人間たちがテキパキと動き回る午後の事務所を、黒猫の姿をした店長である
だが今日は、この視点から見る風景が少々気がかりだった。千秋のポンコツぶりは言わずもがな、だが優斗と茜の若い二人の成長は目を見張るものがある。特に優斗、彼には『勇気』の徳が宿っていると見た。それはつまり、かつての仲間のようだ。
「ふむ」
儂は小さくつぶやき、棚の上で体を丸めた。しばらく静かに目を閉じ、現在の境界の状況を感知する。前々回の百年目の満月での惨事以来、大きな犠牲を払った代わりに儂の体は境界の変化に極めて敏感になっていた。体の半分以上を失ったあの事故は、今でも鮮明に覚えている。千秋の魔力を借りることで今の姿を保っているが、あれほどの大規模な事故は二度と起こしてはならない。
――確かに、以前よりも境界が薄くなっているようじゃな。百年目の満月に向けて、徐々に変化が進んでいるか。
小動物が駆ける音が聞こえてきたかと思ったら、突然、事務所の扉の隙間から茶トラの猫が飛び込んできた。猫のネットワークからの緊急連絡のようだ。猫たちによる独自の情報網は、黒猫の姿をとる儂だけの重要な諜報網である。普段は街中の猫たちの目と耳が、儂に様々な情報をもたらしてくれる。
「にゃんのう様、にゃんのう様!大変です!」
儂の意識の中に、若い茶トラ猫の声が響いた。その声には明らかな恐怖が含まれている。
「落ち着け。何があった?」
この事務所には報告にくる猫や新入りの挨拶にくる猫など、外界で暮らす猫たちが頻繁に出入りしている。なぜかたまに犬まで挨拶や困りごとの相談に来るほどだ。事務所のメンバーは儂が猫ネットワークを持っている事を知っているので、猫が1匹飛び込んできたくらいでは誰も気にも留めない。焦って話す声も、人間には「にゃー」としか聞こえない。
しかし、儂は目を開けずに意識で返す。事務所の人間たちに少しでも気づかれないよう配慮するために。そのまま静かな意識の流れで会話を続ける。
「天文台のパトロール隊です!人間の影のような形で、においも何もしない黒い物体が現れて、猫パトロール隊が威嚇したのですが、彼らは全然怯まなくて……トラ猫のトラ吉が怪我をしました!子猫のミケちゃんも危険な状態です!」
儂の眉間にはっきりとしわが寄った。天文台は、儂が特に注意するよう指示していた場所だ。前々回の百年目の満月での事件を経験した儂は、市内の境界ポイントから発せられる魔力線の交点として、そこが最も闇の儀式に適した場所だと気づいていたのである。
「わかった。すぐに行く。それまでは決して近づくな。あくまで観察だけにしておけ」
棚から素早く飛び降り、儂は事務所のドアへと向かった。
「あれ?店長?どこ行くの?」
千秋ののんきな声が背後から聞こえたが、振り返らず、小さく「ちょっと用事だ」と返す。
「また勝手に出歩くんだから。もう、帰ってくる時間くらい言ってよね~」
――お前は儂の嫁か!
千秋のぼやきを背に、儂は軽やかに扉の隙間をすり抜けた。いつもならこうした鈍感さに呆れたものだが、今回はかえって好都合だ。彼女に心配をかけたくはなかった。
外に出るとすぐに体を低くし、茶トラの案内で路地裏を駆け抜ける。街の猫たちは皆儂を知っている。中には深々と頭を下げる者もいるが、今はそれに構っている暇はない。儂たちは速度を上げ、天文台のある丘へと急いだ。
天文台に着くとすぐに、猫たちの集団が見えた。トラ猫や三毛猫など様々な猫たちが、天文台前の広場の端で小さく固まっている。その中心には、明らかに負傷した若い三毛猫が横たわっていた。
「にゃんのう様!」
一匹の老猫が近寄ってきた。彼は儂が設置した猫パトロール隊の隊長だ。
「状況を報告せよ」
儂は簡潔に命じた。老猫は震える声で答える。
「はい、約一時間前に黒い霧のような人影がこの広場に現れました。最初は通常の不審者と思って威嚇しようとしたのですが……彼らは明らかに普通の人間ではありませんでした。トラ吉が前に出て威嚇したとき、影から鋭い刃物のようなものが先端に付いた黒い触手のようなものが伸び、トラ吉を打ち倒しました」
儂は眉をひそめた。それは間違いなく影魔法使いの仕業だ。
「それから?」
「ミケちゃんがトラ吉を助けようとして飛びかかったのですが、彼女も同じように攻撃されました。影の者たちは天文台の観察室に入り、何やら模様を床に描き始めました。それで私たちは至急ご連絡を……」
