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第32話 決戦の時

 ついに満月の日が訪れた。

 今日は朝から空気が違っていた。風は静かだが、どこか張り詰めたものを感じる。わたしは事務所の窓から街を見下ろし、深呼吸した。今日という日のために、わたしたちは準備してきた。


「さて、今日はいよいよだな」


 拓人さんが朝のルーティーンになっているコーヒーを入れながら静かに言った。彼の声には緊張感が漂っていた。


「うん……」


 わたしはシンプルに返す。普段なら軽口を叩くところだけど、今日は違う。全身に力が入り、心臓のドキドキが少し早くなっているのを感じる。

 事務所の奥では優斗くんと茜ちゃんがエリアス先生から最後の指導を受けていた。エリアス先生はあの後重要ポイントの見回りをして、必要なアイテムの補充をし、早朝に事務所に戻ってきたらしい。昨夜と同じ格好をしている。誰一人、昨夜はよく眠れなかったようで、目の下のクマがその証拠だ。


「千秋、お前の担当は神社じゃったな?」


 店長が静かに話しかけてきた。彼は棚の上で体を丸め、普段より深刻な面持ちで私たちを見下ろしている。


「そう。わたしは神社担当」


 わたしは頷いた。神社、古井戸、廃校、展望台、図書館地下室。境界の五つのポイントには、それぞれ私たちが立つ。


「魔法陣の準備はすべて完了している。あとは満月の光を受け、儀式を行うだけだ」


 エリアス先生が茜ちゃんに何かを説明し終えて、こちらに近づいてきた。彼の長い銀髪は朝の光を受けて輝いていた。


「今一度、全員で作戦を確認しよう」


 拓人さんが言った。みんな作戦は頭に入っているはずだが、何かをしていないと緊張に押しつぶされそうなのだ。そんな雰囲気を察した頼もしいリーダーシップに、わたしは少し安心する。

