バンは市街地を離れ、山道に入っていった。窓の外には新緑の美しい景色が広がり、木々の緑が春の日差しを受けて輝いていた。バンの中は会話で温かな雰囲気に包まれていたが、拓人さんの表情だけは少し緊張しているようだった。彼は常に警戒を怠らない。その慎重さは、妹さんのことがあってからずっと身についたものだろう。
やがて人里離れた森の中の小道に入り、大きな木製の門の前で停車した。門には「野生動物保護センター」と書かれた看板が掛かっていた。
「さあ、着いたよ」
わたしが告げると、四人はバンから降りた。春の若葉が眩しい森の入り口。鳥のさえずりが心地よく響き、どこかで小川のせせらぎも聞こえる。そよ風が髪を撫で、優しい香りを運んでくる。とても平和な場所だ。
門の前には、30代半ばくらいの男性が立っていた。フィールドジャケットを着て、肩には双眼鏡を掛けている。わたしたちに気づくと、彼は笑顔で近づいてきた。
「千秋さん、来てくれてありがとう」
彼は元気よく手を振りながら声をかけてきた。
「お久しぶりです、健太郎さん」
わたしも笑顔で挨拶を返した。飯島健太郎さんはこの施設の管理人で、わたしとは何度か仕事で関わったことがある。動物好きで温厚な性格の彼は、魔法生物たちからも信頼されているのか、懐かれるのが早い。
「ご注文いただいた薬と餌を持って来ましたよ」
「助かるよ」
健太郎さんは優斗くんと茜ちゃんに気づき、好奇心いっぱいの目で彼らを見た。
「新しいスタッフかい?」
「はい、高校生のアルバイトです。高梨優斗くんと水沢茜ちゃん。……ちょっと不思議な縁があって、手伝ってもらうことになったんです」
わたしが二人を紹介すると、健太郎さんは頷き、親しげに手を差し出した。
「よろしく、飯島健太郎です。ここの管理人やってるんだ」
「初めまして!よろしくお願いします」
優斗くんが元気よく握手した。彼の目は周囲の景色を食い入るように見ている。茜ちゃんも礼儀正しくお辞儀をした。
「実は魔法生物を見るのが楽しみなんです!」
優斗くんの声には抑えきれない興奮が滲んでいた。
「魔法に興味があるのかい?」
高速で頷く優斗くんの様子を見て健太郎さんが嬉しそうに言った。彼は若い人たちが魔法界に興味を持つことをいつも喜んでいた。
「それは良かった。若い人に知ってもらうのは大事なことだからね」
健太郎さんの表情が明るくなったが、わたしは彼の目の下のクマが気になった。何か問題でもあったのだろうか。
「ところで、例の河童ドラゴンはどうです?」
わたしが尋ねると、健太郎さんの表情が少し曇った。
「それが……具合があまり良くない感じなんだ。最近食欲がなくて」
「そう……それで緊急で栄養剤を頼んだんですね」
依頼の緊急性の理由を理解したわたしが答えると、健太郎さんが頷いた。
「できれば千秋さんに診てもらいたいんだ。魔法使いの資格を持ってるんだから、魔法生物の医療にも詳しいだろう?」
「うっ、確かに授業では習ってるけど……できる限り頑張ります」
「へっぽこな返事だなぁ。間違って死なすんじゃねえぞ」
拓人さんがチャチャを入れてくる。
「そんなヘマするわけないでしょ!失礼な」
――確かに自信があるわけじゃないけど、もうちょっと信用してくれてもいいと思うよ!
