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第37話 拓人の違和感

 事務所に戻ると、黒猫の姿をした店長が棚の上でまどろんでいた。黄色い目を細めて、こちらに向ける。彼はいつもわたし達の帰りを待っていて、猫らしからぬ真剣な表情で報告を聞く。実は黒猫の姿をしているが、元々は人間の魔法使いで、私の使い魔として契約している。名前はユーリオスというが、みんなからは「店長」と呼ばれている。こうやって休むことで、いざという時のために体内に少しずつ魔力をためているのだそうだ。


「おや、戻ったか。今日は珍しく配達先でのトラブルもなかったようじゃな」


 店長が声を掛けてきた。彼の声は低く、人間のような話し方をする。長く生きてきた知恵と経験を感じさせる口調だ。


「うん、すんなり配達完了!万年筆も大人しかったし、村上教授も喜んでくれたよ」


 私は元気よくVサインと共に報告した。なぜか自分の声が、妙に明るく響く。普段より強張っているのが分かる。これは自分でも分かる「ごまかしの声」だ。拓人さんの様子が気になって、無意識に明るく振る舞おうとしているのだろう。

 店長はそんな私の心理を見透かしたのか、視線を拓人さんの方に移した。


「店長、お疲れ様です」


 拓人さんは淡々と挨拶すると、事務所のカウンターと応接室を通り過ぎ、奥の自分のデスクに向かって配達記録を書き始めた。彼の動きはいつもより重く、肩に力が入っているようにも見える。すでに明かりの少なくなってきている窓際に座り、その表情は硬く、目の下には疲れの色が見える。

 私は彼を心配そうに見ながら、自分のデスクに荷物を置いた。事務所の奥の各自のデスクが並ぶ部屋はいつものように少し散らかっていて、壁には地図や配達スケジュール表が貼られている。その部屋から見える倉庫には、勝手に触られないように封印の魔法が駆けられた棚に配達を待つ様々な魔法の品が並び、古い木製の家具が温かみのある雰囲気を作り出していた。


「千秋さん!今日の配達、無事に終わりましたか?」


 優斗くんの声がした。彼は今ではすっかり優斗くんと茜ちゃんの待機部屋と化した奥の客間から出てきたところだった。制服姿なので、学校帰りに立ち寄ったのだろう。黒い制服にきちんと結ばれたネクタイと、少し乱れた髪が印象的だ。いつも明るい笑顔の高校生、店に来るたびに新しい魔法の知識を吸収しようと意欲満々の彼は、マジカルエクスプレス便の新しい活力となっていた。


「うん、バッチリ!そういえば優斗くん、今日は早かったよね」

「実は今日、午後の授業が自習だったので。それで少し早く来て魔法の練習ができました」


 彼の肩にはいつものようにセイがとまっている。河童ドラゴンはご機嫌な様子で、優斗くんの頬を小さな鼻先でつついていた。セイの青緑色の鱗は夕方の光を受けて美しく輝き、後頭部の皿には透明な水が満たされていた。彼らの間に生まれた絆は日に日に強くなっているようだ。


「セイもすっかりなついてるね」

「はい!最近は学校が終わるときの時間を覚えたのか、必ず迎えに来てくれるんですよ。健太郎さんも許可してくれてるみたいで……。ときどき魔法動物園に遊びに行くと、園の皆も『また脱走ドラゴンの主がやってきた』って笑ってます」


 優斗くんは嬉しそうに笑った。セイとの出会いは彼にとって大きな転機だったのだろう。ドラゴンは河童を思わせる皿から少量の水を優斗くんの髪にかけ、二人は仲良く戯れている。彼の無邪気な表情を見ると、何だか心が和む。


「園のみんなに迷惑をかけすぎないようにね」

「はい!それで、今日は茜も来る予定なんです。科学部の実験が終わったら直接来るって」

「そうなんだ、久しぶりに四人揃うね」


 私は少し嬉しくなった。茜ちゃんは最近忙しくて、あまり顔を見せていなかったのだ。彼女の冷静な分析力は、時々私たちの助けになってくれる。


「ねぇねぇ、千秋さん!これ見て下さい」


 優斗くんは興奮した様子で、テーブルに広げられた古い本を指差した。どうやら、エリアス先生から借りた古代魔法の本らしい。艶のある茶色の革装丁に、黄ばんだページ。時間の経過を感じさせる古書だが、中の文字は魔法のおかげか、今でもくっきりと読める。その大きなページには、複雑な魔法陣が描かれている。


「これは次元間移動の魔法陣って書いてあるんです。今は使われてないけど、かつては異次元への扉を開くために使われていたんだって。古代魔法の実践者たちは、異なる時空に扉を開き、様々な知識を集めていたんだそうです。こういう魔法があったなんて、すごいですよね!」


