のオーラを増幅させていく。
「ぐっ、もういい。余興は十分だ。
彼女が再び形成したのは、先ほどとは比にならないほど
人の体で振るうにはあまりに
真横に薙がれた大鎌は、月さえ埋めるほど巨大な赤の斬撃を描き、流星となって墜ちていく。
あまりに大きな力。止めなければ死ぬだけでは済まされない。──だから、止める。
「こっちも最後だ。その娘を返してもらおう、イケメン……ゴールデン……パンチィッ!!」
際限なく溢れる黄金のイケメンパワー。
その全てを拳一つに集約させ、斬撃の中心を見据えながら、空から迫る赤目掛けて全力で振り抜く。
放出された黄金は、まるで昇っていく星のよう。
黄金の波動はどこまでもどこまでも、赤い斬撃さえ貫いて、赤の大悪魔さえ呑み込んで昇る。
「ああ、温かい……そうか、そうだったのか……!! その色は、黄金は、お父様の──」
赤髪の少女から、薄い輪郭の何かが抜けていき、
やがて黄金の波動が空から消え、空も月も赤色からいつもの色や空気へと戻り。
元通り茶色の髪となった先輩の友人の体がゆっくりと落ち始めるのを目にしながら、解決だと安堵しようとした瞬間、イケメンパワーを出し切った俺の体もずっと重くなってしまう。
まずい、まずいまずいまずい!
これじゃ落ちちゃう! せっかくイケメン仮面が勝ったのに、落ちて二人とも轢かれたヒキガエルみたいにぺしゃんこになっちゃう!
うおー絞り出せイケメンパワー! 根性見せろイケメン仮面!
終わるまでが遠足、解決して安全を確保するまでがヒーローだろう!? 先輩の期待に応えるべく、もっと気張りやがれ馬鹿ぁ!!
「んんぅ……むにゃあ……んれえ、もう朝……にしては暗い……?」
「ふうっ大丈夫かい?」
「んへえ……ううん? ううんん!?!?」
残っていた絞りかすみたいなイケメンゴールデンパワーで空を駆け。
どうにか華麗にキャッチし、ほっと一息つきながらゆっくりと空を降りていると、眠り姫であった茶髪の少女がゆっくりと目を覚ます。
最初こそ夢かと寝惚けていたが、ここがベッドの上でなく空だと理解が追いついたのか、それはもう混乱しながら周囲を見回し始める。
どうやら今までのことは覚えていないようだ、良かった。
いきなり空の上ってんだから当然かもしれないが、予想通りいい反応するな……っておっと。
「夢!? もしかして夢!? でも夢にしてはすごいリアルに落ちてるんだけど!?」
「おっと、申し訳ない。元気なのはいいことだが、空の最中ではあまり暴れないことをおすすめするよ」
「あ、はい……ってやだ、目を隠していても分かっちゃうほどのイケメンさん……♡」
全身がキリキリと悲鳴を上げてるし、イケメンパワーもかっつかつなのでイケメンスカイウォークの維持に必死だが、そんなことは今起きた先輩の友人には関係ない。
真のイケメンならば不安にさせないよう我慢して当然だと、優しくも強く抱きしめながら必殺のイケメンスマイルをしてみれば、先輩の友人はうっとりとしながらこちらへ熱っぽい視線を送ってくる。
うん、やっぱりイケメンスマイルってすごい。きっと先輩が特殊な趣向なだけなんだな。
「あ、あのぉ……お名前をお伺いしても……?」
「ああすまない。俺の名はイケメン仮面。可能な限り人を市民の味方、正義のヒーローとして活動させてもらっているものだよ。よろしくね☆」
「ひゃ、ひゃい……♡ イケメン仮面様……♡ 声もかっこいいよぉ……♡」
再びきらりとイケメンスマイルをすれば、やはり蕩けた顔をしてくるご友人。
その後、趣味とか好きな料理とか休日何してるかとか。
何故かお見合いの初歩みたいな質問をされながらも、まあパニックになられるよりはいいかと答えながら、ゆっくりと空を降りていく。
ああちなみに、お名前は
そんな質問タイムを続けていると、いつしか粒みたいだった街が元の大きさへと戻っていく。
もうすぐ地上か。地上まで持ってくれて良かった、流石はイケメンパワーだ。
「さて、目的の彼女は取り返したし、後は先輩と合流して──」
「随分手間取ったみたいね、正義のヒーローさん」
ゆっくりと地上へと着地し、ふらつかないよう努力しながら、先輩の友人を解放して大きく息を整えて。
少し落ち着いた後、騒がれる前に先輩も下ろさなければと、気合いと力を振り絞ってイケメンジャンプしようと思った矢先だった。どこからともなく先輩の声が聞こえたのは。
「は、はなちゃん……!? す、すごい怪我だけど大丈夫なの……!?」
「へ、平気よ
「それまったく安心出来ないよもう、いつも馬鹿ぁ!」
声の方へと向けば、近場の椅子にボロボロになりながらも座り込む先輩の姿が。
先輩を目にした先輩の友人もとい
しかし先輩、はなちゃんなんて呼ばれてるんだ。親友って感じで、なんか少し羨ましいな。
「無事で良かった。悪魔を倒したのは聞いていたが、助けに向かう余裕がなかったから」
「ゾンクリムのやつが下ろしてくれたのよ。勝者への褒美だって……赤の悪魔に借りを作るなんて、末代までの恥よ」
うわんうわんと泣きじゃくる
そんな先輩に声を掛けてみれば、遺憾とばかりに不満を口にする。
ちなみに、明らかに不良の喧嘩でつく傷ではないのだが、それで通せるのだろうか。
「随分痛めつけられているが、傷の方は大丈夫かい?」
「治療できるやつを呼びつけたから心配ないわ。……それよりもう行きなさいな、そろそろ騒ぎを嗅ぎつけた連中が到着する頃。
「……そうだね。正義のヒーローは役目を終えたらすぐ去るべし。イケメン仮面はそろそろ離れるとしよう」
先輩の指摘に、確かにそうだと小さく頷く。
先輩の言うとおり、イケメン仮面は可能な限り市民を助ける正義のヒーロー。
国に首輪を付けられ、公務として人を助け、時には法と規律の下で目の前の人を見捨てる選択を強いられるなんて、それこそ俺の理想のイケメンにはほど遠いからね。
「今宵、貴女と共に戦えたことは、イケメン仮面としていつまでも刻むべき誇りだ! ありがとう、
大きな声で心の底からの感謝を告げ、今日一番の気合いを込めた礼をしてからイケメンジャンプ。
穴と傷だらけのマントを靡かせ、ボロボロになってしまったスーツを着ながら、それでも満ち足りた気持ちに口元が緩みながら、夜の街を跳び去っていく。
こんなにも色々あって、得たのは少女二人の明日だけ。
……まったく、随分な夜だったよ。でもまあ、正義のヒーローとしちゃ最高の報酬じゃないか?