「じゃあ、まずは荷物を運んでしまいましょう」
わたしは二人のバイトの子たちに向き直った。
「優斗くんと茜ちゃんも荷物を持ってくれる?」
四人は健太郎さんの案内で施設内に入った。表からは普通の動物保護施設に見えたが、奥に進むにつれて様子が変わってきた。空中を飛ぶ小さな光の玉や、半透明の結界が見えてきたのだ。優斗くんと茜ちゃんの目が徐々に大きく見開かれていく様子が、わたしには可笑しくもあり、懐かしくもあった。
「ここから先は本来一般の人には見せない部分だよ。魔法生物たちはここで保護されているんだ」
健太郎さんが二人に説明した。
敷地内はかなり広く、様々な環境が再現されていた。小さな池や、ミニチュアの山、洞窟など。それぞれの環境に合わせた生き物が暮らしている。池では青い光を放つ水妖精が水面の上を飛び回り、小さな丘の上では、角の生えた白い子鹿が草を食んでいた。
「あれは何ですか?」
優斗くんが池の上を飛んでいる小さな青い生き物を指さした。
「水妖精だね。昔は自然界にたくさん住んでたらしいけど、今はあまり見かけなくなったね」
健太郎さんが説明した。
「水質浄化の能力を持っていて、環境保全に一役買ってくれているんだ。自分のまわりの水をきれいにして、住みやすくするためらしい。でも汚れた水ばかりの環境じゃ負荷がかかりすぎて弱ってしまう。だからここで保護してるんだよ」
茜ちゃんは科学者のような鋭い観察眼で周囲を見回していた。彼女の目には好奇心と分析の光が宿っている。
「この施設では、魔法生物の研究とかもしてるんですか?」
健太郎さんが頷いて答えた。
「そうだよ。保護が主な目的だけど、彼らの生態を研究することで、より良い環境を提供できるからね」
一行は奥にある小さな診療所のような建物に向かった。そこには小型種とはいえドラゴンが自由に動き回れるほどの大きな水槽が置かれ、底には青緑色の小さなドラゴンがぐったりと寝そべっていた。体長は60センチほどで、頭には河童のような皿があり、背中には小さな翼がある。鱗は宝石のように光を反射し、半透明の翼膜が美しかった。
「この子が病気の河童ドラゴンですね」
わたしは水槽に近づいた。ドラゴンは横たわったまま、あまり動かない。時折、弱々しく尾を動かす程度だ。
「なんだか動きが鈍いですね。確かに元気がなさそう……」
「徐々に食欲が落ちてきて、三日ほど前からほとんど何も食べなくなったんだ」
健太郎さんが心配そうに言った。
「熱もあるみたいで、体に触れると水の中なのに熱いんだ。ドラゴンの周囲の水はぬるま湯みたいになってるよ」
わたしは詳しく症状を聞き、持ってきた薬の中から小さな瓶を取り出して水槽の水に数滴垂らした。薬が水に混ざるにつれて水が淡く光り始め、ドラゴンの周りを包み込んでいく。
「これは診断のための薬です。痛みを感じている場所とか、熱を持っている場所とかを可視化してくれて、全体的な体の状態が分かります」
わたしは表情を引き締めて水槽を覗き込んだ。魔法生物の体調を可視化してくれるこの診断薬は初歩的なものだけど、会話ができない魔法生物の不調の原因部位を特定するため、初診時によく使われる。水の色が変化し、ドラゴンの体の一部が赤く光り始めた。特に腹部が強く光っている。
「どうやら胃の辺りに何か異物があるみたいですね」
わたしは少し眉をひそめて言った。
「誤って人間の世界のものを食べてしまったのかもしれないですね」
「そういえば……」
健太郎さんが思い出したように言った。
「先週、近くの川で偶然発見して保護したんだけど、簡単に保護できたという事は、もしかしたら空腹でその時に何かを食べてすでに弱ってたのかも……」
「で、治療法は?」
拓人さんが尋ねた。彼もドラゴンを心配そうに見ていた。実は基本的に動物が好きなのだ。普段はクールを装って隠しているつもりの彼だが、動物に対しては優しい目をする。
「これはちょっと専門的な解毒剤が必要だね。持ってきてたかなぁ」
わたしは色々な薬の入った診察カバンの中をごそごそと漁り、さっきとは別の瓶を取り出した。透明な液体が入った小瓶で、中で小さな光の粒子が舞っている。
「あった!これは魔力をまったく含まない物質の分解を促進する薬です。これを水に混ぜて、一時間ほど様子を見ましょう」
わたしが瓶の中身を水槽に注ぐと、ドラゴンの体がゆっくりと光り始めた。体全体が青白い光に包まれ、腹部の赤い光と混ざり合っていく。
「すごい……」
優斗くんが感嘆の声を上げた。彼の目は輝き、まるで初めて花火を見る子供のような純粋な驚きに満ちていた。
