日曜日の朝、わたしたちは再び魔法動物園を訪れることにした。エリアス先生に指摘されて、河童ドラゴンと古代魔法語が書かれていた首輪のお守りについて、もっと詳しく調べる必要が出てきたからだ。
「おはようございます、健太郎さん」
先に連絡した通り、わたしたちが到着すると健太郎さんは入り口で待っていてくれた。彼の表情は少し暗く、心配事があるようだった。
「よく来てくれた、千秋さん」
彼は少し声を落として続けた。
「ちょうどいいタイミングだったよ。実は河童ドラゴンの状態がまた悪化してね……」
「えっ、どうして?前回はすっかり良くなったと思ったのに」
「そうなんだよ。一度は回復したんだが、昨夜から様子がおかしくなり始めたんだ。食欲もだんだん無くなってきて、動きも鈍ってきてる」
わたしたちは急いで診療室へと向かった。水槽の中の河童ドラゴンは、確かに元気がなく、ぐったりとしていた。美しかった青緑色の鱗も、少し色あせているように見えるのは気のせいだろうか。
「今度は一体どうしたんだろう……」
わたしは水槽に近づき、前回と同じ診断の魔法薬を使った。すると、ドラゴンの体から赤い光が見えた。でも、前回とは違う場所。今回は頭部が光っている。
「頭部に何か問題が……?外傷でもないし、ぱっと見じゃあちょっと分かりそうに無いです。もっと詳しく調べないと……」
その時、優斗くんが近づいてきた。
「千秋さん、僕に見せてください」
彼は水槽に手を当て、目を閉じた。彼の守護魔法の訓練が活きているのだろうか。しばらくすると、彼の表情が変わった。
「なにか……呼びかけてる感じがします」
「呼びかけ?何に?誰に?優斗くんにじゃなくて?」
頭の中にハテナがいっぱい浮かんでいるわたしの声を聞いてか聞かずか、優斗くんは続ける。
「言葉じゃないんですけど……、何となく、感覚として」
「もしかして、自分の魔力を照射して相手の状態を感じ取っているの?」
わたしは思わず目を見開いた。これは結構高度な技術だ。優斗くんの成長には目を見張るものがある。
「このタイミングですから、首輪のお守りと何らかの関係があるかもしれないですね」
百年目の満月という言葉を使わずに冷静に分析中の茜ちゃんは言ったが、皆には伝わったようだ。代表してわたしが健太郎さんに尋ねる。
「保管してあるお守りを見せてもらえますか?」
健太郎さんは一つ頷くと、保管庫から前回見せてもらった小さな箱を取り出した。中には古びた円形のお守りが入っている。わたし達が箱を開けると、驚くべきことに、お守りが微かに光り始めた。そして、それに呼応するように水槽の中のドラゴンも頭をもたげ始めた。
「ひょっとして、繋がっているの……?」
わたしの口から驚きのあまり言葉が零れた。
「お守りとドラゴンの間に何らかの絆があるんですね」
茜ちゃんはお守りを近くで観察し始めた。彼女の観察眼は鋭い。
「この文字……古代魔法語ですけど、何か特別な意味があるはずだと思うんです」
「これを解読できるとしたら……村上教授ならできるかも!」
わたしは閃いた言葉をみんなに提案してみた。みんなが真剣な顔で頷き返してくる。
「急な話でどうなるか分からないけど、わたし、今から連絡してみる」
村上教授は日曜のためお休みで自宅にいたようだ。わたしの話を聞いた途端、興奮したように「すぐ行く」とだけ言って電話が切れた。そして一時間後、村上教授が急いだ様子で到着した。彼は興奮しているのか、年齢を感じさせない動きで素早くお守りを手に取り、眼鏡越しに注意深く観察した。
「これは……」
教授の表情が単なる興奮から真剣なものに変わった。
「おそらく『契約の封印』だ」
「契約?」
優斗くんが不思議そうな顔をする。
「古代魔法の中には、魔法生物と魔法使いが契約を交わし、お互いの魔力の相乗効果を利用して力を高め合う方法がある。今ではほとんど逸失してしまっている技術だが、この貴重なお守りはそれに類する契約の証だろう」
「でも、この子、誰と契約したんでしょう?」
優斗くんが首を傾げつつ独り言のように尋ねた。
そんな優斗くんの言葉には気付かず、教授はお守りの裏面をさらに調べていた。そして、そこに刻まれた小さな印で、彼の目が留まった。
「ここに名前らしき刻印が……」
目をすがめて一生懸命解読しようとしていた教授の目が、その瞬間大きく見開かれた。
