数時間後、ドラゴンの体調は完全に回復した。青緑色の鱗が美しく輝き、活発に水槽の中を泳ぎ回っている。わたしは内心ほっとした。これほど短時間で回復するとは思っていなかったからだ。河童ドラゴンの生命力は想像以上に強かった。
「元気になったね」
優斗くんが嬉しそうに水槽を覗き込んだ。彼の表情には純粋な喜びが浮かんでいた。まるで自分の分身のように、ドラゴンの回復を喜んでいる。
「優斗くんのおかげだよ。勇気を持って行動してくれたから」
わたしは優斗くんの肩に手を置いた。彼の勇気と決断力がなければ、ドラゴンは影魔法使いの手に渡っていたかもしれない。たった10日ほど前まで魔法の存在すら知らなかった高校生が、こんなに勇敢に行動するなんて。
「いや、僕は……」
優斗くんは少し照れた様子だった。褒められるのに慣れていないのかもしれない。彼は自分の行動の重要性を理解していないようだ。
「本当。それって大事なことだよ」
健太郎さんも笑顔で言った。彼は専門家として、今日の出来事の重大さをよく理解していた。
「君がいなかったら、ドラゴンは影魔法使いに連れ去られていたかもしれない。それだけじゃない。この子の力を引き出したのも君、優斗くんだよ」
「でも、どうして僕になついたんでしょうか?」
優斗くんが不思議そうに尋ねた。さっきから水槽の中のドラゴンは優斗くんの方ばかり見ている。小さな鳴き声をあげながら、彼を追いかけるように泳ぎ回る姿は、まるでペットのような親しさだ。
「それはね……」
わたしは意味深な微笑みを浮かべた。優斗くんが河童ドラゴンと特別な絆を持つことには、単なる偶然以上の何かがあるように思えた。あのお守りの封印、影魔法使いの出現、そして優斗くんとドラゴンの不思議な親密さ。全てが何かの糸で繋がっているような気がする。
――不思議ね……魔法の世界にはたくさんの謎があるけど、これは特別だなぁ。優斗くんには何か特別な素質があるのかもしれない。何かは分かんないけど。
「優斗くんに魔力や魔法の素質があるからかもしれないね」
自分の手を見つめる彼の目には、混乱と期待が入り混じっていた。
「魔力……本当に僕に?」
「ほら、魔法学校の緑川先生のところで、始まりの石を光らせたじゃない」
わたしは励ますように続けた。
「あれは魔法の才能の証を表してるんだよ。そして、魔法生物は魔力を持つ人に惹かれることがあるんだから」
「それだけじゃ千秋さんじゃなくて優斗に懐いた説明がつかないわ」
茜ちゃんが付け加えた。彼女は科学的な分析をしながらも、時折驚くほど直感的な洞察を見せる。
「きっと優斗には純粋な心があるから。生き物はそういうのを感じ取るのよ」
「純粋な心?僕が?」
――うん?それってわたしにはもう純粋な心が無いってこと?あれ?わたし茜ちゃんにナチュラルにディスられてる?いや、そんなはずは……。
わたしがぐるぐるとどうでも良いことを考えているうちに、優斗くんが驚いた様子で自分を指さした。
「茜がそんなこと言うなんて珍しいね」
「だって事実でしょ」
茜ちゃんは少し照れたように視線をそらした。
――そっか、わたしに純粋な心が無いのは事実なのかぁ。
その時、拓人さんが何かを悟った目をして私の肩をたたき囁いた。
「高校生達、良い所なんだから無粋なことは言うなよ」
――うっ、そんなことわざわざ言わなくてもいいでしょ!
