診療室に残された僕と茜は、窓の外を覗き込もうとしていた。もうすぐお昼と言う時刻だが、外から聞こえてくるケタタマシイ警報音と赤い光が空腹を忘れさせ、心臓をドキドキさせる。
「ちょっと優斗!狭いってば。もう少しそっちに寄って」
茜の肘が僕の脇腹に突き刺さった。相変わらず遠慮のない幼馴染だ。
「わかったって。そんなに突くなよ」
僕は少し体を横にずらしたが、茜の髪の毛が顔にかかって、ほのかな花の香りがしてドキリとする。ふと、小学校の頃、一緒に虫取りをした時の記憶が甦る。その時も同じように肩を寄せ合って、カブトムシの入った瓶を覗き込んでいた。
――いやいや、こんな時に何考えてるんだ俺は
でも今は、窓枠が狭すぎて二人で覗くのは至難の業だ。しかも外の様子はほとんど見えない。施設の一部が見えるだけで、千秋さんたちの姿はどこにも見当たらなかった。
「何が起きてるのかな」
不安が僕の胸をざわつかせる。たった10日ほど前までは、僕にとって魔法なんて絵本や映画の中の話だったのに。今、僕は実際に魔法が存在する世界に足を踏み入れ、しかもそれが危険をはらんでいることも知った。
茜は相変わらず冷静さを保とうとしていた。彼女の瞳には不安も浮かんでいたけれど、理性的な思考が感情を抑え込んでいるようだった。
「危険かもしれないから、千秋さんに言われた通りここで待った方がいいわ」
茜は窓から身を引き、診療室の中央に戻った。彼女の声には微かな震えがあった。茜がこんな風に動揺するのは珍しい。いつも彼女は冷静で、どんな状況でも論理的な判断を下す子だった。小学校の遠足で僕が道に迷った時も、茜がすぐに地図を取り出して助けてくれた。中学の文化祭で僕が台本を忘れた時も、臨機応変に立ち回ってくれた。そんな茜が不安げな表情を見せているということは、状況は本当に深刻なのかもしれない。
僕たちが不安げに様子を窺っていると、突然、水槽の中のドラゴンが激しく動き始めた。
「あっ!」
僕と茜は驚いて水槽を見つめた。ドラゴンの体からさらに強い光が放たれ、水が激しく泡立ち始めた。千秋さんの治療薬の効果で活性化したのか、それとも外の騒ぎに反応したのか。
鱗が美しく光る不思議な生き物。河童ドラゴン。日本の妖怪伝説と西洋の竜が混ざったような、まるで異世界から来た生き物だ。でも不思議と、初めて見た時から親近感を覚えていた。まるで昔から知っている存在のように。
次の瞬間、ドラゴンは水槽の蓋を突き破り、空中に飛び上がった!
「あ!逃げた!」
茜が叫び、僕は反射的にドラゴンを掴もうとした。でも、素早いドラゴンは僕の手をすり抜け、診療所の窓を破って外へ飛び出していった。ガラスの破片が窓の外の土の上に散らばる。
「追いかけなきゃ!」
僕は即座に反応した。千秋さんに見張るよう言われたドラゴンを逃がしてしまったという罪悪感と、まだ治療中で危険な状態かもしれないという心配が、僕の胸を締め付けた。
「でも千秋さんたちは……」
茜が迷った表情で言った。言われた通り待機するべきか、逃げたドラゴンを追うべきか。彼女の理性と感情が葛藤しているのが伝わってきた。茜の眉間にしわが寄り、それは彼女が難しい数学の問題を解く時と同じ表情だった。
「でも、あのドラゴンはまだ治療中だよ!危険かもしれないよ!」
僕は茜の肩に手を置いた。彼女の目をまっすぐ見つめる。子供の頃から、僕たちはこうして目を合わせるだけで気持ちを通わせてきた。
――すれ違いも多かったけどね……
「でも、僕たちがアルバイトとして働いている意味もこういう時のためじゃないかな」
茜はため息をつき、諦めたように肩を落とした。
「分かったわ。でも、危険を感じたらすぐに戻るよ?」
「うん、約束する」
僕は頷いた。茜の心配はもっともだ。でも、このままドラゴンを放置するわけにはいかない。
僕たちは急いで外に出た。診療所から飛び出したドラゴンは、施設の奥へと向かっていくのが見えた。
「あっちだ!」
僕は走り出した。肩の荷物が揺れて何度か落としそうになったけれど、それどころではない。春の風が顔に当たり、ほのかに花の香りがする。別の状況なら気持ちのいい季節だったのに。
「優斗……、あんまり……飛ばさないで……!」
茜が僕の後ろから必死に追いかけてくる。彼女は体育が苦手だった。子供の頃から一緒に遊んでいたけれど、走るのは常に僕の方が速かった。今日も彼女は息を切らしている。
「ごめん、でもドラゴンを見失っちゃうよ!」
僕は少しスピードを落とした。茜が息を整えながら追いついてくる。
「あのさ……」
茜が走りながら言った。
「これって、私たちが千秋さんの言うことを聞かないで外に出てしまった時の言い訳になるかしら……」
「言い訳?」
「そう。『水槽からドラゴンが逃げ出したので追いかけました』って。言い訳として通じるかな……」
僕は思わず吹き出した。茜らしい現実的な考え方だ。
――今は言い訳とか考えてる場合じゃないだろ!この優等生め!