「高梨……啓介!」
「えっ!?」
優斗くんが驚きの声を上げた。
「僕の曽祖父が?」
「そうだ。間違いない」
教授が興奮した様子で頷いた。
「高梨啓介は河童ドラゴンと契約を結んだんだ。いや、先人から継承したと言った方が良いかな?時期はおそらく百年前の戦いの時だ」
優斗くんは水槽に近づき、改めてドラゴンを見つめた。彼の曽祖父と繋がりを持つ生き物だと思うと、感慨深いものがある。
「だから僕になついたんだ……」
「おそらく、そういうことだろうね」
教授がわたし達に向かって説明を続ける。
「血の繋がりがあれば、古い契約の残滓を感じ取ることができる場合がある。だからだろう」
「でも、なぜ今になって具合が悪くなったんでしょうか?」
茜ちゃんが話を元に戻すように疑問を投げかけた。
「きっと満月が近づいているからだ」
それに答えたのは健太郎さんだった。
「魔法生物は多くの場合、月の波動と言うか満ち欠けの影響を強く受ける。特に古代魔法と繋がりがある生物はね」
「百年目の満月が近づくにつれ、この子も何かを感じてるのかもね」
わたしは水槽のドラゴンを見つめた。
――この子、かわいそう……。何か大きな力に引っ張られているような感じなのかもしれないなぁ。
「お守りをドラゴンに近づけてみませんか?」
わたしは感じるままに提案してみた。
「ふむ。もしかしたら、何か反応があるかもしれないね」
村上教授がお守りを持ち、ゆっくりと水槽に近づけた。すると、驚くべきことが起こった。ドラゴンの体が青く光り始め、水槽の水が渦を巻き始めたのだ。
「なっ……」
全員が驚いて後ずさった。しかし、渦は荒々しいものではなく、むしろ調和のとれた美しい動きだった。水は円を描き、光のカーテンのように上昇していく。その中心でドラゴンが浮かび上がり、首を伸ばしてお守りに近づいてきた。お守りも強く光を放ち、二つの光が溶け合うように混ざり合い始めた。
「すごい……」
優斗くんが息を呑んだ。とても神秘的な光景だった。魔法を見慣れているわたしでもそう感じるのだ。滅多に見られる現象ではない。
突然、ドラゴンの頭から光の柱が立ち上り、それは天井を突き抜けて空へと伸びていった。天井の上の様子を見ようと私たちが外に飛び出すと、光はさらに空高く伸び、満月に向かって放たれているのが見える。
「何?何が起きているんですか?」
茜ちゃんの口から戸惑いの声が漏れる。
「おそらく、契約の再認証だ」
村上教授が説明してくれた。
「ドラゴンは古い契約を思い出し、きっと新たな主を求めているんだ」
その言葉に、全員の視線が一斉に優斗くんに向いた。彼は戸惑いながらも、何か感じるものがあるようだった。
「僕が……?」
「君にはその資格があるんだろう?」
健太郎さんが続けた。
「村上教授から聞いたよ。高梨啓介さんの血を引き、同じ『勇気』の徳を持つ者として」
光の柱はしばらく伸び続けた後、徐々に細く弱まり、ついには消えた。ドラゴンは水槽に戻り、そして驚くべきことに、すっかり元気な姿を取り戻していた。鱗は以前より鮮やかに光り、目は生き生きと輝いている。
「すごい、回復した……」
健太郎さんが驚きの声を上げる。
「いや、それだけじゃない。前より力強くなっている」
確かに、ドラゴンからは強い魔力が感じられた。お守りの光は消え、代わりにドラゴンの後頭部の皿が青く輝いていた。
「優斗くん、近づいてみて」
わたしが背中を押すと、彼はゆっくりと水槽に歩み寄った。ドラゴンは彼を見ると、喜ぶかのように鳴き声を上げた。優斗くんが手を差し出すと、ドラゴンは頭をそっと近づけてきた。
「まるで……僕のことを知っているみたいだ」
「知っているのかもしれないね」
村上教授が微笑んだ。
「魔法と血も古代魔法では重要な関係を持つ組み合わせだが、その中でも血の記憶というものがある。特に魔法と結びついた生き物はそれを強く感じ取るみたいだね」
「セイを見ると、なんだか懐かしい感じがするんです。不思議ですけど」
優斗くんの表情には不思議な親しみが浮かんでいた。
「契約を正式に結ぶと良い。高梨啓介から継承して。彼もそうやってドラゴンと契約したのかもしれないよ」
教授は古代魔法の簡単な儀式を説明した。優斗くんがドラゴンと契約を結ぶための方法だ。
