翌朝、わたしと拓人さんは高校生二人組と一緒にエリアス先生の住まいである大きな樫の木を訪れた。エリアス先生は森の奥深くに住んでおり、彼の家は魔法で拡張された樫の木の中にある。外から見ると普通の大きな樫の木だが、特別な鍵を使うと内部に入ることができるのだ。
「ねぇ、拓人さん」
わたしは森の小道を進みながら拓人さんに話しかけた。優斗くんと茜ちゃんは二人で何やら小声で話しながら付いて来る。二人とも魔法の勉強で分からないところをお互いに確認し合っているようだ。今朝は早かったのに、昨晩はちゃんと休んだのだろうか。
「拓人さんはエリアス先生の家に初めて行った時、驚かなかった?ほら、外見は普通の木なのに、中はあんなに広くて……」
「そりゃ最初は驚いたさ。衝撃的だった」
拓人さんは淡々と答えた。
「でもお前が魔法で壁に穴を開けたり、配達物を空中浮遊させたりするのを見ていると、そのくらいで驚かなくなる。それ以上の衝撃を受けたからな」
「もう!いつまでもそのことを言うんだから!あれは事故だったのに……」
「事故は一度だけじゃなかっただろ」
「うっ……」
確かに、わたしの「事故」リストはちょっと長い。壁に穴を開けた時は、空間拡張魔法の練習をしていて力の入れ具合を間違えただけなのに。そのせいで事務所の修理費がかかって、店長に説教されたのはつらかった。
「でも拓人さん、魔法を使えないのに、どうして魔法界に関わる仕事に就こうと思ったの?というよりも、どうして魔法宅配便だったの?」
ずっと気になっていた質問を思い切って投げかけてみる。拓人さんの過去については、この前本人の口から聞いたが、魔法を嫌うそぶりを見せながらも、この仕事を選び、続けている理由が気になっていた。
拓人さんは少し歩調を緩め、遠くを見るような目をした。
「……いろんな魔法使いの所に行くだろ?この仕事。美咲の情報を集めやすいと思ったんだよ」
彼の声には珍しく柔らかさがあった。わたしは疑問の一部が解決したので、それ以上追求しないことにした。彼には彼の、踏み込んではならない事情もあるはずだ。
わたしたちが目的の樫の木の前に到着し、銀の鍵を差し込むと、樹皮が輝き始め、扉が現れた。
「こんにちは、エリアス先生」
わたしが扉をノックし挨拶をすると、扉が自動的に開いていく。その奥からエリアス先生が穏やかな笑顔で挨拶を返してくれた。
エリアス先生は長い銀色の髭を蓄えた老魔法使いで、穏やかな雰囲気を持っている。彼は暖炉の前の揺り椅子に座っていた。
「やあ、千秋君、拓人君。待っていたよ。優斗くんと茜ちゃんもようこそ。店長も息災にしているかい?」
エリアス先生は微笑みながら立ち上がり、わたしたちを迎えた。
わたしたちは居心地の良さそうなリビングに案内された。壁には古い魔法の地図や、不思議な模様が描かれた絵が飾られている。春の半ばだが森の中の日陰はまだ肌寒い。暖炉の火の熱量は自動調節されるようで、心地よい温かさを部屋に広げていた。
部屋に入ってまず目についたのは壁に掛けられたA2サイズくらいの額に収められた絵だ。わたしはつい好奇心からそれを指差した。
「この間、この壁の絵が動いてましたよね?液晶パネルじゃないですよね?あれはどんな魔法なんですか?」
「ああ、あれは記憶保存魔法の一種だよ。液晶パネルでも同じことはできるかもしれんが、電源の調達の方が大変なのでな」
エリアス先生は優しく微笑みながら説明してくれた。
「絵の中の風景は実際にわたしが訪れた場所で、その時の記憶が動画として絵の中に保存されているんだ。魔法版のフォトフレームみたいなものかね」
「すごい!わたしも習ってみたいです」
「まず基礎魔法をちゃんとマスターしてからだな」
エリアス先生が答えるより早く、横から拓人さんが茶々を入れてきた。
