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第36話 日常の配達

「さーて、今日の最終配達は……『夢色にじみ出る万年筆』だね。これを博物館の村上教授に届けるよ」


 わたしは配達リストを指でなぞりながら確認した。事務所の窓から差し込む夕日が、手の中の古ぼけた万年筆を赤く染めている。黄昏時の光が微かに魔力を帯びた品物を照らすと、何とも言えない幻想的な雰囲気が生まれるものだ。この万年筆は一見普通の古い文房具に見えるが、持ち主の夢を内側に閉じ込め、インクとともにじわりと紙ににじみ出させる特殊な魔法が施されている。


「これって、妙に魔力が強いね。ちょっと確かめてみよっと……」


 わたしは好奇心に駆られて、万年筆に小さな魔法をかけてみた。「マジックレベラーレ」と小さく呟くと、万年筆の中に秘められた魔力を可視化する魔法が発動するはず……だった。

 しかし突然、万年筆から青い煙が噴き出し、事務所中に広がり始めた。


「うわっ。ちょ、ちょっと待って!止まって!」


 慌てても時すでに遅し。煙は瞬く間に天井まで届き、奇妙な形の文字に変わって浮かび上がった。


「またやったな、このポンコツ」


 拓人さんが深いため息をついて、窓を全開にした。彼の表情には呆れと諦めが混ざっていたが、同時に慣れた手つきで対処している。


「ごめん、ごめん!でも、知らない魔法効果が気になっちゃって……」

「ホントに考えなしだな。万年筆の確認は、送り主に聞いてからにしろって言っただろう」


 拓人さんは冷静に窓を開け、事務所の換気をしながら言った。彼の声には厳しさがあったが、どこか優しさも滲んでいる。わたし達のこういったやり取りは、もはや日常だった。


「これに書き留められた夢は、読む人の心に鮮明なイメージを思い起こさせるの。詩人や作家に愛されてきた逸品なんだって」


 わたしは煙を払いながら、品物の説明を自分自身に言い聞かせるように呟いた。古代魔法を研究している村上教授なら、きっとこの魔法の万年筆の良い使い方を考えてくれるはず。


「そのまま配達すれば良かっただけなんじゃないのか……?」


 拓人さんが小さく首を振った。窓際に立つ彼の横顔を、夕陽が鮮やかに照らしている。シャツの第一ボタンを外した姿は少し疲れているようにも見える。いつもクールな表情をしているが、今日はどこか違う。眉間にうっすらとしわが寄り、思い詰めたような表情を浮かべていた。


「また村上先生?最近、よく注文が来るな」


 拓人さんがハンドルを握りながら言った。一般の宅配便と違って、マジカルエクスプレス便では頻繁に魔法界へ行けない人から注文を受けて、代理購入して配達するというサービスも行っている。といっても、魔法界に行くわけではなく、魔法界側の仲介業者に注文を投げるだけだけど。人間界で言う、個人輸入代行サービスのようなものだ。


「そうなの。古代魔法の研究用らしいけど……」


 わたしは言葉を切って、拓人さんの様子を観察した。いつもなら「何か変なものを届けて問題が起きないようにしろよ」とか「またポンコツが暴走するなよ」などと軽口を叩いてくるはずだが、今日はそれがない。


「まあ、ちゃんと届けばいいさ」


 彼はそっけなく言って、視線を道路から逸らさなかった。拓人さんはここ最近、どこかそわそわしていた。特にここ一週間は不機嫌なことが多く、夜遅くまで何かを調べていることもあった。事務所の灯りが消えずに残っているのを何度か見かけたことがある。

 信号待ちで停車したとき、彼がいつも持っている手帳を取り出して何かを確認し始めた。


「あれ?拓人さん、どうしたの?何か考え事?」


 わたしが何気なく声をかけると、彼は咄嗟に手帳を閉じて胸ポケットに収めてしまった。一瞬だけ見えたそれは、子供の写真のようだった。


「ああ……なんでもない」


 彼は素早く答えたけれど、視線は道路から逸らさなかった。微かに眉間にしわが寄っているのが見える。拓人さんのこういう表情は、何か心に引っかかることがある時だけだ。普段はクールでぶっきらぼうでも、根は心配性で真面目な人なのだ。


――なにか嫌なことでもあったのかな?それとも体調が悪いのかしら?


