祖父が亡くなった日、空は信じられないほど青かった。十歳のわたしには、大切な人が世界からいなくなるような日には、雨が降るべきだと思えた。でも自然はそんな人間の感情なんてお構いなしで、五月の陽光は温かく、桜の花びらは風に舞い、なぜか祝福しているかのように不思議に感じた気候だった。
「千秋ちゃん、お祖父ちゃんのところにご挨拶に行きましょうね」
お母さんの声は優しかったけれど、どこか硬質で、わたしには触れられない何かが漂っていた。お母さんも魔法使いであったが、祖父のような強い力は持っていなかった。わたしの中に流れる魔力は、祖父譲りの強さを持っていると言われていた。
白い祭壇の棺桶に横たわるお祖父ちゃんは、まるで眠っているかのようだった。大きな手でわたしの頭を撫でる感触、不思議な魔法の本を見せてくれた日々、星の名前を教えてくれた夜。そのすべてが、今は静かに横たわる姿の中に閉じ込められていた。
「魔法使いの中にはすごく長生きする人もいるのに、どうしてお祖父ちゃんは生きられなかったの?」
わたしは行き場のない悲しみと共にお父さんに疑問をぶつけてみた。すると、お父さんは優しげな眼で丁寧に教えてくれた。
「例外はあるけど、長生きするのは、ほとんどの場合古代魔法の治癒魔法をマスターした魔法使いばかりなんだよ。治癒魔法の力が作用して、体の中のある部分を守って、歳を取りにくくしてくれるって言われてるんだ。テロメアって言う部分だけど、千秋にはまだ難しいよ」
「じゃあ、みんなで治癒魔法を覚えればいいじゃない」
「治癒魔法は修得が難しいんだよ。多くとも、50人魔法使いがいても1~2人くらいしかまともに修得できないと言われているんだ。センスや遺伝も関係してくるしね」
――お祖父ちゃんは治癒魔法は使えなかった。だから長くは生きられなかったんだ。
感情はまだ追いつかないが、ある日突然人の命が失われるという理不尽さを無理やり呑み込んだわたしは、小さな手に魔力を集中させた。お祖父ちゃんに見せたかった、新しく覚えた魔法。小さな光の玉が指先から浮かび上がり、ゆっくりと空中に舞い上がる。それはまるで魂のように、ふわりと祭壇の上で揺れた。
「千秋!」
お母さんの声が厳しく響いた。魔法を使ってはいけない場所だということを、薄々感じていた。でも、これが最後のお別れだから……。
「いいよ、春美」
わたしのお父さんがお母さんの肩に手を置いた。
「お祖父さんはきっと喜んでるさ。な?千秋」
お父さんもまた魔法使いで、特に防御魔法と転移魔法に長けていた。彼は温厚な性格で、「魔法は人を助けるためにある」と、いつも教えてくれた。
――そういえば、お祖父ちゃんも似たことをいつも言ってたっけ。魔法を使って困ってる人を助けられるようになれって……。
光の玉はお祖父ちゃんの胸元でゆっくりと消えていった。最後の光が消える瞬間、わたしは小さな声で囁いた。
「また会えるよね、お祖父ちゃん」
その日から、わたしの魔法修行は本格的に始まった。お祖父ちゃんの遺志を継ぐために、青山澄子という厳しい師匠の下で。
◆◇◆
「日比野千秋、集中しなさい!」
青山澄子先生の声は、いつも教室中に響き渡る。十二歳になったわたしは、翠風学園という学校の初等魔法科の基礎クラスで学んでいた。お祖父ちゃんも両親も学んだというこの特別な場所で、わたしはお祖父ちゃんが残してくれた魔法の本を片手に、必死で勉強していた。
「はい、先生!」
わたしは慌てて背筋を伸ばした。目の前の水晶球に意識を集中する。水晶球占いは、わたしの最も苦手な科目だった。未来を見通す繊細な魔法より、物を動かしたり、光を生み出したりする直接的な魔法の方が得意だったから。