一方、優斗くん達はエリアス先生の家の内部を見て、目を丸くしていた。外から見る樫の木と内部の広さのギャップに驚いたようだ。
「中が広い……これも魔法ですか?」
「次元拡張魔法だよ」
エリアス先生が微笑みながら説明した。
「外側と内側の次元を少しずらすことで、限られた空間を広く使えるようにする魔法さ」
茜ちゃんは科学者のように周囲を観察していた。
「これは非ユークリッド空間の原理を応用しているんですか?四次元空間の投影のような……」
「よく気づいたね。それにしても非ユークリッド空間なんて高校生なのによく知っていたね。高校では習わないだろうに」
エリアス先生は感心した様子で茜ちゃんを見て続けた。
「魔法と科学は根本では繋がっているものだ。特に空間に関する理論は君たちが習うユークリッド幾何学ではなく、非ユークリッド空間と親和性が高い。ユークリッド空間では平行線は交わらないが、非ユークリッド空間では交わるとか、空間拡張魔法理論の基礎になっているね」
「なるほど……」
茜ちゃんは目を輝かせながらメモを取り始めた。
「つまり、空間を折り曲げるというよりは、次元の一部を重ねることで拡張効果を生み出している……」
茜ちゃんの呟くひとりごとのような声にエリアス先生はますます感心した様子だ。
「茜君は魔法理論にも才能があるようだね」
「茜ちゃんはすごいでしょ!」
わたしは誇らしげに言った。
「なんで千秋が偉そうなんだ?」
拓人さんの言う事は無視してわたしは続ける。
「特別講座でも理論の部分はバッチリだったんですよ」
「僕も負けてません!」
優斗くんが元気よく言った。
「光の魔法が少しだけど使えるようになりました!」
「そうか、それは素晴らしい!」
エリアス先生は優斗くんの肩をポンと叩いた。
「君たちの成長は心強い限りだ」
わたしはついでに気になっていたことを高校生たちに尋ねる。自宅でもこの様子だと、ご家族に不審に思われないか心配になったのだ。
「ところで二人とも、この仕事の事はご両親になんて説明してるの?」
「普通に、宅配便のアルバイトって言ってあります。茜が一緒にやってるって言うと、うちの親はほぼスルーなんで」
「私も同じです。優斗が一緒にやってるって言うと親は何も言わないから」
二人は何ともない事のように答えた。
――くそ、幼馴染め!特権を上手く使いやがって。わたしも皮肉屋ばかりじゃなくて、こういう幼馴染が欲しかったよ。
エリアス先生はそんなわたし達の様子を見ながら、にこにこと笑って魔法の湯沸かしからお茶を注いだ。
「こうして話をしてると、魔法を習いたての頃の千秋君を思い出すよ。いつも新しい魔法に目を輝かせていた」
「わたし、魔法学校の時はどんな生徒だと思われてたんですか?」
わたしは少し恥ずかしく思いつつも尋ねてみた。エリアス先生は当時の魔法学校の先生でもあったのだ。
「そうだな……」
エリアス先生は懐かしむように目を細めた。
「理論の授業ではよく居眠りしていたが、実技では驚くほどの直感力を見せていたね。特に空間魔法の才能は優れていたと思う。ただ……」
「ただ?」
「力の加減が難しかったようだ」
エリアス先生は優しく笑った。
「実験室の壁に穴を開けた『事件』は今でも教師陣の間で語り草だよ」
「うっ……やっぱりそれですか」
わたしは顔を赤らめた。
「あれは事故だったんです…」
「千秋の近くにある壁は『事件』の被害者になりやすいって事か」
雲行きが怪しくなってきたので、呟く拓人さんを無視してわたしは本題に入る。
「昔話はこれくらいにして、どんな情報が手に入ったんですか?」
「まあまあ、急ぐな」
急に話題を変えたわたしにエリアス先生は微笑み、魔法の湯沸かしから全員分のカップにお茶を注いだ。
「千秋君、お茶を運ぶのをちょっと手伝ってくれないか?」
