翌日の朝、事務所に葉月ちゃんが飛び込んできた。葉月ちゃんは以前に魔法の教科書を配達したことがある魔法使いのタマゴだ。
「最近、誰かにつけられてる気がするんです。今朝も大学へ行こうとして家を出てからずっと誰かの視線を感じて、怖くなってここに走って来たんです。少し匿ってもらえませんか?」
葉月ちゃんは怯えているようで小刻みに手が震えている。いくら葉月ちゃんが可愛いからってストーカーなんて許せない。わたしは葉月ちゃんが安心するように抱きしめてあげた。
――私なんて近寄ってくる男なんて誰もいないのに!拓人さんは別として。……悲しくなってくるから考えるのヤメヤメ。
不謹慎なことを考えてしまった私は内心反省しつつ、葉月ちゃんに尋ねた。
「大学の友達とか、心当たりのある人はいないの?意外と身近な人がストーカーになるケースもあるみたいだよ?」
「特に心当たりはないですぅ。だから余計怖いんです」
涙目で葉月ちゃんが答える。そんなやり取りを見ていた店長が見かねて助け舟を出した。
「ふむ、落ち着くまでここで休むと良いじゃろう。儂が近所を見回って来よう」
こういう時の店長は頼もしい。きっと猫ネットワークから有益な情報を得てきてくれるだろう。
1時間近くたっただろうか。葉月ちゃんが少し落ち着きを取り戻したころ、店長が戻ってきた。すかさず私は尋ねる。
「店長、どうだった?」
「うーむ、確かに葉月をつけていた人物がいたようだな。電柱の影などを利用して移動する不審な人物の目撃例があった。朝、出かける時間や通る道を把握されている可能性が高い。毎朝出る時間をずらしたり、通る道を変えて対処するしかないじゃろう。あと、警察にも届けておくのじゃぞ。巡回を増やしてくれるじゃろうからな。少ししてから安全かどうか、もう一度見て来よう」
そういう間も何匹かの猫たちが事務所に出入りして店長に会っていく。何を言ってるのか全く分からないけど。
少ししてから店長がお得意の変装モードで見回りに出ていった。店長は体毛を自由に変えることができる。今日は黒猫から三毛猫バージョンに変装だ。
「もう大丈夫じゃろう。ここ1時間くらい不審な目撃情報もないし、儂の感覚にも何も引っかからなかった」
戻ってきた店長の言葉を聞いて安心したのか、緊張で体が強張っていた葉月ちゃんからフッと体の力が抜けた。すぐに警察に行ってくると言って葉月ちゃんは恐々と外に出ていった。わたし達も心配しつつ通常業務に戻る。
――わたし達も不審者を見かけないか、配達の合間に気を付けて見てなきゃ。
そう思って拓人さんの方を見ると、拓人さんも力強く頷き返してくれた。
さて、葉月ちゃんのストーカー騒動が落ち着いた午後、わたし達は仕事を早めに切り上げて市立博物館を訪れることにした。古代魔法について知るために、専門家の意見を聞く必要があったからだ。学校が終わった優斗くんと茜ちゃんを回収しつつ、みんなでバンに乗って市立博物館へ向かった。エリアス先生も店長も古代魔法には詳しいのだが、最新の研究結果や知見を持つ者に聞いた方が二度手間を防げるという事で、エリアス先生から村上教授を紹介してもらったのだ。
博物館に到着すると、重厚な石造りの建物が私たちを出迎えた。階段を上り、大きな柱の間を通り抜けると、落ち着いた雰囲気のロビーがある。そこで受付の女性に、エリアス先生からの紹介で村上教授を訪ねて来たことを伝えた。
「村上先生は地下の研究室におられます。どうぞこちらへ」
私たちは案内されるまま、薄暗い階段を下りていった。壁には古代の壁画のレプリカが飾られ、それらのいくつかには魔法に関連する象徴が隠されていることに気づいた。一般の人には単なる装飾に見えるが、魔法の知識を持つ者には意味がわかる仕掛けだ。
地下の研究室は、想像以上に広く、壁一面に本棚が並んでいた。中央には大きな作業テーブルがあり、そこには古い羊皮紙や書物が広げられている。白髪の老人が眼鏡をかけ、熱心にそれらを調べていた。
「村上先生、お邪魔します。エリアス先生のご紹介で参りました日比野千秋と申します」
わたしが声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。村上智明教授、73歳。古代魔法語の研究では第一人者と言われる学者だ。表向きは歴史学者として博物館で働いているが、実は魔法評議会の協力者でもある。
「村上です。はじめまして。千秋さん、こんな古びたところにようこそ。エリアスから概ねは聞いてるよ」
村上教授は優しく微笑んだ。彼の瞳には長年の研究から来る知恵が宿っていた。
「久しぶりにエリアスから連絡があってね、ちょっと驚いたよ。さあ皆さん、こちらへどうぞ」