「拓人さん、大丈夫?」


 心配になって声をかけると、彼は少し体を硬くした。


「ああ……なんでもない」


 それ以上は聞かないことにして、わたしは窓の外の景色に目を向けた。夕暮れ時の街は柔らかなオレンジ色に染まり、行き交う人々の影が長く伸びている。商店街のショーウィンドウには初夏の装いが並び、カフェのテラス席には若いカップルが座っていた。




 配達中のバンは春の終わりから初夏へと移り変わる街の中を走っていた。街路樹の緑は濃くなり、行き交う人々の服装も徐々に薄着になっている。河童ドラゴンとの出会いから約一ヶ月、マジカルエクスプレス便の業務はおかげさまで順調だ。

 包装紙を整え直し、万年筆をきちんと梱包し直していると、拓人さんがポケットから再び写真を取り出した。何かを決意したかのような表情で彼がそれを見つめる様子には、深い痛みと懐かしさが混ざっていた。


「美咲が消えた日も、こんな夕暮れだったな……」


 思いがけない言葉に、わたしは手を止めた。美咲──それは彼の妹の名前。約10年前に魔法事故に巻き込まれて失踪してしまった妹のことを、彼が自分から話すことは珍しかった。何を決意したかと思えば、わたしに美咲ちゃんの写真を見せる決意だったようで、手帳を開いて写真を見せてくれた。

 写真に映っているのは、黒髪を二つに結った笑顔の少女。大きな瞳と明るい笑顔が印象的だ。


「そうだったんだ……」


 わたしは静かに言った。彼の傷に触れるのは避けながらも、話を聞く姿勢を示した。


「ああ。あの日も空がこんな色で……」


 彼は言いかけてから、ハッとしたように表情を引き締めた。感情を見せることを自分に許さないかのように。


「……おい、その万年筆、ちゃんと封印してるのか?」


 無理やり話題を変えるように彼が尋ねてきた。魔法を嫌う彼だが、魔法の危険性については誰よりも敏感だ。彼が「これは危ない」と言ったものは、たいてい何かのトラブルを起こす。


「もちろん!二重に封印してあるから大丈夫。もう変な煙は出ないよ」


 わたしは自信たっぷりに答えたが、彼の目は半信半疑だった。


「本当に?前回の『噴煙の笛』の時も同じこと言っていたぞ」

「あれは……例外!今回は絶対大丈夫だから!」


 わたしは赤面しながら抗議した。確かに前回の配達では、魔法の笛から突然煙が噴き出して、バンの中を真っ黒にしてしまうという失態を犯したばかりだ。わたしも拓人さんも真っ黒になってしまった。

 魔法界と人間界をつなぐ配達は、時に思わぬトラブルを引き起こすこともあるが、何とかこなしてきた。それもこのバンの中にいる拓人さんのおかげだ。彼は魔法そのものを嫌っているようで、時々皮肉を言ってくるけれど、いざという時には必ずわたしをサポートしてくれる。百年目の満月の時はわたしの魔力を込めた「始まりの石」を使って儀式に参加したけど、魔法使いであるわたしと、本来魔法を使えない拓人さん。一見ミスマッチなようだけど、お互いの足りないところを補い合ってきた。