「今度は壁に穴をあけるなよ」
――お茶で壁に穴が開くわけないでしょ!失礼な。
茶化す拓人さんをひと睨みして、わたしはエリアス先生のお手伝いをする。
「実は古い予言について調べていたんだ」
「古い予言?」
わたしは思わず興味を引かれた。魔法界には多くの予言があり、それらは時に重要な意味を持つことがある。
「『百年目の満月の夜、闇と光の均衡が崩れる』という予言を知っているかい?」
「聞いたことだけは。詳しいことまではちょっと……」
わたしは曖昧に答えた。魔法学校で習った気はするが、詳細は覚えていない。
――やっぱり授業中に居眠りしたのがいけなかったかな。先生の声って優しくて単調で、つい眠くなっちゃうんだよね……。
「この予言は古代魔法の時代から伝わるものだ」
エリアス先生は古い本を開きながら説明した。
「百年に一度の特別な満月の夜には、魔法界と人間界の境界が最も薄くなる。この時に、ある特殊な儀式を行うことで、境界そのものを操作することが可能になるという」
「境界を操作する?」
拓人さんが眉をひそめた。
「そう。境界を強化することも、逆に完全に崩すこともできるというのだ」
「そんなことができるんですか?」
「古代魔法の力を使えばね」
エリアス先生は静かに説明した。
「普通の現代魔法では不可能だが、古代魔法には現代では失われた強大な力がある。特に次元の操作に関しては」
「影魔法使いたちはそれを狙っているのですか?」
「その可能性が高い、とわたしは思う」
エリアス先生はさらに本のページをめくった。
「彼らは各地で古代魔法のアーティファクトや書物を集めている。そして様々な特殊魔力を持つ生物も探しているようだ」
「河童ドラゴン!」
わたしは思わず声を上げた。先日の出来事が腑に落ちた。
「そうだ。例えば河童ドラゴンの浄化の力は、古代の儀式には重要な要素となり得る。特に、闇の力と光の力のバランスを操作するには欠かせない」
なるほど、だから影魔法使いたちがあれほど必死にドラゴンを狙っていたのか。すべてが繋がり始めた。
「でも、彼らの目的は何なんでしょうか?境界を崩して何をしたいんですか?」
「彼らは魔法の力を独占したいのだろうと私は考えている」
エリアス先生は深いため息をついた。
「魔法界と人間界の境界が崩れれば、魔法の力が人間界に流れ込み大混乱が生じる。しかし、それを制御できる者は限られている。影魔法使いたちはその混乱に乗じて力を握ろうとしているのではないかと思っている」
「それって……」
「そう。もし現実となれば人間界は大変危険な状況になる」
エリアス先生が補足した。
「魔法の知識がない人間たちは混乱し、パニックになるだろう。魔法生物も何の制御も無い状態で人間界に現れる。そうなれば……」
言葉を続ける必要はなかった。その結果がどれほど悲惨なものになるか、想像できた。
「かつてあった『魔法パニック』みたいなものですか?」
わたしは思い出して尋ねた。
「ああ、1792年の出来事だね」
エリアス先生は古い記憶を呼び起こすように頷いた。
「その時は小規模な境界崩壊が起き、ヨーロッパの一部で魔法生物が人間界に現れた。魔女狩りが再燃し、多くの犠牲者が出た。今回はそれよりも大規模になる可能性がある」
「それは……阻止しないと」
拓人さんが決意を込めて言った。彼の表情には強い意志が宿っていた。
「その通り」
エリアス先生は力強く頷いた。
「だからこそ、君たちの協力が必要なんだ」
それまで静かにいていた茜ちゃんが小さい声でつぶやく。
「怖い……」
「僕も力になれますか?」
優斗くんは茜ちゃんの方をちらりと見て、彼女を勇気づけるようにエリアス先生に尋ねた。エリアス先生は嬉しそうな気持ちを瞳に浮かべて答えた。
「もちろんだとも!」