 優斗くんは目を輝かせながら説明する。彼はノートにも同じ魔法陣を丁寧に描き写していて、各部分に自分なりの解釈をメモしていた。彼の熱心さに思わず笑顔がこぼれた。


「ふーん、次元間移動か。エリアス先生はその手の魔法に詳しいはずだよ。彼は次元魔法と古代魔法の専門家だし、きっとその本の内容についても詳しく知ってるはず」

「エリアス先生、すごいですよね。あんなに知識が豊富で……。いつか僕もあんな風になりたいです」


 優斗くんの憧れの眼差しには、若々しい情熱が満ちていた。彼は本当に素直で、魔法の世界に純粋な熱意を持って接している。


「そういえば、『境界』って言うけど、次元とも関係してるんですか?」


 彼の質問に、私は自分の知識を整理しながら答えた。


「うん、そう。魔法界と人間界っていうのは、厳密に言えばほんの少しずれた異なる次元に存在してるんだ。ほとんど同じ空間に重なっているけれど、別の時間軸を辿った結果というか、存在の時間分岐周波数っていうのが少し異なるの。その間に『境界』があって、魔法評議会の許可を得ることで魔法使いは境界を越えて行き来できるんだよ。影魔法使いたちはどうやって行き来してるのか知らないけど……。許可証の偽造でもしてるのかなぁ」


 私が説明していると、拓人さんの手が止まった。彼は黙って聞き入っている。こんなにも次元と境界の話に関心を示すのは珍しい。


「じゃあ、魔法界以外にも次元ってあるんですか?他の世界とか?」


 優斗くんの質問に、今度は店長が答えた。彼は棚の上から優雅に伸びをして、身を起こした。


「それは間違いなくあるぞ。宇宙には無限の次元が存在すると言われておる。無数の三次元を包含する四次元、さらにその四次元を無数に包含する五次元、というようにな。古代魔法の書物には、無数の世界に関する記述があるしな。ただ、我々魔法使いでも容易に行き来できるのは限られた特定の次元だけだがな」


 店長は老魔法使いらしい知識を語り、優斗くんは驚きに目を見開いた。


「ええっ?本当に他の次元にも行けるんですか?」

「古代魔法には次元の壁を超える術もあったという記録がある。だが危険が伴うため、現代では禁止されておる。次元を自在に操れるのは、高位の魔法使いのみじゃ。そもそも、不用意に異次元に足を踏み入れると、二度と戻れなくなることもあるしな」


 店長の深いため息が、その言葉に重みを加えた。彼は何か古い記憶を思い出しているようだった。


「それに、異なる次元では時間の流れも違う。人間界で一日が過ぎる間に、別の次元では一年が過ぎていることもあるのだ」

「時間までも違うんですか……」


 優斗くんはますます興奮する様子だった。彼の表情からは好奇心が溢れ出ている。こんな風に魔法の世界に驚き、感動できるのは、素晴らしいことだ。魔法使いとして長く生きていると、時に当たり前のものとして見過ごしてしまうが、彼の新鮮な視点は私にも新たな発見をもたらしてくれる。


「すごい……いつか僕もそんな魔法が使えるようになりたいな」

「まぁ、まずは基礎からだよ。階段はきちんと一段ずつ上らないと。いきなり高度な魔法に手を出すと、思わぬ事故につながるからね」

「まあ、千秋が言うと説得力が違うな」

「もう、店長!」


 私が諭すように言うと、店長が茶化す。優斗くんは少し照れたように笑った。彼の熱意は素晴らしいが、時々冷静さを欠くこともある。それでも、彼の努力は確かな成果を上げている。


「そうですよね。基礎から着実に頑張ります!エリアス先生に教わった守護の魔法も、毎日練習しているんですよ」

「そりゃ偉い。地道な努力が一番大切だよ」


 優斗くんがセイと一緒に再び奥の部屋へ戻ると、事務所には静かな空気が戻ってきた。拓人さんは無言で作業を続けている。彼の肩は緊張で硬くなっているようだった。


「拓人、何かあったのか?」


 店長が珍しく心配そうな声で尋ねた。いつもは他人の心配などしないふりをしているのに、よほど拓人さんの様子がおかしく見えたのだろう。店長の黄色い目は、時に鋭く私たちの心の奥底まで見通すことがある。


「……別に」


 そっけない返事。でも、彼の表情には何か言いたいことがあるようにも見える。こういう時の拓人さんは、心の中で激しく葛藤しているのだ。


「本当に何でもないという顔じゃないな。嘘はよくない。何かあったなら言ってみろ。ほれ」


 店長の鋭い指摘に、拓人さんはペンを置いた。深いため息が漏れる。彼は窓の外の暗くなりかけた空を見つめ、しばらく言葉を探すようだった。


「最近……よく同じ夢を見るんだ。美咲の夢を」


 その言葉に、私と店長は顔を見合わせた。美咲ちゃん――拓人さんの妹だ。約10年前に魔法事故によって失踪したという。彼女のことは、今までに少しずつ拓人さんから聞いたことがあった。彼が魔法を嫌いながらも、魔法界に関わっている理由は、その妹を探すためだったはずだ。


「夢?どんな夢だ?」


 店長が前かがみになって尋ねた。その様子は、いつもの皮肉屋の猫ではなく、何か重要な情報を求める魔法評議会の古参メンバーのようだった。


「夢だからはっきりとは覚えていないんだ。でも、美咲が閉じ込められているような……助けを求めているような気がして……。何度も見るし、たかが夢と切り捨てられないんだ」


