事務所からの帰り道、俺は千秋と別れて自分のアパートに戻った。鍵を回す音が、やけに静かな廊下に響く。部屋に入り蛍光灯のスイッチを入れると、いつもの簡素で無機質な一人暮らしの部屋が浮かび上がった。ワンルームのアパートは必要最低限の家具しかなく、ベッド、テーブル、狭いクローゼット、小さなキッチン、そして本棚だけだ。壁には何も飾っていない。
「ただいま……」
言葉は虚しく空間に吸い込まれていく。もちろん、返事をする人はいない。
鞄をソファに投げ捨て、冷蔵庫からビールを取り出した。プシュッという音と共に缶を開け、一口飲む。冷たい苦味が喉を通り、少しだけ体の疲れが和らいだ気がした。
テーブルとベッドの間に座って、今日の出来事を思い返す。あの感覚は確かだった。美咲の気配。十年間、一度も感じられなかったものを、今日は確かに感じた。他の誰でもない、美咲の気配を。
ひたむきに仕事をこなし、無理やり忘れようとしていた様々な記憶が、今日はどうしようもなく蘇ってくる。
俺は一つため息をついて立ち上がり、クローゼットの奥に手を伸ばした。ベッドの横の小さなクローゼット、その上の棚に手を伸ばすと、埃をかぶった木箱がある。めったに開けることのない、でも絶対に捨てられない箱だ。
木箱を取り出し、埃を軽く払い、テーブルに置いた。ゆっくりと蓋を開ける。中には古い写真、手紙、そして美咲の持ち物が大切に保管されていた。一番上にあるのは、美咲の十三歳の誕生日の写真。笑顔いっぱいの美咲が、誕生日ケーキの前で俺に寄り添っている。
「美咲……」
写真を手に取ると、指先がわずかに震えた。十年前の美咲。黒髪を二つに結い、大きな瞳が特徴的な少女。明るく活発で、好奇心旺盛だった妹。
あの日、俺は試験勉強に追われていた。高校一年生で、中間考査が目前に迫っていた。そんな時、美咲が古い魔法の本を見つけてきたんだ。
「お兄ちゃん、これ見て!魔法の本だよ!」
彼女の興奮した声が耳に蘇る。もちろん、当時の俺は冷ややかに笑うだけだった。
「ばっかじゃないの。魔法なんてあるわけないだろ」
勉強に集中したかった。そう、集中したかっただけなのに。なぜもっと真剣に彼女の話を聞かなかったんだろう。美咲の言っていたことは本当だった。あの本は本物の魔法書だったんだ。
写真の隅を握り締めると、あの恐ろしい夜の記憶が鮮明によみがえる。
◆◇◆
勉強の合間の休憩時間、俺は気まぐれに美咲の部屋をノックしてみた。すると「今、手が離せないの」という返事がドアを隔てたやや遠くから聞こえてきた。
――うん?こんな時間に何を?着替えでもしてたのか?
「悪りぃ、また出直……」
「自分でドア開けて入ってきてくれる?」
言いかけた俺の言葉にかぶせるように返事が返ってきた。言われた通り、静かにドアを開けて部屋にはいると、彼女は何か呪文らしきものを唱えていた。ジェスチャーで早くドアを閉めろと促される。そしてドアを閉めた直後、突然、小さな光が彼女の手のひらに現れた。最初は星のような小さな光だった。
驚いた俺は美咲に駆け寄った。美咲は大喜びで「見て見て、魔法が使えた!」と小声で叫んでいた。俺は目を疑った。こんなことがあるはずない。でも、確かに自慢げにドヤ顔をした彼女の手のひらには小さな光が浮かんでいた。
それからは、あっという間だった。
美咲が「もっと大きな光を作る」と言って、再び呪文を唱えだした。すると、小さな光が急激に膨らみ始め、部屋中を埋め尽くした。あまりの眩しさに俺は思わずドアまで後ずさって目を閉じた。一瞬のことだった。目を開けると、美咲はもういなかった。光と共に消えてしまったのだ。
警察は誘拐事件として捜査した。しかし、何の痕跡も証拠も見つからなかった。窓は施錠されていたし、侵入の形跡もなかった。人は突然消えたりしない――そう、普通の世界では。
◆◇◆
「くそっ……」
ふと現実に戻った俺は歯を食いしばった。写真を元の箱に戻し、その下にあった美咲の日記を取り出した。美咲の日常を勝手に見るような罪悪感を覚えつつも、手掛かりを探して藁をもつかむ思いで何度も目を通した日記だ。ぱらぱらとページをめくると、彼女が魔法に興味を持ち始めた頃の記述が出てきた。
「今日、古い本屋さんで不思議な本を見つけた!店の人は『特別な目を持つ人だけに見える本だよ』と言っていた。魔法の本なんだって!お兄ちゃんは信じてくれないけど、私は信じる!」