「確かに……でも千秋さんにバレたら怒られるかも」
「うん……それより、優斗」
茜の声がひときわ真剣になった。
「私たちってこの10日間ほどで、普通じゃないことを何回も経験してるよね」
確かにそうだ。先週の木曜日、僕たちは放課後の帰り道で千秋さんたちに遭遇し、目の前で魔法を見た。そして今日はドラゴンの治療現場に立ち会っている。普通の高校生活からは考えられないような出来事の連続だ。
周囲では警報が鳴り続け、スタッフらしき人々が忙しく動き回っている。しかし、彼らは正門の方に注意を向けているようで、逃げたドラゴンに気づいている人はいないようだった。
「魔法の治療の途中だから、不安定なのかもしれないわ」
茜が走りながら分析した。彼女は息を切らしながらも、冷静に状況を判断しようとしていた。
「千秋さんが言ってたように、もし人間界のものを食べてたら、その影響もあるかも」
僕は答えた。心の中で、ドラゴンが無事でいることを祈った。なぜか知らないけれど、この不思議な生き物に対して、特別な親近感を覚えていたから。
僕たちは森のような区画に入った。大きな木々が生い茂り、小さな小川が流れている。緑の匂いが鼻をくすぐる。ドラゴンはその中へと消えていった。
「見失った……」
僕は立ち止まって周りを見回した。木々の間から漏れる春の日差しが、地面に美しい模様を描いていた。遠くから水の音が聞こえる。茜も僕の横で息を整えながら周囲を見渡していた。
「シーッ」
茜が耳を澄ました。彼女は聴覚が鋭い。小学校の頃、近所の空き地で遊んでいた時も、彼女はいつも僕より先に親の呼ぶ声に気づいていた。
「あそこ……水の音がする」
茜が小声で言い、指さした方向を見ると、確かに水の揺らめきが見えた。二人は静かに小川の方へ近づいた。茂みの向こうで、河童ドラゴンが水に顔をつけている姿が見えた。
ドラゴンの姿を見て、僕はほっとした。少なくとも無事でいるようだ。でも次の問題は、どうやって捕まえるか。
「捕まえなきゃ」
僕は小声で言った。茜の腕を軽く引っ張り、茂みの陰に身を隠した。
「どうやって?」
「待って」
茜が僕の腕を引いた。彼女の冷静な判断力は、こういう時に本当に頼りになる。
「まず、どういう状態なのか確認しましょう」
茜はポケットから千秋さんに借りた小さな魔法のルーペを取り出した。彼女はいつも必要なものを持ち歩いている。小学校の頃から、彼女のランドセルには絆創膏や虫刺されの薬が常備されていた。僕が転んだときや虫に刺されたとき、いつも茜が助けてくれた。
――いつも思うけど、この準備の良さは何なんだろう?忘れ物常習犯の僕としては助かるけど。
彼女はルーペを通してドラゴンを観察し、小さく頷いた。
「千秋さんの薬がまだ効いているわ。でも不完全みたい。だから混乱しているのかもしれない」
「どうすれば?」
僕は茜の分析を信頼していた。彼女は物事を論理的に考えることができる。僕が感情に流されやすいのとは対照的だ。
「まず、驚かせないように」
茜が言った。その時、彼女の髪の毛が風で揺れ、僕の顔をかすめた。ほのかなシャンプーの香りがした。
「それから……あっ!」
突然、ドラゴンが僕たちに気づいたのか、小川から飛び上がった。そして水滴を集めて、僕たちに向かって水の弾を放った!