「まったく……」


 拓人さんはため息をつきながらも、少しその表情が和らいだ。彼は写真の入った手帳をそっとポケットに戻し、青に変わった交差点へバンを発進させた。


「今日は高校生コンビは来ないのか?」


 拓人さんが唐突に尋ねた。その声にはどことなく寂しさが混じっているように感じた。


「優斗くんと茜ちゃん?期末試験前で忙しいみたい。特に茜ちゃんは科学部に入ったみたいだから、実験もあって最近はあまり事務所に来れないって言ってたよ」

「そうか」


 彼は短く返事をした。何か言いたいことがあるようだったが、それ以上は何も言わなかった。

 優斗くんと茜ちゃんは約一ヶ月前に魔法の世界と出会い、マジカルエクスプレス便のアルバイトとして手伝ってくれるようになった。優斗くんは魔法に強い興味を持ち、魔法の才能を見せ始めている。茜ちゃんも少ないながらも魔力を持ち、科学的な視点から魔法を分析しようとする冷静な高校生だ。二人の幼馴染は、わたし達の配達チームに新しい風を吹き込んでくれた。


「でも、優斗くんはほぼ毎日、放課後に顔を出して魔法の練習をしてるよ。河童ドラゴンのセイとの絆も日に日に深まっているみたい」


 優斗くんはセイを通して魔法の感覚を掴み始めている。まるで昔から魔法の素養があったかのように上達が早い。エリアス先生も彼の才能に期待を寄せている。


「あの子、真面目だからな。将来有望だ」


 拓人さんの声に微かな笑みが混じったのを感じて、わたしも嬉しくなった。彼も高校生たちのことを気にかけているのだ。

 車窓を流れる景色は徐々に変わり、住宅街から文化施設が集まる地区へと移っていった。夕陽に照らされた高い建物が目に入る。市内の中心部にある美術館、劇場、そしてわたし達の目的地である博物館だ。


「市内の博物館、次の信号を右だろ?」

「うん、その通り!まっすぐ行って大きな広場が見えたら右に曲がってね」


 拓人さんの運転は安定していて、いつもながら安心感がある。わたしは助手席で万年筆の最終チェックをした。魔法の品物は時に予想外の反応を示すことがあるため、配達前の確認は欠かせない。この万年筆は幸い、特に異常は見られない。ただ、先端から微かに青い光が漏れていて、まるで早く使ってもらいたいと訴えているようだった。


「チェックはいいか?」

「うん、問題なさそう。魔力の漏れもないし、安定してる」


 拓人さんはわたしの様子を一瞥して確認すると、静かに頷いた。彼は魔法そのものは使えないが、長年の経験から魔法アイテムの危険性についてはわたし以上に敏感だ。


「拓人さん、一緒に来る?」

「いや、ここで待ってる」


 彼は運転席に座ったままで、微動だにしない。本当に今日はどこか様子がおかしい。普段なら「早く行ってこい」とか「変なことするなよ」とか言うはずなのに、今日は無言で窓の外を見つめている。


「わかった。すぐ戻るね」


 それ以上は追求せず、わたしは一人で博物館の中へと向かった。石段を上がると、大きな自動ドアが静かに開いていく。中は涼しく、薄暗い。厳かな雰囲気が漂っている。

 ふと気になってバンの方を振り返ると、バンの中に残った拓人さんは静かにポケットから手帳を取り出し、夕日に照らされる写真に写る妹の笑顔を見つめていた。彼の心には、今日、特別な予感が芽生えていたのだった。




 受付で名前と用件を告げると、係員が村上教授の研究室まで案内してくれることになった。わたし達は大きなホールを横切り、来館者の少ない展示室を抜け、関係者以外立ち入り禁止のドアを通って地下へと向かった。

 螺旋階段を下りながら、わたしは壁に掛けられた古い絵画や写真を眺めた。どれも歴史的な出来事を描いたものだが、魔法の知識を持つわたしには別の意味が読み取れる。小さな紋章や記号の中に、魔法界の象徴が巧妙に隠されているのだ。おそらく、村上教授がそっと配置したのだろう。


「千秋さん、ようこそ」


 研究室のドアを開けると、村上教授が眼鏡の奥の優しい目を輝かせて出迎えてくれた。白髪の老教授は、いつも温かな笑顔を絶やさない。そんな彼の周りには、古い書物や謎めいた魔法の品々が山積みになっている。部屋の中央には大きな作業テーブルがあり、その上に広げられた羊皮紙には古代魔法の文字が書き連ねられていた。壁一面に並ぶ本棚には、表紙が擦り切れるほど読み込まれた古書が所狭しと並んでいる。