「あなたは考えすぎるのよ、千秋さん」
授業の後、青山先生がわたしを呼び止めた。長い銀色の髪と鋭い眼光を持つ彼女は、日本最高の魔法使いの一人と言われていた。
「頭で考えるよりも、心で感じることが大切なの。あなたのお祖父様もそうだったわ」
「お祖父ちゃんを知ってたんですか?」
「ええ、彼は素晴らしい魔法使いだった。特に『知恵』の系統の魔法においてね」
青山先生の言葉に、わたしは目を輝かせた。お祖父ちゃんのことを知っている人と話せるのは嬉しかった。
「でも、彼は常に心を開いていた。頭だけでなく、心も使っていたのよ」
先生の言葉は、わたしにとって新しい発見だった。頭ではなく、心で感じる……。
その日から、わたしは魔法を違う角度から見るようになった。机の上の教科書だけでなく、実際の世界で魔法がどう使われているのかを観察するようになった。一般の人には気付かれることのない魔法を観察し続け、そして気づいたのは、魔法は人々をつなぐものだということ。時には距離を超え、時には理解を超え、人と人との間に橋を架ける力があるということを。
◆◇◆
「千秋、遅刻するわよ!」
十五歳のわたしは、お母さんの声に飛び起きた。今日は特別な日――魔法界と人間界の「境界学」の実地研修の日だった。家族旅行を兼ねて、お父さんとお母さんも一緒に来てくれることになっていた。
「もう、千秋ったら。いつも時間に余裕を持たないんだから」
お母さんは呆れたように言ったが、その目は優しかった。魔力を込めてエンチャントした特製のリュックを手渡しながら、お母さんは微笑んだ。
「わたしが作ったのよ。中は外側よりずっと広いから、魔法の道具をたくさん入れられるわよ」
お母さんの細やかな魔法の技術は、日常の中で輝いていた。華やかさはなくても、実用的で温かい魔法。わたしはいつもそんなお母さんの魔法が好きだった。
ある古都の古い神社への旅は、魔法と歴史が交わる貴重な経験となった。お父さんは魔力探知の魔法を使い、お母さんは結界の調整を手伝いながら、わたしの魔法実習を温かく見守ってくれた。
「ほら、千秋。ここの鳥居は特別なんだ。何か感じるかい?」
お父さんの問いかけに、わたしは目を閉じて感じてみた。鳥居の周りには確かに何かがあった。薄い膜のような、でもそれ以上の何か。
「境界……」
わたしは思わず呟いた。目を開けると、お父さんが誇らしげに微笑んでいた。
「そうだよ。この神社は魔法界と人間界の境界が最も薄い場所の一つなんだ。お祖父さんも昔、ここで大切な発見をしたんだよ」
「お義父様は境界研究の先駆者だったものね」
お母さんの声には、敬意と温かさが混ざっていた。
「わたしたち日比野家は代々、境界の守り手なんだ」
お父さんの言葉に、わたしはより一層の誇りを感じた。これこそが自分の受け継いだ使命なのだと。
◆◇◆
十七歳の冬、わたしは初めて本格的な魔法の失敗を経験した。
「転移魔法」の実習中、集中力を欠いたわたしは、転移先を誤ってしまった。目指したのは校庭の一角だったのに、気がつけば学校から五キロも離れた森の中。冬の厳しい寒さの中、わたしはしばらく途方に暮れていた。
「このポンコツめ」
その声に振り向くと、黒猫が木の枝に座っていた。その黄色い目はわたしを見透かすようだった。人間の言葉を話す黒猫にやや驚きつつ、わたしは尋ねる。
「あなたは……?」
「店長と呼んでおけばいい。いつもはお前の父の勤め先にいるから知らんじゃろうが、お前の父の使い魔じゃ。お前の父に頼まれて様子を見に来ていたところじゃ」
――お父さんの使い魔?それがどうしてこんなところに?