教授は私たちを招き入れ、作業テーブルの周りに座るよう促した。着席前にわたしは慌てて同伴者の皆を紹介する。
「こちらが佐々木拓人さん、そして高梨優斗くんと水沢茜ちゃんです」
「うん、みんなの事もエリアスから聞いてるよ。よろしくね」
「初めまして」
優斗くんと茜ちゃんが丁寧に挨拶した。拓人さんも軽く頭を下げた。みんなが着席し、早速村上教授が本題に入り始めた。
「で、古代魔法と百年目の満月について知りたいそうだね」
村上教授はテーブルの上の書類を整理し始めた。
「はい。特に『五つの徳』と『境界の鍵』について詳しく知りたいんです」
茜ちゃんが率直に答えた。彼女の知的好奇心は抑えられない様子だ。
「なるほど」
教授は大きな古書を取り出した。革の表紙はすり切れ、ページは時間の経過で黄ばんでいる。
「これは『古代魔法体系論』という、約800年前に書かれた書物だ。魔法の学問体系について最も古い記述の一つでね」
わたしたちは興味津々で身を乗り出した。
「魔法の学問は大きく分けて『古代魔法』と『現代魔法』に分類されるのは知ってるね?」
教授は眼鏡を直しながら説明を始めた。
「古代魔法はより原始的で直感的。儀式や象徴を重視し、自然の力と調和することで強力な効果を発揮する。しかし、制御が難しく、失敗すると危険だ」
「河童ドラゴンみたいな魔法生物とも関係があるんですか?」
優斗くんが質問した。
「河童ドラゴンを知ってるのかい?鋭いね」
教授は感心した様子で頷いた。
「その通り。古代魔法は生命の神秘とも深く結びついている。河童ドラゴンのような生物は、古代魔法の時代から存在し、その力の一端を担っているんだ」
「対する現代魔法は?」
茜ちゃんがペンを握りしめて尋ねた。
「現代魔法はより体系的で理論的なアプローチをとる。約400年前から発展し始め、19世紀末に体系が確立された比較的新しい魔法体系だ。魔力の制御技術が発達し、より安全で再現性の高い魔法を可能にした」
「千秋さんが使う魔法は現代魔法ですか?」
優斗くんがわたしを見た。
「基本的にはそうだよ。でも、時々古代魔法の要素も取り入れてるの。特に強力な効果が必要な時には」
「そして失敗した時も強大な爪痕を残すと……」
拓人さんがボソッと付け加える。わたしは笑顔のまま拓人さんのつま先を思いっきり踏んで何事もなかったかのように会話を続ける。拓人さんは突然机に突っ伏して背中が小刻みに震えているが気にしない。
「両方の良いとこ取りですね」
そんなわたし達の様子に気付いてか気付かずか、茜ちゃんがメモを取りながら言った。
「さて、影魔法使いたちについてだが、彼らが使う魔法は現代魔法とは異なる」
村上教授の表情が暗くなった。
「彼らは古代魔法、特に闇の力に特化している。現代魔法の制約を嫌い、より原始的でコントロールし難い、しかし強力な魔法を好むんだ」
「『五つの徳』についてはどうでしょうか?」
つま先の痛みから立ち直った拓人さんがようやく口を開いた。彼はずっと静かに聞いていた振りをしていたが、つま先を踏まれた時も耳だけは村上教授の話に集中していたのだろう。あっぱれである。
「ああ、それこそが今日君たちに伝えたかったことだ」
教授は嬉しそうに微笑み、古書のあるページを開いた。そこには五つの象徴が円を描くように配置されていた。
「『五つの徳』とは、古代魔法の根幹を成す精神的要素だ。知恵、勇気、献身、誠実、そして愛。これらが揃うとき、最も強力な魔法が発動する」
「それが『境界の鍵』とどう関係するんですか?」
茜ちゃんが尋ねた。
「実は、『境界の鍵』は物理的な鍵ではなく、この『五つの徳』そのものなんだ」
村上教授はページをめくった。そこには魔法界と人間界の境界を表す図が描かれていた。
「魔法界と人間界の境界は、この五つの精神的要素によって守られている。百年に一度、満月の力が最も強まる夜、これらの要素が結集することで境界は安定する」
「じゃあ、影魔法使いたちは『五つの徳』の集結を阻害または破壊しようとしているということですか?」
優斗くんが眉をひそめた。
「おそらく、そう考えられる。彼らは『五つの徳』と対を成す『五つの対立』という精神的要素を持つ影魔法使いを集めて境界を崩そうとしているんだ。無知、恐怖、利己、虚偽、憎悪……これらが『五つの徳』に対抗する暗い力だ」
「そして、河童ドラゴンの力は?」
優斗くんの後を継いでわたしは尋ねた。
「浄化の力を持つ河童ドラゴンは、闇の力を中和できる。だから、彼らにとって脅威だった。他にも理由はあるだろうが、それが一番大きな理由だろうね」