わたしが軽く拓人さんを睨み返しているうちも、二人の照れ臭い会話は続いていた。
「小学校の時から、怪我した動物を見つけると必ず助けようとしてたじゃない」
「そうだったっけ?」
「覚えてないの?野良猫を保健室に連れて行って先生に怒られたこととか、怪我した雀のために巣箱を作ったこととか……」
「あぁ……」
優斗くんは懐かしむように微笑んだ。
茜ちゃんの言葉に、わたしは彼らの長い友情を感じた。幼馴染の二人には、わたしたちの知らない数え切れない思い出があるのだろう。そんな二人がこうして魔法の世界に足を踏み入れるなんて、運命のいたずらみたいだ。
優斗くんはドラゴンを見つめ、微笑んだ。ドラゴンも彼の方を見て、小さな鳴き声を上げた。まるで会話をしているかのようだった。
「この子、これからどうするんですか?」
茜ちゃんが健太郎さんに向き直って尋ねた。彼女の目には冷静な分析と優しさが混ざっていた。
「しばらくはここで保護するよ」
健太郎さんが答えた。
「そして、元の生息地に返せるよう準備を進めるつもりだよ」
「そうですね。私もそれがベストだと思います」
魔法生物も一般の動物たちと一緒で、本来の環境で生きるのが一番だ。野生に戻る準備ができるまで保護し、適切なタイミングで自然に返すのが基本方針となる。
「でも、影魔法使いが再び狙ってくる可能性もあるから、警戒が必要ですよ」
「その点は心配しないでくれて良い」
健太郎さんが自信を持って言った。
「今日の一件を受けて、施設の防衛を強化するつもりだ。魔法評議会にも報告して、特別保護を要請するよ」
一方、拓人さんは静かに窓の外を見ていた。彼の顔は思案顔で、どこか遠くを見ているようだった。何か思い出したのだろうか、それともただ疲れているのだろうか。
「影魔法使いの動きが活発になってきているな……」
「うん」
拓人さんに感化されて、わたしも真剣な表情になった。最近、影魔法使いの活動に関する報告が増えているからだ。健太郎さんが言っていた百年目の満月との関連が気になる。
「何か大きな計画があるのかもしれないよね」
「こんな厳重に保護されてる河童ドラゴンを狙うってことは……単なるいたずらじゃないな。保護されたとたんに狙ってくるってことは、よほど重要な存在か奴らにとっての脅威なのかもな」
拓人さんは冷静に分析した。
「で、奴らの目的は何だと思う?」
「それは魔法評議会の調査を待つしかないと思うよ」
わたしはため息をついた。
「それと、わたしたちも用心すべきだと思う」
水槽のドラゴンは優斗くんの方をずっと見つめていた。時折、水面に顔を出して彼に向かって鳴く。その鳴き声は愛らしく、まるで何かを伝えようとしているようだ。
「この子、しばらくここに居るんなら名前をつけないとね」
わたしは意識を切り替えて、建設的な提案をしてみた。
「健太郎さん、二人とも、どんなのがいいと思う?」
「俺には聞かんのか!」
「だって、拓人さんだとおじさんっぽい名前にしちゃいそうだもん」
「おじさんじゃない!俺はまだ26だ!」
「四捨五入すれば30だもん。言動も若くないし、もうおじさんでもいいんじゃない?」
「四捨五入するな!このへっぽこ!」
「ひどーい!」
わたし達がくだらないやり取りをしている横で、優斗くんは腕を組んで真剣に考え込んでいた。
「うーん……、そうだなぁ……」
「青いから『アオ』とか?」
茜ちゃんが提案した。
「シンプルだね」
健太郎さんが笑った。
「でも悪くない」
「お守りに何か手がかりはないですか?」
優斗くんが閃いたように突然尋ねてきた。お守りを持っていたわたしは拓人さんとの生産性のない会話を切り上げ、お守りを再度観察する。
「うーん……、これは古代魔法語だから完全には解読できないけど……」
そう言いつつ、わたしは何気なくお守りの裏面を見た時に小さな刻印に気がついた。
「あ、ここに何か文字らしきものがあるよ」
拓人さんが近づいてきた。
「見せてみろ」
手を伸ばしてくる拓人さんにベーっと舌を出して、あえて健太郎さんに渡す。健太郎さんはお守りを手に取り、光に当てながら観察した。
「これは日本語じゃないかな?」
健太郎さんがハッとして意外そうに言った。
「『清』と書いてある。あと、おそらく名前……でも摩耗して読めないな」
「『清』ね……」
わたしは考え込んだのち、1つの意見を述べた。
「河童ドラゴンの力に関係してるのかも。清め浄化する、清浄の力という意味で」
「『セイ』ってどう?」
それを聞いた優斗くんが提案した。それにみんなが反応する。
「うん、シンプルで覚えやすいし、意味もあるし」
健太郎さんが頷いた。
「いいんじゃない?響きも可愛いし」
茜ちゃんも賛同した。
「うん、良い名前だね」
「セイ……」
呟きつつ水槽を振り返る優斗くんに私も賛同の意を伝えると、ドラゴンは「セイ」という名前を気に入ったようで、嬉しそうに跳ねるように水の中を泳いだ。
「じゃあ、セイに決まりね」
わたしは微笑んで宣言した。
わたし達が名前で盛り上がっている横で、拓人さんはお守りをじっと見つめていた。彼の表情には何か思うところがあるようだった。
「どうしたの?この名前、気に入らない?それとも何か気になることでもあるの?」
わたしの問いに、少し考え込み、ややためらいつつも拓人さんが答えた。
「いや……、ただ古い魔法のアイテムを見てると、妹のことを思い出しちまってな……」