「ご苦労じゃった。ミケちゃんの様子はどうじゃ?トラ吉は?」
「トラ吉は軽傷ですが、ミケちゃんの方は息はしていますが、冷たくて……時々小さく震えています」
状況を聞いた儂は、トラ吉の傷を後回しにして若い三毛猫に近づいた。彼女はまだ子猫と言えるほどの若さだ。影魔法に触れた跡がはっきりと見て取れる。黒い斑点が、彼女の綺麗な三毛柄を醜く汚していた。
「この子はまだ若い。このままでは影魔法の浸食に耐えられないだろう」
儂は静かに言った。周囲の猫たちの間に緊張が走る。
「助かるのでしょうか?」
「任せろ」
儂は静かに目を閉じ、意識を集中させた。長い年月の間に蓄積した魔力を、少しずつ解放する。すると体の周りに淡い光が現れ始めた。千秋の魔力を借りれば簡単だが、それでは千秋に気付かれる。わし自身が蓄えてきた魔力で何とかするしかない。
「にゃんのう様の治癒魔法だ」
猫たちの間で驚きの声が上がる。儂はそれを無視し、さらに集中を深めた。かつての姿を思い出すような感覚が脳裏をよぎる。人間であった頃の記憶は遠くなっていたが、魔法を行使するときの感覚だけは鮮明に残っていた。
「光よ、闇を払え。この者の闇の傷をあるべき姿に!」
古代魔法語で唱えると、儂の体から強い白い光が放たれた。光はミケちゃんの体を包み込み、黒い斑点はゆっくりと消えていった。光が消えた後、彼女の息遣いは明らかに楽になっていた。
「これで大丈夫じゃ。あとは休ませておけ」
儂は少し体力を消耗した感覚を覚えながらも、天文台の観察室の方を見た。中からは明らかな魔力の波動が感じられる。
「隊長、皆を安全な場所に退避させるんじゃ。儂が中の様子を見てくる」
「でも、にゃんのう様、あの影は強力です!」
「心配するな。儂には数百年間に蓄積した経験がある。少しくらいの影なら対処できる」
そう言って、儂は観察室に向かって歩き始めた。歩きつつ、影どもに儂の姿の印象を残さないように、体毛をトラ猫に変化させトラ吉の姿を借りる。
体毛を変えた儂は、望遠鏡や双眼鏡のようなものが入った古い備品倉庫の窓から忍び込み、静かに二階にある観察室に近づく。廊下は長年の放置で埃だらけだ。かつてここで子供たちが走り回っていた頃が懐かしく思えた。
観察室のドアの隙間から、儂は中の様子を窺った。ドーム状になっている天窓以外は窓の無い観察室に、三体の影魔法使いが黒い魔法陣を床に描いていた。その魔法陣は明らかに境界を弱めるための儀式の一部だ。
「これは放っておけんな」
儂は猫独特の足音を消す歩法で静かに観察室に足を踏み入れた。影魔法使いたちはまだ儂に気づいていない。彼らは魔法陣に集中していた。
儂は静かに音もなく近づき、そして突然、額から強い浄化の光球を放った。光球は最も近い影魔法使いに直撃し、彼は悲鳴を上げて倒れた。そのまま床の染みのようになってゆっくりと消えていく。
「何者だ!?」
残りの二体が驚いて振り向く。彼らの姿は黒い霧のようで、顔も識別できなかった。
「この場所は我らが監視している。
儂は静かに言った。体は小さな猫姿だが、声は低く、威厳に満ちていた。
「猫?魔法を使う猫だと?」
影魔法使いの一人が驚いたように言った。
「儂は猫ではない。ただ、今はこの姿を借りているだけだ」
儂は前足を左右に広げ、爪の先で小さな魔法陣を描き始めた。
「お前たちは立ち去れ。さもなくば浄化する」
「我らを脅すか、小さき獣が!」
影の一体が黒い触手を伸ばしてきた。儂はすかさず魔法陣を完成させ、それを
「くっ……!」
体をねじって躱そうとした影の半身に光が命中し、命中したところから影は光に溶かされ始め、苦悶の声を上げた。残りの一体は明らかに動揺している。
「この猫……ただの猫ではない」
「退くぞ。今日の儀式は中断だ」
無事な方の影が半分消えかかっている影に触れると、彼らは二体とも黒い霧となって観察室から消えていった。完全に逃げ出したわけではないだろうが、少なくとも今日の儀式は阻止できた。
儂は床に描かれた黒い魔法陣に近づき、前足で床を叩いた。浄化の魔法を込めた前足の衝撃が波打つように魔法陣に浸潤し、魔法陣を消していく。
「ふむ、これで一段落か」
魔法陣が完全に消えると、儂はかなりの疲れを感じた。年齢を重ねるごとに、魔力の回復に時間がかかるようになっている。黒猫の姿で人間のように喋ることが、精一杯の日常使いの魔法という訳だ。今日のような高度な魔法の使用は、数日は控えた方がよさそうだ。