 拓人さんの声には、普段は隠している感情が滲んでいた。硬く閉ざされていた彼の心が、少しだけ開いたようだ。


「毎回まったく同じ夢か?」

「いや、少しずつ違う。でも、共通しているのは美咲が暗い場所にいて、閉じ込められているという点だ」

「どのくらい前から?」

「一週間くらい前から、ほぼ毎晩のように」

「一週間前か……」


 店長は考え込むような表情になった。彼の尻尾が小刻みに揺れている。これは彼が深く考え込んでいる時のクセだ。


「それって、百年目の満月と同じ頃じゃない?」


 私が思わず口にすると、拓人さんは驚いたように顔を上げた。彼の目に、小さな希望の光が灯ったようだった。


「そういえば……そうかもしれない」

「通り過ぎはしたが、いまだ百年目の満月が近いことと関係があるのかもしれんな。何らかの影響がまだ残っていてもおかしくない」


 店長が呟いた。彼は窓の外を見上げ、雲の影にうっすらと見える月を見つめている。


「だったら、百年目の満月の前に夢を見なかったことと辻褄が合わないぞ」

「緊張している時は気持ちが高ぶって夢なんぞ見なくなるもんじゃよ。悪夢なら見るかもしれんがな」


 店長に指摘されて拓人さんは黙り込む。


「百年目の満月?あの時の話?」


 私は先月、エリアス先生から聞いた話を思い出した。百年目の満月は魔法界と人間界の境界が最も薄くなる特別な夜で、約百年に一度訪れるという。その時に特別な儀式を行うことで、境界の安定化や、逆に破壊さえも可能になるという恐ろしい影響力を持つ現象だった。


「そうだ。満月が近づくにつれ、境界だけでなく当然次元の壁も薄くなっておる。もしかすると、その影響で拓人の感覚も鋭くなっているのかもしれん。あるいは美咲が別の次元で生存しているとするなら、そちら側の次元の影響を受け易くなっていると言うべきか」


 店長の言葉には深い洞察が込められていた。彼は魔法世界の歴史を何百年も見てきた存在だ。その知識は私たちの想像を超えている。


「じゃあ、拓人さんが見てる夢は……美咲ちゃんからのメッセージ?」

「端的に言えば、その可能性もあるじゃろう」


 店長は慎重に言葉を選びながら続けた。


「次元を超えた繋がりというのはしばしば夢に現れる。特に血縁関係にある者同士は、そういった繋がりが強い。この時期、次元の壁が薄くなれば、そういった現象が起きても不思議ではないはずじゃ」


 拓人さんは黙って聞き入っていた。彼の表情には複雑な感情が交錯している。希望と懐疑、そして10年間抱き続けてきた痛みが入り混じったような表情だった。


「実は、今日の配達中も……変な感じがしたんだ」

「変な感じ?」


 私は思わず身を乗り出した。


「なんというか……美咲の気配のようなものを感じた。特に博物館の近くで強く」


 拓人さんの言葉に、私は思わず息を呑んだ。もしかしたら、これは単なる気のせいではないかもしれない。店長も耳をぴんと立て、真剣な表情になった。


「特に強く感じたのは、博物館のどの辺りじゃ?」

「博物館の……西側かな。古い文書館があるあたりだったと思う」

「なるほど。施設の中ではなく、そのあたりで感じたのか……」


 店長はしばらく考え込んでいたが、やがて決心したように言った。


「拓人、明日の朝一番でエリアスのところに行くぞ。彼なら何かもっと深いことが分かるかもしれん」


 拓人さんは一瞬目を見張り、ゆっくりと頷いた。彼の目には、長い間抱き続けてきた思いが浮かんでいた。


「分かった……頼む」

「千秋も一緒に来るといい。もしかしたらお前の存在が力になるかもしれん」

「もちろん!絶対に行くよ」


 私は迷わず答えた。拓人さんは普段から私をサポートしてくれている。今度は私が彼の力になる番だ。


「よし、明日の朝7時に事務所に集合だ。エリアスには連絡を入れておく」


 店長の指示に、私たちは頷いた。

 奥の部屋では、優斗くんが一生懸命魔法の練習をしている気配が感じられる。彼にはまだ、この状況を話さない方がいいだろう。まずは確かな情報を得てからにしよう。

 その夜、私は色々な思いを胸に抱えながら眠りについた。今までに起こったことを思い出しつつ良く考えてみると、拓人さんの妹・美咲ちゃんの消息、百年目の満月、そして次元の壁……全てが何か深い関係で結ばれているような気がしてならない。

 窓から見える月は満月を過ぎ、日に日に欠けていく。それが何らかのタイムリミットを示しているような気がして、少し身震いがした。

 あの影魔法使いたちも、きっとこの変化を感じ取っているだろう。私たちは何か大きな出来事の入り口に立っているのかもしれない……。

 そんな不安と期待が入り混じった思いを抱きながら、私は深い眠りに落ちていった。夢の中でも、どこか暗い場所で誰かが助けを求める声が聞こえたような気がした。


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