彼の言葉に、部屋の空気が少し沈んだ。拓人さんの妹、美咲さんは約10年前に魔法事故で失踪した。拓人さんが魔法に関わる仕事をしているのは、妹を探し出すためだ。彼女の居場所を突き止めるためには、魔法界とつながりを持つ必要があったのだ。
「美咲さんを見つける手がかりになるかもしれないしね。魔法の世界は広いけど、必ずどこかで繋がっているもの」
わたしは希望を込めて優しく言った。それに拓人さんは小さく頷きを返す。わたしの言葉を聞いた彼の目には決意が宿っていた。
日が傾き始め、夕暮れが近づいていた。窓から差し込む光が金色に変わり、部屋全体が温かな色に包まれる。
「みんな、そろそろ戻りましょうか。今日は色々あったし、みんな疲れてるでしょう?」
わたしは皆を気遣って提案したが、優斗くんは心配そうに尋ねてきた。
「セイはどうするの?」
「さっきも言ったように、ここでこのまま預かるよ。最高の治療と保護を約束する」
健太郎さんが自信をもって宣言した。
「また会いに来てもいい?」
「もちろん!セイもきっと喜ぶよ」
健太郎さんが微笑んで歓迎の意を示した。
優斗くんはセイに最後の別れを告げるように、水槽に顔を近づけた。セイは水面まで泳ぎ上がり、彼の指に鼻先を寄せた。
「また来るからね、セイ」
セイはキューっと小さく鳴き、また水中に潜っていった。その動きには名残惜しさが感じられた。
わたしたちが施設を後にしようとした時、健太郎さんがわたしを呼び止めた。
「千秋さん、少し話があるんだが」
健太郎さんの表情は少し心配そうだった。わたし達が少し離れたところに移動すると、彼は低く小さい声で言った。
「影魔法使いたちは、この河童ドラゴンについても知っていた可能性が高い。だからこそ狙ったんだと思う」
「まあ、私もそう考えるのが妥当だと思います」
わたしは頷いた。たまたま通りかかったわけではなさそうだ。
「彼らの計画には、古代魔法の力が必要なんでしょう。それに、特に浄化の力を持つセイのような存在は、彼らの闇の魔法にとっては脅威になり得ますから」
「気をつけなさい」
健太郎さんが真剣な表情で言った。
「百年目の満月が近づくにつれ、彼らの動きはさらに活発になるだろう」
わたしは再度強く頷く。
「みんなで力を合わせて、必ず阻止します」
「それともう一つ」
健太郎さんが付け加えた。
「優斗君とセイとの絆は特別だ。彼には魔法の素質があるかもしれない。見守ってやってほしい」
「もちろん。わたし達の仲間ですから」
わたしは微笑んで答えた。
事務所に戻る途中、バンの中で優斗くんはずっと窓の外を見ていた。でも、彼の表情は穏やかで、何か大きな決意をしたような雰囲気があった。今日の出来事で、彼の中で何かが変わったのかもしれない。
「なんだか不思議な気分です」
優斗くんが突然つぶやいた。
「自分が魔法使いになるなんて思ってもみなかったし、ましてやドラゴンと友達になるなんて……」
「それが運命ってものだと思うよ」
わたしは微笑んだ。出会いには不思議な力がある。
「私だって、最初から魔法宅配便をやるつもりじゃなかったもの」
「千秋さんはどうして宅配便を?」
「私ね、最初は魔法医療の道に進もうと思ってたの。でも、なんだか窮屈で……」
「その大雑把な性格じゃ無理だろうな。10分のうちにプチプチって10人くらい患者を死なせそうだ」
拓人さんが横から突っ込んできた。彼は運転席から、バックミラー越しにわたしを見ていた。
「ひどーい!何よ、それ!わたしだって真面目にやれば……」
「試験に二回落ちたんだろ?しかも面接官の前で魔法が暴走して、カーテンに火をつけたって」
「あ……拓人さん、そんなことまで言わなくても……」
最初は勢いが良かったわたしも、過去の失敗を暴露されて恥ずかしさに顔を赤くした。確かに魔法医療の資格試験には二回落ちている。しかも面接で緊張して魔法が暴走して……。
――バラしたのはきっと店長だな。でも、今それを言わなくても……。
「でも、千秋さんの性格の方がマジカルエクスプレス便に向いてると思います」
優斗くんが明るく言った。彼はわたしを励ましてくれているようだった。
「優しくて、冒険好きで、何でも挑戦する」
「でも考えなしのポンコツでな」
拓人さんが付け加えた。彼の口調はいつもの皮肉っぽさだったけど、表情には優しさが滲んでいた。
「もう!みんなして私をいじめないでよ!」
全員が笑い、バンの中は和やかな雰囲気に包まれた。こうして日常の会話ができるのも、平和があればこそ。その平和を守るために、わたしたちは今日も魔法の宅配便として働いているのだ。
バンが事務所に近づくにつれ、わたしは考え込んでいた。今日の出来事はきっと何かの始まりなのだろう。影魔法使い、河童ドラゴンのセイ、古代魔法の封印……そして優斗くんの中に眠る魔法の素質。点と点が繋がり、大きな物語を形作っていく予感がした。
そして百年目の満月。健太郎さんが言っていた特別な夜。その時に何が起きるのか、まだ分からない。でも、わたしたちはきっと力を合わせて乗り越えていくだろう。
―――ここからまた、マジカルエクスプレス便の新しい冒険の始まりだね。
窓の外には星が輝き始めていた。春の柔らかな風が車窓を通り抜け、わたしの頬を撫でる。魔法と現実が交わるこの世界で、明日もまた素敵な一日が始まることを願いながら、わたしは前を見据えていた。