 地図が広げられ、五つの境界ポイントが示された。街の地図に書いた五芒星のような配置だ。


「午後9時、満月が昇ると同時に各ポイントで儀式を開始する」


 拓人さんの後を引き継ぎ、エリアス先生が静かに言った。


「千秋君は神社、拓人君は古井戸、茜君は廃校、優斗君は展望台、葉月君は図書館地下室。それぞれのポイントで、『徳』の力を引き出し、境界を安定させる」

「各々、儀式が成功すれば、五つの徳が結晶化する」


 次に店長が続けた。


「その結晶が、天文台での戦いの鍵となる」

「天文台では、わたしとユーリオスが影魔法使いたちの儀式を阻止する」


 エリアス先生が言った。ユーリオスとは店長の本名だ。彼は今夜、人間の姿に戻るという。


「葉月さん、きちんと儀式の流れは覚えられた?」


 わたしは葉月さんに優しく声をかけた。彼女は五人の中で最も修行期間が短い。だけど、「愛」の徳を持つ彼女の力は、今夜の儀式に欠かせないものだ。


「はい……」


 葉月さんは少し緊張した様子だけど、決意に満ちた目で頷いた。


「古代魔法語の詠唱、結界の展開、そして『徳』の結晶化。何度も練習しました」

「その徳の結晶がどんな形になるのか……ちょっと興味があります」


 茜ちゃんが科学者らしい好奇心を見せた。彼女の「誠実」の徳は、真実を追究する姿勢そのものだ。


「葉月君にもさっき渡したが、以前皆に配った緊急連絡用のこのペンダント……」


 エリアス先生が小さな水晶のペンダントを見せた。


「儀式が成功したら、このペンダントに念じて儀式終了をみんなに知らせるんだ。儀式が終わったら、生じた『徳』の結晶を取り、最も近い天文台へ向かう者に渡せ」

「分かりました」


 優斗くんが頷いた。彼の「勇気」の徳は、最初から最も明確に見えていたものだった。河童ドラゴンとの契約もあり、守護魔法も上達している。彼の成長は目覚ましい。


「それと、この護符を」


 エリアス先生は全員に小さな紙の護符を配った。古代魔法の符号が描かれている。


「これは防御のための護符だ。影魔法使い側の稼働人員の余裕にもよるが、儀式を邪魔される可能性もある。危険を感じたら躊躇わず使うように」

「ありがとうございます」


 拓人さんは護符を大事そうに内ポケットにしまった。彼の「献身」の徳は、妹を思う気持ちから生まれたものだ。魔法使いではないが、その意志の強さは誰にも負けない。

 時間はゆっくりと過ぎていった。各自が持ち物を確認し、呼吸を整え魔力を整える。わたしは自分の「知恵」の徳について考えていた。ポンコツと言われるわたしが、なぜ「知恵」なのか。最初は信じられなかったけれど、エリアス先生によれば、知恵とは単なる知識ではなく、物事の本質を見抜く力なのだという。


――つまり、直観力ということ?それなら納得できなくもないなぁ。


 たまに、誰かに「こちらを選べ」と背中を押される感覚がするときがあるのだ。そういう時の直感は今までに外れたことは無い。




 午後になると、空気がさらに張り詰めてきた。太陽が西に傾き始め、やがて夕暮れが街を赤く染める。時計の針は容赦なく進んでいく。


「もうすぐだな。店長によると、ここ最近活性化していた影魔法使いたちの活動が、今日は急に見られなくなったらしい。奴らも力を蓄えているのか、準備万端になるように裏で用意しているのか……」


 拓人さんが夕焼けを見つめながら言った。彼の横顔には覚悟の色が浮かんでいた。


「うん……」


 わたしの声も真剣さに満ちていた。今、冗談を言える場面ではない。


「さて、みんな」


 エリアス先生が立ち上がった。外は暗くなり始めていた。


「出発の時間だ。それぞれの持ち場に向かおう」


 全員が静かに頷いた。


「店長……いえ、ユーリオスさん。人間の姿はいつ見られるんですか?」


 優斗くんが好奇心を抑えきれずに尋ねた。


「さあ、どうじゃろうな」


 店長はいつもの不機嫌そうな声で答えた。


「天文台で会うことがあれば、見られるかもしれんぞ」

「ぜひ見てみたいです」


 優斗くんの目が少し輝いた。この緊張した空気の中でも、彼の好奇心は場違いなほど健在だ。その好奇心がみんなの緊張をほぐす。


「さて、時間だ。行くぞ。俺がみんなを各ポイントまでバンで送る。みんな乗り込め」


 拓人さんがそう宣言した。みんなでバンに乗り込み、まず最初に茜ちゃんを廃校へ送り届ける。薄暗くなった校庭で、彼女は私たちに手を振った。


「気をつけて、茜ちゃん」


 わたしは心から彼女を気遣う。


「千秋さんもね」


 茜ちゃんの声には珍しく感情が滲んでいた。

 次に葉月ちゃんを図書館へ。普段は閉まっている地下室への鍵はエリアス先生が用意してくれていた。


「大丈夫、わたしならできる。きっとできる。大丈夫です!」


 大丈夫と繰り返す彼女は、まるで自分に言い聞かせているようだった。


「うん、みんな信じてるよ、葉月ちゃん」


 わたしは彼女の肩を軽く叩いて激励した。


「優斗くん、展望台に着いたら、まず周囲をよく確認してね。魔法のワナが無いかとかもちゃんと確認するんだよ」

「分かってます。それに、もし危険が迫ってきても……」


 彼は懐から小さなペンダントを取り出した。河童ドラゴンを呼ぶための契約のペンダントだ。


「セイを呼べばきっと大丈夫です」

「そうだね。頼りにしてるよ!男の子!」


 展望台で優斗くんが降りた後、残るは拓人さんの古井戸と、わたしの神社だけになった。


「千秋」


 拓人さんが運転しながら静かに言った。


「何?」

「無茶するなよ」


 いつもなら反論するところだけど、今日は素直に頷いた。


「うん、拓人さんも……ね?」


 古井戸で拓人さんが降り、運転手を交代した。最初は震えていた手も、この頃には落ち着いて冷静に判断を下せるまでになっていた。最後にわたしは神社へ向かった。バンを降りる前、最後にエリアス先生と目が合った。