わたしは驚いた。使い魔と呼ばれる存在がいる事は知っていたが、こんなに身近な所にいるとは思わなかった。言われてみれば、確かに家の近所で時々見かける黒猫のようだ。でも、なぜ?まるでお父さんにはこうなる事が前もって分かっていたようではないか。
「助けに来たと言いたいところだが、お前のような考えなしには丁度いい教訓だ。自力で帰る方法を考えてみろ」
青山先生に考えすぎだと言われてから心で感じることに重きを置きすぎたわたしは、どうやら今度は考えるよりも直感で動くようになり過ぎていたらしい。店長と名乗る黒猫に散々「考えなし」と言われつつ、寒さで震えながらもわたしは必死で考えた。転移魔法は使えない。魔力が足りないし、正確な位置も分からないから。
「仕方ない。一つ、ヒントをやろう。呼ぶんじゃ」
「呼ぶ?」
「心の中で、助けを求めるんじゃ。家族を思い浮かべて」
わたしは目を閉じ、お父さん、お母さん、そしてお祖父ちゃんの顔を思い浮かべた。そして気付くと、胸のペンダントが温かくなっていた。お祖父ちゃんの形見のそれは、突然光り始めた。
「それは『呼び声の魔法』だな。お前の父がそのペンダントに仕込んでおいたようだ」
光は強くなり、やがて青山先生が目の前に現れた。
「千秋さん、無事で良かった」
先生の声は厳しさの中にも安堵があった。
「先生が……わたしを探してくれたんですか?」
「あなたのお父様からの連絡で。彼はあなたの魔力が急に離れた場所で発動したのを感じたそうよ」
わたしは驚いて、ペンダントを見つめた。
――『呼び声の魔法』はそんなに距離があっても存在を伝えてくれるのか。お父さんは静かに、でも確かにわたしを見守ってくれていたんだ。
「家族の絆は、魔法の源になることもあるのよ」
青山先生の言葉は、長く心に残った。
◆◇◆
十八歳の春、わたしは人間界の大学に進学することになった。実家を離れ、初めての一人暮らし。魔法や心理学を学ぶためにアパートを借りた日、なんだか特別な予感がしていた。
「ここから始まるのね、わたしの新しい冒険」
小さなワンルームのアパートは、魔法使いとして成長するわたしの隠れ家となった。お父さんが魔法でちょっと手を加えてくれたおかげで、見た目以上の広さと快適さがある。
「気に入ったかい?」
部屋の魔法的な調整を終えたお父さんが尋ねた。
「うん、完璧!これからここがわたしの拠点だね」
「人間界の大学で学びながら、魔法の勉強も続けるのは大変だけど、千秋ならきっとやれる」
お父さんの励ましの言葉に、わたしは強く頷いた。
大学では心理学を専攻しながら、この小さなアパートで魔法の研修も続けた。二つの世界の橋渡しをするという夢が、少しずつ形になっていく時期だった。
「千秋、またノートを忘れたの?」
大学の同級生、梨奈ちゃんがクスクス笑いながら言った。
「あは、ごめん。昨日徹夜で魔法の……じゃなくて、特別な研究してて」
わたしは慌てて言い直した。人間界では、魔法の存在は極力秘密にしなければならない。
「でも、あなたのその抜けてるところ、わたしは好きだよ」
梨奈ちゃんは笑いながらノートを貸してくれた。この世界での友人関係も、わたしには大切な絆だった。
卒業間近、わたしは大きな決断をした。魔法評議会が推薦する魔法専門の研究機関ではなく、魔法界と人間界をつなぐ仕事に就くことを。
「本当にそれでいいの?」
青山先生は心配そうに尋ねた。
「はい。わたし、両方の世界が好きなんです。どちらかを選ぶのではなく、つなげたいんです」
先生は長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「やっぱりあなたも日比野家の一族ね。あなたのお祖父様も、きっと喜んでいるわ」
◆◇◆
二十歳の秋、お父さんが突然重い病に倒れた。ステージⅡの膵臓癌だった。魔法使いも万能ではなく、傷や炎症なら治癒魔法で何とかなっても、がんには人間界の標準治療が必要だった。ステージⅡは幸いにも早期がんらしく、お父さんのケースでは手術可能だそうだ。入院して手術を終え、抗がん剤治療中のお父さんが、わたしを病室に呼んだ。