「こんにちは、村上教授。『夢色にじみ出る万年筆』をお届けに参りました」


 わたしは丁寧に頭を下げ、箱の中から防護布に包まれた万年筆を差し出した。


「ありがとう、千秋さん。この万年筆は古代魔法の中でも珍しい『記憶と夢の魔法』に関連する貴重な品なんだよ。研究にはとても役立つよ」


 教授は嬉しそうに万年筆を受け取り、慎重に包みを解いた。彼の眼鏡に反射する光が、部屋の中で小さな虹を作る。


「すごいですね。でも、どんな研究に使われるんですか?」

「実はね、古代魔法の中で最も謎に包まれている分野の1つが『記憶と夢の魔法』なんだ。現代魔法では失われてしまった技術の一つでね」


 村上教授は万年筆を光に透かして見ながら、熱心に語り始めた。


「この万年筆は18世紀後半に作られたもので、当時の魔法使いの中でも特に古代魔法を保存しようとしていた者たちによって製作されたと考えられている。使う者の夢だけでなく、深層心理までも紙に表現できる稀有な品だよ」

「それは素晴らしいですね。でも、危険性はないんですか?」

「適切に使えば問題ない。ただ、強い悪夢を見た後などに使うと、紙に悪夢の存在そのものが定着することもあるとされているがね。まあ、私はそんな使い方はしないよ」


 村上教授は軽く笑い、万年筆を丁寧にガラスケースに収めた。


「あの、よかったらお茶でもどうだい?せっかく来てくれたんだから、少しゆっくりしていったら?」


 村上教授の提案に、少し迷った。普段なら喜んで受けるところだが、車で待っている拓人さんのことを考えると……。


「すみません、今日は同僚が車で待っているもので。また今度ぜひ」

「そうか、残念だ。次回はゆっくり話したいものだね。特に最近の魔法科学の発展について聞かせてほしい。現代魔法の理論も日々進化しているようだから」


 教授は少し残念そうだったが、理解を示してくれた。彼は魔法界と人間界の両方で活躍する数少ない学者の一人で、魔法の研究に一生を捧げてきた人物だ。表向きは歴史学者として人間界の博物館で働きながら、実は古代魔法研究の第一人者でもある。


「はい、ぜひ!それから、前回お貸しした『古代魔法の変遷と象徴』の本は役に立ちましたか?」

「ああ、あれは素晴らしい資料だったよ。文中の詠唱文の解読には少し手間取ったが、いくつかの貴重な情報が得られた。また何か良い資料があったら教えてくれると嬉しい」

「もちろんです。マジカルエクスプレス便にいつでもご連絡ください」


 わたしが研究室を出ようとしたとき、突然背後で聞き覚えのある声がした。


「村上先生、例の古代魔法の書物について……あ、千秋さん!」


 振り返ると、葉月ちゃんが驚いた顔で立っていた。白石葉月ちゃん、二十歳の大学生で、見習い魔法使いでもある。彼女はいつも明るく、魔法の勉強に熱心な子だ。短めの黒髪と大きな瞳が特徴で、今日は白いブラウスにネイビーのスカートを身につけ、首には魔法の護符が下がっている。