「本当に魔法の薬なんですね」
「そうだよ」
わたしは頷いて説明を続ける。
「魔法生物には魔法の治療が必要なことが多いの。彼らの体は魔力と深く結びついているから、普通の薬では効果が薄いんだ。体内の構造がよく分かってないから、簡単に手術もできないし」
「科学的に見ると、これはどういう作用なんでしょう?」
茜ちゃんが興味深そうに水槽を覗き込んだ。常に科学的視点を失わない彼女らしい質問だ。
「さっき言った通り、魔力をまったく含まない物質の分解を促進する作用があるんだけど、もう少しわかりやすく言うと、胃の中に入ってしまったドラゴンにとって消化の悪い異物を分解して、無害な物質に変える作用と言えばいいのかな。そもそもドラゴンにも胃という概念が相応しいのかどうか分からないけど……」
わたしはさらに説明を続ける。
「人間の薬とは違って、魔力を利用しているから、この子にはより効率的に作用するはずだよ。逆に、魔法の治療薬の中には魔法生物にとっては薬になっても、人間に対しては毒として作用するものもあるから気を付けてね。茜ちゃんが研究している科学と魔法の融合にも関連する話だよ」
茜ちゃんの目が興味で輝いた。彼女には魔法理論の研究者としての素質があると思う。特に魔法医療の分野は彼女の論理的思考との相性が良さそうだ。そんな茜ちゃんに健太郎さんがさらに興奮させそうな提案をする。
「よければ知り合いの現代魔法学者を紹介しようか?魔法医師でもあり、自分の専門の話になるとちょっと熱くなる傾向があるけど、良い先生だよ」
「ぜひお願いします!」
茜ちゃんがやや食い気味に答える。最近の彼女の貪欲な知識欲は留まる事を知らない。
「ところで健太郎さん」
わたしは思い出したように尋ねた。
「最近、魔法界との境界で何か変わったことは起きてないですか?気になることとかあれば教えてほしいんですけど」
健太郎さんは少し考えてから答えた。
「実は少し前から、境界が薄くなっている気がするんだ。夜になると特にそう感じるよ」
「やっぱりそうなんですか……」
わたしは眉をひそめた。
「店長も同じようなことを言ってました。百年目の満月が近づいていて、それで境界が不安定になっているらしいって」
「百年目の満月?」
茜ちゃんが興味深そうに尋ねた。
「そう、魔法界と人間界の境界が最も薄くなる特別な満月のことだよ。約百年に一度の周期で訪れるから、百年目の満月と呼ばれているの。古い予言にも登場するくらい重要な天文現象なんだって。前回の百年目の満月の頃に私は生まれてなかったから詳しい事は分からないけど、店長は経験してるはずだよ」
「それっていつなんですか?」
優斗くんが身を乗り出して聞いてきた。
「店長いわく、あと一ヶ月ほどらしいよ。その時は魔法の力が増幅されるから、いつも以上に注意が必要になるって言ってたよ」
わたしが説明を終えると、全員でドラゴンの様子を見守ることになった。しかし、そんな静かな時間も長くは続かなかった。突然、施設の警報が鳴り響いたのだ。けたたましいサイレンと赤い警告灯が、静かだった診療室を一変させた。
「何事だ?」
拓人さんが驚いて立ち上がった。彼の表情は一瞬で警戒モードに切り替わった。魔法業界で働く者として、危険を察知する感覚は鋭い。
健太郎さんが急いで外に出た。しばらくして慌てて戻ってきた彼の表情は焦りに満ちていた。
「大変だ!正門の結界が破られた!」
健太郎さんが息を切らせて言った。
「本来は結界を通れない何者かが強引に侵入してきたようだ」
「まさか……」
わたしの表情が自然と引き締まっていくのを感じる。心の中に嫌な予感が広がる。最近、影魔法使いの活動が活発化しているという報告があった。まさかとは思うが……。
「優斗くん、茜ちゃん、ここで待機してこの子を見張ってて。拓人さん、一緒に確認しに行こう」
わたしは二人のバイトの子たちに厳しい表情で命じた。彼らにはまだ戦う準備ができていない。安全に保護しなくては。
「分かった」
拓人さんは簡潔に答えて頷き、わたしと健太郎さんの後についてきた。残された優斗くんと茜ちゃんの表情には不安が浮かんでいたが、言い聞かせるように「大丈夫だから」と微笑んでから、わたしは診療室を出た。
外に出ると、施設全体が異様な緊張感に包まれていた。スタッフたちが慌ただしく動き回り、敏感に不穏な空気を感じ取った魔法生物たちも落ち着きなく動いている。そして、正門の方向から黒い霧のようなものが見えた。あれは……わたしの胸に冷たいものが走った。
「影魔法使い……」
わたしは小声で呟いた。嫌なことに予感は当たっていた。