「危ない!」
僕は茜を引っ張って身を伏せた。水の弾は僕たちの頭上を通過し、後ろの木に当たった。木の一部が凍りついた。
「こっ……凍らせる能力があるのね……」
振り向きつつ茜が驚いた様子で言った。彼女の表情に浮かんだ恐怖と興味の混ざり合った感情は、僕にもよく分かった。僕自身も同じように感じていたから。
ドラゴンは威嚇するように鳴き声を上げ、再び水滴を集め始めた。
「どうしよう……」
僕は焦った。このままではドラゴンを傷つけることになるかもしれない。かといって、僕たちも危険だ。
その時、僕のポケットに入れていたIDカードが光り始めた。不思議に思って取り出すと、カードから小さな光の粒子が放たれた。
「これは……」
光の粒子はドラゴンの方へと漂っていき、その周りを舞い始めた。ドラゴンは攻撃をやめ、不思議そうに光を見つめた。
「IDカードが反応してる……」
茜が驚いた声で言った。彼女の科学的な好奇心が刺激されたのだろう。
「もしかして……」
僕は何か強い直感に導かれるように、ゆっくりとドラゴンに近づき始めた。恐怖よりも好奇心の方が強かった。ドラゴンが僕を見つめる眼差しには、敵意よりも何か別のものを感じたから。
「大丈夫だよ、怖がらないで」
僕の声は優しく、穏やかだった。まるで小さな子猫に話しかけるように。
「優斗、危ないわ!」
茜が心配そうに言った。彼女の顔には明らかな懸念が浮かんでいる。昔から、僕の無鉄砲な行動に茜はよく心配してくれた。
「大丈夫、信じて」
僕は静かに言った。なぜか心の奥底から、この生き物に対する不思議な親近感と信頼が湧いてきた。恐怖は消え、代わりに温かな感覚が広がっていく。
ドラゴンは僕の手のひらを警戒しながら見つめていたが、次第に首を伸ばし、匂いを嗅ぎ始めた。その瞳は水晶のように澄んでいて、知性の光が宿っているようだった。
「そう、怖くないよ」
僕は優しく話しかけた。
「具合が悪いんだよね。助けるから」
ドラゴンは徐々に緊張を解いていった。僕が手でそっと頭を撫でると、おとなしく受け入れた。キューという小さな鳴き声は、まるで子猫のように可愛らしかった。
「すごい……なついたわ」
茜が息をのむ声が聞こえた。彼女の科学的な思考では、こんな現象を理解するのが難しいようだった。彼女の表情には混乱と驚き、そして好奇心が入り混じっていた。
「多分、IDカードの魔法が手伝ってくれたんだと思う」
僕は言った。それは半分本当で、半分は自分を納得させるための説明だった。実は心の奥でもっと深い何かを感じていた。まるでこのドラゴンと、ずっと前から知り合いだったような不思議な感覚。
「千秋さんが言ってたよね、これには魔法の痕跡を感知する能力があるって」
茜は少し落ち着いた様子で、僕のそばに近づいてきた。彼女の目には警戒心と好奇心が入り混じっていた。
「触っても大丈夫?」
「うん、おとなしいよ」
茜が恐る恐る手を伸ばすと、ドラゴンは彼女の手のひらの匂いを嗅いだ。そして軽く頭をつけた。茜の顔に安堵の表情が広がる。
「ドラゴンって爬虫類かとばかり思ってたけど……なんだか……体が温かい」
茜が驚いたように言った。
――伝説の魔法生物に対して「爬虫類」かよ!
