次の日の朝、日曜日という事もあり、エリアス先生のもとを訪れるために、わたし達はのんびりと三々五々集合していた。いつの間にか到着していた店長が事務所の棚の上から見下ろし、厳しい表情でわたしたちを迎える。まるで猫型の謎の監視者のよう。
到着していないのは拓人さんだけになった。まだ約束の時間よりずいぶん早いのだから仕方ない。わたし達は拓人さんを待つ間、店長と『五つの徳』について議論を交わしていた。
「考えてもみろ、千秋。『五つの徳』とは精神的な要素だけとは限らん。優斗くんの例を見るに、魔法的な能力と結び付けて発現させるには精神的な要素が重要だというのは分かるが、物質的な何かなど、それ以外の考えを排除すべきではない」
店長の声は低く、その黄色い瞳は知恵の光で輝いていた。
「精神的な要素?物質的な何か?」
茜ちゃんが顔を上げた。彼女の眼鏡に朝の日差しが反射している。
「そう。一般的な古代魔法の書物の『五つの徳』についての記述は、『知恵、勇気、献身、誠実、そして愛。これらが結びついたとき、境界を守る鍵となる』としか書かれておらんものがほとんどじゃ。『結びつく』と状態が時代によって異なっており、今回は具体的にどのような状態を指すのかは分かっておらんのじゃ」
「五つの徳……」
わたしはつぶやいた。何か重要なことを思い出そうとしているような感覚。でも、記憶の糸はつかめない。
――講義で聞いたような……。でもいつも後ろの席で居眠りしてたからなぁ。
「とにかく、もっと調べる必要があるわね」
わたしは立ち上がり、窓から外を見た。裏庭では、いつの間にか拓人さんが到着しており、集合時間が来るまでもう一度練習したいと言う優斗くんと一緒に練習を始めていた。拓人さんは彼の傍で見守っている。
彼らの頑張りを見ていると、わたしも負けていられない。みんなで力を合わせて、影魔法使いの計画を阻止しなければ。
そろそろ出発しようかと思っていたそのとき、事務所の電話が鳴った。
「はい、マジカルエクスプレス便です」
わたしは明るく応えた。それが仕事の基本だ。
「千秋君か」
電話の向こうからは、エリアス先生の落ち着いた声が聞こえた。
――あの家の一体どこに電話なんてあるんだろう?でも今更考えても無駄か、エリアス先生だもんね。
「エリアス先生!どうしました?」
「重要な物を見つけてね。すぐに来てほしい」
彼の声には珍しく切迫感があった。
「分かりました。すぐに行きます」
わたしは電話を切り、皆に状況を説明した。
「優斗くんの訓練は?」
茜ちゃんが心配そうに尋ねた。
「途中だけど、これは優先したほうがいいわ。エリアス先生がこんな風に急かすのは珍しいから」
みんなが集まり、バンに乗り込んだ。店長も「わしも行く」と言って、黒猫の姿のままカバンの中に収まった。あまり人前に出たがらない彼が同行するなんて、よほど重要な事態なのだろう。
バンは森の中を進み、いつも通り道が細くなる手前で停車した。そこからしばらく歩き、ようやくエリアス先生の樫の木の前に到着した。わたしが銀の鍵で扉を開けると、エリアス先生が緊張した表情で待っていた。
「来てくれたか。入りたまえ」
リビングのテーブルには、美しい手鏡が置かれていた。銀の縁に複雑な模様が刻まれ、鏡面は水面のように揺らめいている。思わず私はエリアス先生に尋ねた。
「これは?」
「この前、君たちが配達してくれた『真実の鏡』だ」
エリアス先生が神妙な顔で言った。
「見る者の本当の姿、そして心の中の真実を映し出す、古代魔法の品だ」
「なぜこれを?」
「影魔法使いたちの動きを探るために使っていたんだ。先日この森を襲撃してきた影魔法使いのうちの1体を捕らえることに成功した。そ奴に真実の鏡を使ったところ、鏡の光に耐えられずすぐに崩壊してしまったが、記憶の一部をこの鏡に収めることに成功した」
――いくら多対一だとしても、エリアス先生を狙うなんて無謀だよね。あんまりこちらの実力とかは調べてないのかな?それとも自信過剰なだけ?