「あとは頼んだぞ、千秋君」

「はい、エリアス先生」


 神社の階段を上るわたしの背後で、バンが去っていく音がした。交代した運転手のエリアス先生と店長は天文台へ向かう。


――エリアス先生って、運転免許持ってたんだ。意外……


 思わずそんなことを考えているうちに、満月が昇る時間が迫ってきた。

 静かな神社には誰もいなかった。春の夜風が桜の枝を揺らし、わたしの髪を撫でていく。大きな鳥居をくぐり、ゆっくりと境内に足を踏み入れた。

 魔法陣を描いた場所は本殿の裏手にある大木の前。以前、ここに安定化の魔法陣を描いた時のことを思い出す。あの時は何も知らなかった。百年目の満月のこと、『五つの徳』のこと、わたしたちの使命のこと……。

 懐中時計を取り出し、時間を確認する。8時45分。あと15分で満月が昇り、儀式が始まる。

 神社の静けさの中、わたしはゆっくりと深呼吸した。東の空に目を向けると、地平線の向こうからほのかな光が見え始めていた。まもなく満月が昇る。百年目の、特別な満月が。




 わたしは魔法陣の中央に立ち、両手を広げた。風が強くなり、木々がざわめく。長い髪が風に舞い上がる。今、わたしは一人じゃない。優斗くん、茜ちゃん、拓人さん、葉月さん。同じ時、同じ思いで、彼らも儀式の準備をしているはずだ。

 そして東の空に、大きな満月が姿を現し始めた。いつもより大きく、明るく輝く月。百年目の満月。魔法界と人間界の境界が最も薄くなる、特別な夜。

 わたしは目を閉じ、エリアス先生に叩き込まれた古代魔法語の言葉を唱え始めた。


「サピエンティア・ルクス・イン・テネブリス……」


 古代魔法語を完全に理解できたわけではないが、教えられたとおりに唱えると魔法陣が淡く光り始める。足元から湧き上がってくる魔力を感じる。それは地球の奥底から呼び起こされるような、古く強い力だ。儀式が上手くいっている手ごたえを感じ、思わず口角が上がる。