「葉月ちゃん、こんにちは!ここでバイトでもしてるの?」

「はい!先月から村上先生の研究のお手伝いをしているんです。古代魔法の原典の整理などを担当しているんですよ」


 葉月ちゃんは誇らしげに胸を張った。彼女の口調には若い人特有の軽やかさがあるが、目は真剣で、魔法を学ぶ者としての覚悟が感じられる。


「そうだったんだ、すごいね。村上教授の研究を手伝えるなんて、貴重な経験になるね」

「はい!毎日が学びの連続で、魔法の歴史がどんどん深く理解できてきて、本当に充実しています!」


 彼女の顔は輝いていて、純粋な喜びが伝わってきた。わたしも彼女のように魔法を学び始めた頃は、こんな風に目を輝かせていたのだろうか。


「実は白石さんは古代魔法語の才能が素晴らしいんだよ。初心者なのに、古い文献の解読を手伝ってくれているんだ」


 村上教授が葉月ちゃんをほめると、彼女は照れたように笑った。頬を少し赤らめ、研究ノートを胸に抱きしめる様子は、とても初々しい。


「そんなことないです、まだまだ勉強中の身ですから。それに先生に助けて頂いてばかりで……」

「いやいや、君の解読能力は本物だよ。先日の『風の封印』の巻物だって、私が何日も解読できなかったものを、たった二日で読み解いてしまった」

「それは先生の解説があったからですよ!」

「謙虚なのも良いところだ」


 教授は優しく笑い、そしてわたしに向き直った。


「千秋さん、彼女にはもっと古代魔法の文献を読む機会を増やしてあげてほしいんだ。もし良ければ、時々エリアスさんに蔵書を貸してもらえるように口添えしてくれないかな?」

「はい、もちろん。エリアス先生に相談してみます。先生も葉月ちゃんの才能なら認めてくれると思いますよ」

「本当ですか?ありがとうございます!」


 葉月ちゃんの目が期待に輝いた。彼女はまさに魔法使いの卵で、これからどんどん成長していくことだろう。


「葉月ちゃん、また今度事務所にも来てね。あ、そういえば頼まれてた『魔法の基礎理論と実践』の続巻もそろそろ入荷するって情報が入ってるから」

「本当ですか?ぜひ予約させてください!待ちに待っていたんです。特に呪文の発音の章が読みたくて……」

「わかった、予約しておくね。それと、もし他に欲しい本があったら、いつでも言ってね」


 彼女の目が輝くのを見ると、わたしまで嬉しくなった。魔法を学ぶ情熱は、誰でも応援したくなるものだ。かつてのわたしもそうだったし、今の優斗くんの姿もそうだ。魔法の道を歩み始める人の輝きには特別なものがある。


「じゃあ、また!お二人とも」


 軽く手を振り、わたしは博物館を後にした。外ではまだ拓人さんがバンの中で待っている。近づくと、彼は何かを考え込むように遠くを見つめていた。その視線は博物館の向こう側、見えない何かを追うように焦点が定まっていないように見えた。


「お待たせ、配達完了!」


 わたしが声をかけても、彼はすぐには反応しなかった。何か考え事をしているようだ。それとも、何か聞こえないものに耳を澄ましているのか。


「拓人さん?」

「……あ?ああ、終わったか」


 彼はようやく我に返ったように顔を上げた。その表情には、どこか哀しげな影があった。目の下のクマが以前より濃くなっているような気がする。


「うん、無事に届けたよ。それに葉月ちゃんにも会ったの。彼女、村上教授の研究を手伝ってるんだって」

「そうか……」


 拓人さんは言葉少なに頷いた。わたしは彼の異変が気になって仕方なかったが、明るく振る舞うことにした。


「帰ろうか。今日は夕飯、どうする?事務所で食べていく?私、新しいレシピを試してみたいんだけど……」

「今日はパス。少し用事がある」


 彼はそう言って、エンジンをかけた。バンは静かに動き出した。沈黙が流れる車内で、わたしは何も言えずに窓の外を眺めていた。夕暮れの街は、オレンジ色の光に包まれ、長い影を引きずる人々が行き交っている。空には早くも月が顔を出し始めていた。

 とても美しい景色なのに、なぜか今日は物悲しささえ感じる。それは拓人さんの様子のせいなのか、それともわたし自身の心の中に漂うどこか不安な予感のせいなのか……。

 事務所に戻る道中、拓人さんとはほとんど会話がなかった。いつもなら「配達先でミスしなかったか」とか「変な魔法を使ってないだろうな」などと皮肉を言われるところだけど、今日はそれもない。それがかえって不安になる。


――なにかあったんだ、絶対に。でも、何だろう?


 そう思いながらも、黙って事務所への帰路を急いだ。街灯が一斉に点灯し始め、夕暮れの街に夜の帳が降りていくのを、わたし達は静かに見守っていた。


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