姿をトラ猫から黒猫に戻して観察室を出ると、隊長の老猫が不安そうな顔で待っていた。
「にゃんのう様、無事でしたか?」
「ああ、影は退けた。じゃが警戒を怠るな。彼らはまた来るじゃろう」
「はい、見張りを強化します」
「先ほどはミケちゃんを治療する余裕しかなかったが、トラ吉の傷はどうじゃ?見せてみよ」
その言葉に、後ろ足を引きずったトラ吉が進み出てくる。軽傷ではあるが、闇が侵食しており、このままでは治癒しないだろうと儂は見当を付け、治癒魔法をかけることにする。もう少し踏ん張る必要があるようだ。
前足は土がついて汚れている。そこで儂はトラ吉の傷口をなめるような仕草をしながら、舌先に魔力を集中させて浄化魔法と治癒魔法を続けて発動させる。傷口が小さいおかげで使用した魔力は少量で済んだ。
「これで大丈夫じゃろう。ミケちゃんと一緒に少し休むと良い。傷は小さくとも闇の浸食を受けたのじゃ。体力は消耗しておろう」
事件の収束に安堵し、緊張が解れるにしたがって、今まで体にかかっていた負荷が圧し掛かってくる。
「それに」
儂は一息ついて空を見上げた。
「百年目の満月が近づいておる。あと二週間もしないうちに、境界は最も弱くなり、ここも儀式の場として狙われるじゃろう。警戒を厳重にせよ。ただし、影に対して直接の手出しはせぬように。すぐに儂に知らせろ」
「かしこまりました」
儂は再びミケちゃんのところへ行った。コンクリートの地面に横たわる彼女はすでに目を開けていて、周りの猫たちに囲まれていた。
「にゃんのう様……ありがとうございます」
彼女の声は弱々しかったが、確かな生命力を感じさせた。
「休んでいろ。若いから回復も早いじゃろう」
儂は優しく彼女の頭を撫でた。猫の姿でありながら、まるで人間のように前足を使えるのは、かつて人間だった名残だろう。
「にゃんのう様は本当に凄いですね。あの影の者たちを撃退するなんて」
隊長が感嘆の声を漏らした。
「彼らはまだ本気ではなかった。不意を打てたから今回は何とかなった。本当の戦いはこれからじゃ」
儂は天文台を後にし、重い体を叱咤しながら事務所への帰路についた。街の猫たちは儂の姿を見ると深々と頭を下げる。彼らにとって儂は伝説の存在なのだろう。だが実際には、ただの生き残りに過ぎないと自分では思っている。
事務所に戻ると、ちょうど夕暮れ時だった。拓人が窓から外を見て、何かを考え込んでいた。
「お、店長、戻ったか」
彼は儂に気づくと、静かに言った。
「ああ、今帰った」
「俺たちがいる時は滅多に事務所を空けることが無い店長が一体どこに行ってたんだ?」
「ちょっとした調査だ」
拓人は千秋と異なり何かを察知したようだったが、それ以上深くは追求せず、ただ頷いた。彼は人の秘密を尊重する男だ。だからこそ、彼もまた『五つの徳』の一つを持っているのかもしれない。
「それよりも。境界の状態が気になる。前々回のような事故は避けねばならん」
儂は静かに言った。それを聞き、拓人の表情が暗くなった。彼の妹の失踪も、境界の不安定さによるものだったのだろう。その痛みを儂はよく理解している。だからこそ、このチームが境界を守る重要性を感じていた。
――『五つの徳』を持つ者たちが揃いつつある。だが、時間は限られている。満月に向けて、彼らの力を結集させねばならない。
老体にムチ打ち、棚の上に飛び乗り、儂は再び体を丸めた。事務所の日常が、まるで何事もなかったかのように続いている。千秋はまた何かの書類を探して騒いでいる。
「あぁ~、今度こそ絶対に締め切りに間に合わないよ~!」
彼女の慌てぶりを見ながら、儂は小さく笑った。このポンコツ千秋の中に、『知恵』の徳が眠っているとは他の誰も気づくまい。今は使い魔として彼女の魔力を感じられる儂しか知り得ない事実だ。だが千秋は『知恵』の徳を持つものとして時に予想外の活躍を見せる。だからこそ、千秋のポンコツぶりに遭遇するたび、実際の知恵と、『知恵』の徳とはあまり関係が無いのかもしれないとも思ってしまう。しかし、影魔法使いたちを退けるには、この個性的なチームの力が必要だ。
儂は静かに目を閉じた。今日の魔力の消耗は大きかった。猫の姿での昼寝は、魔力回復にもってこいだ。
境界のゆらぎを感じながら、儂は静かに意識を解放していった。真の戦いはこれからだ。それまでに十分に力を蓄えておかねばならない。
――百年目の満月に向けて、すべては動き始めている。