「でも、その前によく考えるべきことがある」
教授の表情が真剣になった。
「契約は責任を伴う。ドラゴンの世話をし、守る義務が生じる。魔法生物の世話は簡単なことではない」
優斗くんは少し考え込んだ。確かに高校生の彼にとって、魔法生物の世話は大変かもしれない。でも、彼の目には決意が宿っていた。
「やります」
彼はきっぱりと言い切った。
「僕の曽祖父の意志を継ぎます。それに……」
彼はドラゴンを見つめた。
「セイを守りたい」
みんなの表情が和らいだ。優斗くんの純粋な気持ちが、その場の雰囲気を温かくしたのだ。
儀式は古代魔法としては比較的簡単なものだった。円を描き、水を用意し、古代魔法の言葉を唱える。優斗くんはエリアスさんから教わった成果を発揮し、村上教授に教えてもらった古代魔法語を一生懸命発音した。
「アクア・ドラコニス・フィデリス……」
言葉を唱え終わると、彼の手から淡い青い光が広がり、それがセイを包み込んだ。セイも応えるように光を放ち、二つの光が混ざり合う。それはとても幻想的で美しい光景。その神秘的な様子を見守る私たちの心にも温かいものを思い出させてくれた。
「これで無事に契約が成立した。おめでとう、優斗君」
村上教授が静かに宣言した。
「ありがとうございます」
優斗くんの表情は晴れやかだった。彼はセイを水槽から取り出し、腕に抱いた。ドラゴンは彼の腕の中で心地よさそうに目を閉じた。
「セイが優斗くんと特別な繋がりを持っていたのは、このお守りが結んだ縁のおかげだったんですね」
わたしは啓介さんの名が刻まれたお守りを見つめながら呟いた。
「そうだね」
わたしの呟きを拾った村上教授がゆっくりと一つ頷いた。
「まるで……曾祖父と再会したような気分です。不思議ですけど、セイを見ると懐かしい感じがするんです」
優斗くんの瞳にも感慨深い色が浮かんでいた。
「それで、これから具体的にはどうするんですか?」
茜ちゃんが現実的な質問を投げかけた。
「うーん、しばらくはここで預かるよ。いきなりセイの生活環境を整えるのは無理だろう?でも、どこにいても優斗くんが呼べば応えるだろう。魔法的な契約を結んだんだからね」
健太郎さんの言葉を聞いて、優斗くんが驚いた表情を見せた。
「本当ですか?」
「そうだ」
村上教授が説明を引き継ぐ。
「契約を結んだら、互いを呼び合うことができる。心の中でセイの名前を呼び、魔力を集中させてみるといい」
「セイ……本当に来てくれるかな」
「絆が強ければ、必ず応えるはずだ」
村上教授に太鼓判をもらい、優斗くんはセイを優しく水槽に戻した。セイは最後に彼の手に頭をこすりつけ、そして水中に潜っていった。
「古代の魔法契約は現代のものとは違う。血縁の絆というのは特別なものなのさ」
村上教授は意味深に言った。
「何百年も前から伝わる魔法には、時に科学では説明しきれない不思議な力があるんだよ」
茜ちゃんは科学者らしく、半信半疑の表情を浮かべていた。しかし、目の前で起きている神秘的な出来事は明らかに特別なものだった。
「啓介さんとセイが結んだ契約が、時を超えて優斗くんに受け継がれる……」
わたしは感慨深くなって思わず言葉にした。
「きっと、こういうのを運命って呼ぶんだろうね」
「運命か……。ひょっとしてエリアス先生が言ってた通り、これも魔法的に組み立てられた運命かもしれないですね。でも、僕は信じます。この繋がりを大切にしたいから」
優斗くんはつぶやき、水槽のセイを見つめた。彼の目には決意の色が宿っていた。
帰りのバンの中は最近忘れていたように感じるほど和やかな雰囲気だった。セイと優斗くんに絆がつながり、五つの徳を持つ人たちも集まり始めた。残りはあと一人。
そんな中、拓人さんが気を引き締めるようにつぶやいた。
「影魔法使いたちは満月の夜を狙っているはずだ。早く最後の一人を見つけて、店長の言う通り、天文台での儀式を阻止しなくちゃな」
「はい!」
優斗くんが決意をその瞳に込めて言った。
そう、満月まであと十日。その日までに、私たちはさらに力をつけ、準備を整える必要がある。そして、『五つの徳』を結集させ、魔法界と人間界の平和を守らなければならない。
窓の外には、少しずつ大きくなっていく月が見えた。その光が、未来への希望を照らしているように感じた。