そこには純粋な少女の好奇心と冒険心が綴られていた。魔法を信じる心。そして、その魔法が彼女を連れ去ってしまった。
美咲が消えてから、俺は魔法の存在を受け入れざるを得なかった。彼女を取り戻すためには、魔法の世界に踏み込むしかなかった。だから美咲が消えてからというもの、平静を装って俺は魔法関連の噂や情報を片っ端から調べ始めた。そして、大学院を卒業しようかという時期に、ようやく「マジカルエクスプレス便」の存在にたどり着いたんだ。
魔法宅配業者。魔法界と人間界を行き来する彼らなら、美咲の手がかりを見つけられるかもしれない。そう思い、何社かもらっていた内定をすべて蹴って面接に応募した。千秋の上司で、その時の面接を担当した女性店長は、最初から俺の本当の目的を見透かしていたように思う。
「あなたは別に魔法に興味があるわけじゃない。誰かを探しているんでしょう?」
あの時の店長の鋭い眼差しを今でも覚えている。変わって今の店長は黒猫の姿をした元人間の魔法使い。最初は信じられなかったが、今では当たり前のように彼の不思議な存在を受け入れている。
「魔法なんぞ……無けりゃ良かったのに」
呟きながらも、俺は自分の中に矛盾があることを自覚していた。魔法を憎んでいる自分。魔法が美咲を奪ったのだから。でも、魔法でしか彼女を取り戻せない。だから魔法と関わり続けなければならない自分もいる。この皮肉な矛盾に、日々苦しめられていた。
ビールをもう一口飲み、缶を乱暴にテーブルに置いた。美咲の日記を箱に戻し、美咲の写真を挟み込んだ手帳をポケットから取り出す。この写真はいつも持ち歩いている。どこかで美咲を見つけた時、彼女だと確認するために。いや、それだけじゃない。失った妹を忘れないために。そして、自分の失敗を忘れないために。
千秋に対する気持ちも複雑だ。彼女は典型的な魔法使いで、むちゃくちゃなところもあるが、不思議と憎めない。魔法使いを嫌悪しながらも、千秋の純粋さや優しさには何度も救われた。彼女は俺の本当の目的を知ってからも、いつも励ましてくれる。「絶対に見つかるよ、美咲ちゃん」と。
時計を見ると、もう深夜だった。明日も早いので床に就くことにする。お風呂に入り、歯を磨いて、電気を消した。暗闇の中、窓から差し込む街灯の光だけが部屋を照らしている。
ベッドに横になりながら、久しぶりに祈るような気持ちになった。
「美咲、どこにいるんだ?もし生きているなら、無事でいてくれ。必ず見つけるから」
長い一日だった。疲れた体と複雑な思いを抱えながら、俺はだんだんと眠りに落ちていった。
夢の中で、懐かしい声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん……助けて……」
美咲の声だ。闇の中から呼びかけてくる。でも、どこにいるのか見えない。手を伸ばしても届かない。
「美咲!どこにいるんだ!?」
「お兄ちゃん……ここは暗いよ……水の音がするよ……」
「待っていろ!今行くから!」
必死に声のする方に向かって走る。でも、いくら走っても辿り着かない。
「お兄ちゃん……」
声が徐々に遠ざかっていく。
「美咲!」
俺は飛び起きた。冷や汗が額や背中を伝い落ちる。激しく鼓動する心臓の音が耳に響く。窓の外は、まだ夜の闇に包まれていた。時計を見ると、午前3時。
夢だったのか?いや、夢とは何かが違う。あれは夢じゃない。美咲の声だ。確かに彼女の声を聞いた。暗い場所。水の音。それが手がかりだ。
これまでにない確信があった。美咲は生きている。そして、彼女は助けを求めている。
「必ず見つけ出してやるからな!」
俺は固く誓った。魔法を憎むことを理由に逃げていた自分を責めた。今は、それどころじゃない。美咲を救うためなら、魔法とだって向き合ってやる。彼女のためなら、何だってしてやる。
枕元の写真立てを握りしめながら、残りの夜を過ごした。明日、エリアス先生を訪ねなければならない。千秋にも、さっきの夢のことを伝えなければ。
魔法使いの千秋。猫の姿をした店長。高校生の優斗と茜。不思議な仲間たちが、今では俺の支えになっている。彼らの力を借りて、必ず美咲を見つけ出す。
窓の外に、朝日の最初の光が差し込み始めていた。