「お湯に浸かったような……でも心地いい感じ」
僕がドラゴンを抱き上げようとした時、突然、茂みが揺れ、そこから黒い影のような存在が現れた。
「あれは……!」
茜が声を上げた。
「前に森で見たのと同じ、影魔法使い!」
その言葉に、僕の背筋に冷たいものが走った。影魔法使い――エリアスさんの家で千秋さんたちが話していた危険な存在だ。
影のような姿は僕たちを無視し、ドラゴンに手を伸ばした。
「見つけたぞ……」
低くかすれた声が、冷たい風のように僕の心に忍び込んできた。その声には人間離れした何かがあり、僕の足が震え始めた。
「ダメだ!」
恐怖を振り払うように、僕は反射的にドラゴンを抱きかかえ、後ずさった。ドラゴンの体は驚くほど温かく、鼓動のようなものが感じられた。
「何するの!」
茜が叫んだ。彼女の声は震えていたが、それでも勇気を絞り出そうとしていた。小学校の時、僕をいじめっ子から守ってくれた時と同じ声だった。
影は冷たい声で言った。
「邪魔をするな、人間の子供。そのドラゴンは我々のものだ」
「どういうこと?」
僕がドラゴンを守るように抱きしめた。ドラゴンは僕の腕の中で小さく震えていた。その様子を見て、守ってあげなければという思いが強くなった。
「そのドラゴンは貴重な魔力の源だ」
影が説明した。その姿は人の形をしているようでいて、輪郭が霧のようにぼやけていた。
「我々の計画には必要なのだ」
「絶対に渡さない!」
僕は勇気を振り絞って言った。心臓は激しく鼓動していたが、このドラゴンを守ろうという気持ちの方が強かった。
その時、ドラゴンの体が再び光り始めた。そして突然、大量の水を吐き出し、影に向かって放った。水は青白く光り、影に当たると凍りついていった。
「なっ……!」
影は半分凍りついた状態で身動きが取れなくなった。氷の中に閉じ込められた黒い霧が、もがくように動いている。
「今のうちに逃げよう!」
茜が僕の手を引いた。彼女の冷静な判断が二人を救った。
僕はドラゴンを抱えて森を駆け抜けた。背後では影が氷を砕く音が聞こえていた。
「追ってくる!」
茜が焦った様子で言った。彼女の表情には真剣な恐怖が浮かんでいた。
「千秋さんを呼ばなきゃ!」
僕が言った。このままでは僕たちだけでは対処できない。
僕たちが診療所に向かって走っていると、前方から人影が見えた。
「優斗くん!茜ちゃん!」
千秋さんの声だった。千秋さんと拓人さん、そして健太郎さんが僕たちの方へ走ってきた。彼らの姿を見て、僕はようやく安堵の息をついた。
「千秋さん!ドラゴンを追いかけていたら、影魔法使いが現れて…」
「大丈夫よ、私たちがここにいるから」
千秋さんが優しく微笑み、僕の肩をポンと叩いた。彼女の表情には安心させようとする優しさと、わずかな緊張感が混ざっていた。
僕が抱えていたドラゴンは、千秋さんを見ると小さく鳴いた。まるで彼女を認識したかのように。
「君は本当に勇敢だね、優斗くん」
健太郎さんが驚いたように僕を見つめた。
「河童ドラゴンがこんなに懐くなんて、滅多にないことだよ」
「本当ですか?」
僕は意外な称賛に少し照れた。でも心の中には、このドラゴンと不思議な絆を感じたという確信があった。それはまるで昔からの友人に再会したような、懐かしい感覚だった。
「さあ、診療室に戻ろう」
千秋さんが言った。
「影魔法使いがまだ近くにいるかもしれない」
僕たちが診療室に戻る途中、茜がこっそり耳元でささやいた。
「ねえ、聞いてよ。私たちって今、本物の魔法と戦ったんだよ。学校の人に言っても絶対信じてもらえないよね」
「うん……まるで夢みたいだ」
僕は小さく笑った。確かに一週間前の自分に話しても、絶対に信じなかっただろう。でも今、僕の腕の中にいるドラゴンは間違いなく現実だ。その温かさと、鼓動と、時折聞こえる小さな鳴き声。全て本物の感覚だった。
「でも優斗」
茜の声が少し真剣になった。
「さっき、あの影に立ち向かった時、ちょっとカッコよかったよ!」
「え?僕が?」
「うん」
茜は珍しく照れくさそうに頷いた。
「いつもはドジなのに」
「おい、余計なこと言うなよ」
僕は苦笑いした。でも茜の言葉は心に染みた。
「ただ、このドラゴンを守りたいって思っただけだよ」
僕は腕の中のドラゴンを見つめた。ドラゴンも僕を見上げ、まるで「ありがとう」と言っているかのようにキューっと小さく鳴いた。
その瞬間、僕の心に強い確信が生まれた。これから先もきっと、このドラゴンと、そして千秋さんたちと共に、不思議な冒険が続いていくのだろう。そして、その冒険の中で僕自身も成長していける。
それは恐ろしくもあり、同時に胸が躍るような感覚だった。