「お母さんとも話し合った。千秋、お前に託したいものがある」
お父さんが弱々しい声で言った。
「マジカルエクスプレス便……わたしの仕事と、店長を」
ベッドの脇には本来病室にはいるはずのない黒猫がいた。そう、あの時助けてくれた、「店長」と呼ばれている黒猫が。彼の黄色い目は、皮肉っぽさの中にも深い悲しみを湛えていた。
「お父さん……」
「大丈夫、再発の危険はあるけど手術は成功したとお医者さんが言ってたじゃないか。きっと死にはしないよ」
たくさんの管や線に繋がれたお父さんは弱々しく微笑んだ。
「でも、この体じゃ仕事に復帰するのは難しい。お母さんもいろいろとやることが増えて忙しくなるだろう。お前なら、きっとうまくやれる。魔法界と人間界をつなぐ、大切な仕事だ」
わたしはお父さんが生きていてくれた喜びと、もう満足に働けない体になってっしまった悲しみと、ぐちゃぐちゃになった心の向くまま涙ながらに頷いた。
「店長との使い魔契約も、今日結び直そう。彼はお前を助けてくれる……時には厳しいかもしれないが、信頼できる相棒だ。千秋が魔法使いの資格を取るまではマジカルエクスプレス便も一時休業だな……」
早急に魔法使いの資格を取る必要に駆られたわたしは、青山先生に相談して魔法大学の卒業と同等の資格を得ることができる「魔法使い資格試験受験資格認定試験」を受けた。普通は人間界の高校や大学を卒業した後に魔法大学を卒業して魔法使い資格試験を受験するのだが、これは魔法使いの家系の子女が急いで家業を継いだり、わたしのように人間界の大学に通いながら魔法大学の卒業資格を目指す者のためにある大検のような試験だ。
青山先生と店長の厳しい指導のおかげで、わたしは何とかこの試験をクリアしたが、肝心の魔法使い資格試験には2回落ちた。実技もある魔法使い資格試験は受験者が集中しすぎないように、1年のうち春と秋に2回行われる。一部の実技に苦労したわたしは、3回目の受験でようやく春をつかんだ。
そうして、わたしと店長の新しい旅が始まった。彼は店長として、わたしは魔法使いとして、マジカルエクスプレス便を引き継いだのだ。
◆◇◆
二十二歳の春、わたしは魔法の宅配業者として、日々の仕事に奮闘していた。拓人さんとの出会いは、最初こそぎこちなかったが、彼の魔法への不信感の裏に隠された事情を少しずつ知るにつれ、お互いの距離は縮まっていった。そして今もなお、大学生になる時にお父さんに魔法で拡張してもらった思い出深いアパートで過ごしているわたしの生活は、魔法と現実の間を行き来する毎日だ。
「魔法なんて、人を幸せにするもんか」
拓人さんがぽつりと言った日、拓人さんと魔法の有用性について口喧嘩気味になりつつも、わたしは初めて彼の妹のことを知らされた。魔法事故で失踪した美咲ちゃん。彼女を探すため、拓人さんは魔法に関わる仕事を選んだのだと。
「必ず見つけようね、拓人さんの大切な人」
そのとき、心からそう思った。かつて「家族の絆は、魔法の源になることもある」と教えてくれた青山先生の姿が頭をよぎる。魔法は人を傷つけることもあるけれど、人をつなぐこともできる。わたしが信じる魔法の力を、彼にも感じてほしかった。
そして今、二十四歳になったわたしの前には新たな冒険が待っていた。拓人さんの妹・美咲ちゃんを救い出すという使命。それは単なる仕事ではなく、「家族の絆」という、わたしが代々受け継いできた日比野家の使命にも通じるものだった。
――お祖父ちゃん、お父さん、お母さん、見ていてね。わたし、頑張るから。
わたしの目標に新たな決意が追加された日、ふと夜空を見上げたとき、一瞬だけ流れ星が光ったような気がした。それはきっと、わたしの旅路を見守る家族からのメッセージ。心の中で、わたしはそう思った。
大学時代から変わらぬこのアパートで、わたしは今日も空を見上げる。人間界と魔法界をつなぐ小さな橋を、一歩ずつ形作っていく。それが日比野千秋という魔法使いの、家族から受け継いだ誇り高き使命だった。