「知恵よ、闇を照らす光となれ……」


 わたしの体から青い光が広がり始めた。魔法陣はさらに明るく輝き、複雑な模様が浮かび上がる。神社全体が魔力に包まれ、空気が振動しているのを感じる。

 その時、後ろから物音がした。誰かいる。しかし、ここまで来て中断はできない。わたしは振り返らず、急いで儀式を続けた。集中を途切れさせるわけにはいかない。


「フレクト・ネ・フランガー……」


 青い光はさらに強くなり、わたしの周りに光の壁を形成し始めた。それは境界の安定化を象徴している。この神社の場所で、魔法界と人間界の境界が強化されていくのを感じる。

 再び物音。そして低いつぶやき声。まちがいない、影魔法使いたちだ。わたしは心の中で警戒しながらも、儀式に集中し続けた。


「知恵の徳よ、形となれ……」


 わたしの胸の前に、何かが形作られ始めた。小さな光の塊が徐々に形を取り、固体化していく。それは紫に輝く水晶のような物体。「知恵」の徳が結晶化したものだ。

 その瞬間、黒い霧のような形が魔法陣の外側から迫ってきた。影魔法使いだ。


「クゥ……小娘めが……」


 低く歪んだ声がわたしの周りに響いた。


「我らの邪魔をするな!」


 言葉と同時に黒い触手のような影がわたしに向かって伸びてきた。だが、魔法陣の光の壁に触れると、影は弾かれ後退した。


「守護の儀式はもう始まっている。今さらあなたには止められないよ」


 わたしは冷静に影魔法使いに言った。今のところ敵は一体のみ。心臓は早鼓動を打っているけれど、恐怖を見せるわけにはいかない。


「なら、お前もろとも消してやる!」


 影魔法使いは大きな力を溜め始めた。その黒い塊はどんどん膨らみ、強大な闇の魔力を放っている。この結界を破ろうとしているのだ。

 わたしはエリアス先生から渡された護符を取り出し、高く掲げた。


「ルクス・プロテゴ!」


 護符が光を放ち、さらに強力な防御の壁が形成された。二重に防御壁が形成されている状態だ。しかし、影魔法使いの攻撃は一時的に止められたが、外側の守護壁にひびが入り始めている。護符の守りが破られるのは時間の問題だ。


「くっ……」


 店長が人間化したのか、わたしは想定以上の急激な魔力の消失によるめまいに堪えながら、胸の前に浮かぶ青い結晶に手を伸ばした。もう儀式は完了している。あとはこの結晶を無事にエリアス先生たちに届けなければ。エリアス先生にもらったペンダントに念じながら素早く魔力の回復薬を取り出し、一気飲みする。


――守護壁が生きてる今のうちに回復を!


「そうはさせん!」


 影魔法使いの声が響き、より強い二度目の攻撃が防御壁に打ち付けられた。ひびが広がる。もう限界だ。

 その時、空から鈴の音のような澄んだ響きが聞こえてきた。見上げると、小さな光の粒子が降り注いでいる。それはまるで星の砂のよう。


「これは……」


 他の境界ポイントからの反応。他の四人も儀式を成功させ、徳の結晶が共鳴し始めているのだ。


「まだだ!」


 影魔法使いが最後の力を振り絞って攻撃してきた。外側の護符による防御壁が砕け散り、衝撃でわたしは後ろに吹き飛ばされた。だが、儀式で出現した内側の防御壁内に何とか踏み留まり、素早く体勢を立て直す。これで護符のおかげもあり、わたしも何とか儀式は終了させることができた。手には結晶をしっかりと握りしめている。

 防御壁の端に追い詰められたわたしに、影魔法使いが近づいてくる。その姿は人の形をしているようで、でも顔は黒い霧に覆われている。


「その結晶を渡せ」

「渡すわけないでしょう」


 わたしは痛む体で身構えた。


「ならば……」

「力づくなんでしょ!」


 影が手を上げた瞬間、空から巨大な水柱が降り注いだ。影魔法使いは不意を突かれて後退した。水柱の中から現れたのは……、


「セイ!」


 青緑色の河童ドラゴンが空中を舞っていた。そして次の瞬間、優斗くんが息を切らせて走ってきた。神社の階段を全力疾走してきたようだ。


「千秋さん!大丈夫ですか?」

「優斗くん……!なぜここに?」

「結晶が共鳴して、千秋さんが危険だって感じたんです」


 彼は手に青く光る結晶を持っていた。「勇気」の徳の結晶だ。


「わたしも何とか無事。この通り徳の結晶もできたけど、厄介なのが現れてね」


 わたしは手の中の紫の結晶を見せた。


「絶対に渡すもんか!」


 影魔法使いが再び襲いかかってきたが、優斗くんは素早く手を広げ、青い光の盾を形成した。守護魔法だ。


「千秋さん、エリアス先生たちのところへ急いで!僕がここを守ります!僕の結晶も持って行って!」

「でも……」

「大丈夫です。セイもいるし」


 河童ドラゴンがわたしたちの頭上で鳴き、水の魔法を影魔法使いに向けて放った。


「わかった。気をつけて!」


 わたしは青い結晶を受け取り、自分の紫の結晶も握りしめると、神社の階段を駆け下りる。急いで天文台へ向かわなければ。エリアス先生と店長が待っている。「知恵」の徳の結晶が手の中で温かく脈打っている。その鼓動は、他の四つの徳の結晶と共鳴しているかのようだった。

 先ほどの星の砂のような光は、天文台の方向へと流れていっている。それを目印に走る。空には満月が高く昇り、街全体を銀色に染め上げていた。

 百年目の満月の夜。決戦の時が来た。


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