エリアス先生がわたしの疑問には気付かずに説明を続けた。きっと強い力を持つ彼にとってはどうでも良いことなのだろう。
「そして、彼らの次の標的が分かった。市内の古い天文台だ」
「天文台じゃと?」
カバンから店長が顔を出し、会話に割って入ってきた。
「なんと!ユーリオス!あなたが直接来るとは驚きだ」
――え?誰の事?ユーリオスって、ひょっとして店長の本名?結構長く一緒にいるけど初めて知った……。
エリアス先生は突然の旧友との再開に驚いているが、店長は構わずそのままエリアス先生に話しかける。
「前々回の百年目の満月の時、天文台なんぞなかったぞ」
「それは二百年もたっているからな。その間に建設されたんじゃないかな?確か以前は別の建物だったように思うよ」
エリアス先生は私たちに説明するように続ける。
「百年目の満月の夜、彼らはそこで古代の儀式を執り行うつもりらしい」
「それを止めなければいけないんですね?」
拓人さんが真剣な表情で言うと、エリアス先生は重々しく頷いた。
「だが、その前に君たちに見せたいものがある」
エリアス先生は真実の鏡を持ち上げ、光に当てた。鏡面が輝き、部屋に神秘的な光の模様が広がった。
「この鏡は過去や未来の断片を映すこともできる。百年目の満月について、もっと理解するために見ておいた方が良い」
鏡の表面に映像が現れ始めた。それは古代の魔法使いたちが儀式を行っている様子だった。二重に円を描くように立ち、中心の五人が手を繋いでいる。さらに中央には水晶のように透明でいろいろな色に輝く五つの細長い石が放射状に置かれ、その上に満月の光が注がれている。
「これは百年前の儀式の様子だ」
エリアス先生が説明した。
「彼らは境界を保護するために、五つの徳の力を結集させたんだ」
「この時の五つの徳は始まりの石のような水晶の結晶の外形をしていたと聞いている」
店長が補足説明した。
映像は変わり、今度は街に混乱が広がる様子が映った。建物が揺れ、奇妙な光が空に広がり、人々がパニックになっている。
「そして、これは彼らが保護に失敗した場合の未来の一つの可能性だ」
「ひどい……」
茜ちゃんが震える声で言った。彼女の科学的な思考でさえ、この映像の前には言葉を失ったようだ。
「私たちはこれを止めなければならないんですね」
わたしは決意を込めて言った。恐怖はあるけれど、それ以上に使命感があった。
「その通り」
エリアス先生が鏡を下ろした。
「百年目の満月までもう二週間しかない。急いで準備が必要だ」
「でも、どうやってですか?」
優斗くんが尋ねた。彼の表情には不安と決意が混ざっていた。
「二つの方法がある」
エリアス先生が言った。
「一つは影魔法使いたちの儀式を直接阻止すること。もう一つは、私たちの力で境界の保護を強化する儀式を行うことだ」
「両方やりましょう」
わたしはすぐに言った。
「確実を期すために」
「しかし、それには『五つの徳』が必要じゃ」
カバンから顔を出したままの店長が言った。彼の黄色い瞳は真剣だった。
「君たちはその資質を持っているかもしれぬが、それを引き出し、結集させる必要がある。それぞれの徳を何らかの物質に変換する必要があるのかどうか分からんがね」
「今更ながら、課題は多いな」
拓人さんがつぶやいた。しかし、彼の目には諦めの色はなかった。
「そうだな。だがまずは準備だ」
エリアス先生が立ち上がった。
「優斗君は守護魔法の訓練を続けること。茜さんには古代魔法の研究を深めてもらう。千秋君と拓人君には、市内の5つの境界ポイントを調査してもらいたい」
「5つの境界ポイント?この前、少し話に出てきたポイントですね」
拓人さんはこの前言われた自分の役割をちゃんと覚えていたらしい。
「そう。魔法界と人間界の境界が交差する重要な場所だ。五つあって、それぞれに守護の儀式が必要になる」
全員が頷き、それぞれの任務を引き受けた。エリアス先生から誰がどのポイントを受け持つか等の詳しい指示を受け、わたしたちは戻ることにした。
「あと、これを持っていくといい」
エリアス先生は小さな水晶のペンダントを四人に渡した。
「緊急連絡用だ。危険を感じたら、これを握りしめて私の名を三回唱えなさい」
「ありがとうございます」
優斗くんがペンダントを大事そうに受け取った。
「さて、大事な話を無事に伝えられたらのどが渇いてきたな。昼食でも一緒にどうだい?」
お言葉に甘えて、わたし達はごちそうになることにする。新鮮なミルクとエリアス先生お手製のサンドウィッチとフルーツが出てきた。長年一人暮らしなだけあって、料理の腕はそれなりだ。サンドウィッチは単純な料理だが、エリアス先生のアレンジがそこかしこに見られる。店長はと言えば、満足そうに高級猫缶を食べきっておやつを要求している。いくら知り合いとは言え図々しい。
昼食が終わり、みんなで少しまったりした後、エリアス先生からは各境界ポイントの特徴と守護の儀式のやり方が具体的に伝えられた。ポイントごとにやるべきことが少しずつ異なるようで、わたし達はそれを必死にメモして覚えた。
帰り道、車の中は静かだった。全員がそれぞれの思いに沈んでいた。途中、拓人さんがふと口を開いた。
「美咲のことを考えていた」
彼が自ら妹さんの名前を出すのは珍しい。
「彼女が消えた原因も、次元の壁に関係していたのかもしれない。もし境界が崩れれば……」
「彼女に会える可能性もあるのね」
わたしが静かに言った。拓人さんの複雑な思いが伝わってくる。
「でも、さすがにそれは危険すぎる方法だ」
拓人さんがきっぱりと言った。
「影魔法使いたちの計画を止めなければならない。それが美咲のためでもある」
優斗くんが拓人さんを尊敬のまなざしで見つめていた。彼の中で、拓人さんは特別な存在になりつつあるようだ。
事務所に戻ると、すぐに準備が始まった。エリアス先生から渡された地図を広げ、市内の五つの境界ポイントを確認する。神社、古い井戸、廃校になった小学校、丘の上の展望台、そして市立図書館の地下室。不思議と人々が集まる場所であり、同時に100年以上の古い歴史を持つ場所だった。
「明日から一か所ずつ確認していきましょう」
わたしが言った。皆の表情は真剣だった。特に優斗くんは、いつもの少年らしい明るさの中に、新しい決意の色が見えた。
「河童ドラゴンと出会ったこと、エリアス先生の話、そして守護魔法の訓練……全部繋がっているんだね」
優斗くんがつぶやいた。
「まるで、僕たちがこの時のために導かれてきたみたい」
「運命という言葉は好きではないが」
店長が棚の上の定位置に戻って言った。
「偶然の積み重ねにしては出来すぎている。何か大きな力が動いているのかもしれないな」
窓の外には夕焼けが広がり、街が赤く染まっていた。オレンジ色の空には、三日月が薄く浮かんでいる。あと二週間で満月。そして、百年目の特別な満月の夜が訪れる。
わたしたちの戦いは始まったばかり。でも、仲間がいれば、きっと乗り越えられる。そう信じて、わたしは窓辺に立ち、夕暮れの街を見つめた。