村上教授はさらにページをめくり、衝撃的な発見を伝えた。
「実は最近、とても重要なことを発見したんだ」
彼は古い写真を取り出した。そこには五人の人物が写っている。
「これは百年前の写真だ。百年前の満月の夜に、境界を守るために集まった五人の魔法使いたち」
写真をじっくり見ると、彼らはそれぞれ異なるアイテムを持っていた。杖、盾、剣、鏡、そして勾玉。
「彼らは『五つの徳』を体現し、百年前の危機を乗り越えた。そして、次の百年目の満月に備えて、自分たちの力の一部を遺した」
「遺した?どこにですか?」
「それが面白いところだ」
教授はわたしに微笑んだ。
「彼らの力が、次世代の『五つの徳』を持つ者たちへと引き継がれるよう、彼らは古代魔法の力を借りて仕込んだんだよ。そしてそれを引き継いでいると考えられるのが……」
村上教授がわたしをじっと見つめる。わたしは教授の言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかってしまった。
「まさか……私たちのことですか?」
わたしは予想外の展開に驚いて尋ね返した。
「可能性は高い。エリアスやユーリオス、つまり君たちの店長の話では、君たちはそれぞれの『徳』に対応する資質を持っているという。そして、千秋さん、あなたには知恵の徳が、拓人さんには献身の徳が宿っている可能性が高いらしいね」
「私が?献身の徳?私は魔法使いじゃありませんよ?でも、なぜ私たちが?」
拓人さんが疑問を投げかけた。
「五つの徳は精神的要素とされている。あまり知られていないようだけど、実は非魔法使いであっても備わっていることがあるんだよ。もちろん、魔法使いの方が親和性が高いことは確かだがね」
「そうなんですか。私が……」
――あーあ、拓人さん考えこんじゃった。それに私が知恵の徳?店長には申し訳ないけど、もっともあり得ないんじゃないかなぁ。自分で言うのもアレだけど……。
「それに、これは運命とも言えるだろうしね……」
教授は古書の間に挟まれていたある写真を取り出し、見つめながら小さく呟いた。そして取り出した写真を私たちに見せつつ、いたずらっ子のような面白がるような眼をして教授が続けた。
「さて、その疑問に答えるためにも、この写真を見てほしい。もっと面白いことが分かるよ。この写真の中央の人物、盾を持った男性。彼の名前は高梨啓介という」
「高梨……!」
優斗くんが驚きの声を上げた。
「まさか、僕の……」
「君の曽祖父かもしれないね。家系図を確認する必要があるが、似ている」
確かに、写真の男性は優斗くんに似ていた。同じような目の形と、誇り高い顎のライン。
「それで僕に守護魔法の素質があるのは……」
「血筋を通じて受け継がれた可能性もある」
村上教授が言った。
「他の四人についても調べているが、まだ確定していない。どの人物か、現時点では不明だが、このうちの一人は非魔法使いだったらしいよ」
私たちは互いに顔を見合わせた。この発見は、ただ単に百年目の満月に立ち向かうだけでなく、過去からの使命を引き継ぐことを意味していた。
「そういえば、家に古い家系図があったかも……」
優斗くんが思い出したように言った。
「今度確認してみます」
「それは助かる。百年前なら戸籍を確認する方法もあるが、遠隔地だった場合や本人以外の場合は戸籍を取り寄せるにも時間がかかるからね。まあ、最近は本人ならコンビニでも取れるみたいだけど」
教授が頷いた。
「なにしろ時間がないからね。あと二週間弱しかない」
教授はさらに詳しい資料をわたしたちに渡してくれた。「五つの徳」の象徴や儀式について書かれた古文書のコピー、百年前の出来事に関する記録、そして影魔法使いに対抗するための古代魔法の詳細だ。
「これらを研究し、準備を整えなさい」
教授は真剣な表情で言った。
「百年目の満月の夜、君たちの力が試される」
私たちは教授に礼を言い、博物館を後にした。手に入れた資料は膨大で、これからの日々はその研究と準備に追われるだろう。
「僕の曽祖父が……」
優斗くんはまだ驚きの表情を浮かべていた。彼の中で何かが変わったように見える。自分の役割、そして責任の重さを感じているのだろう。
「調べてみましょう」
茜ちゃんが優斗くんの肩に手を置いた。彼女の表情には、友人を支えようという強い意志が見えた。
「一緒に」
わたしは二人の絆を見て、微笑んだ。これもまた「徳」の一つかもしれない。友情という名の。
事務所に戻る道中、春の夕暮れが街を優しく染めていた。そんな平和な風景を守るために、私たちは戦おうとしている。それが運命であろうと偶然であろうと、今はただ前を向くだけだ。