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第39話 美咲の気配

 翌朝、わたしはいつもより早く目を覚ました。時計を見ると、まだ5時半だ。エリアス先生のところに行く約束は7時なのに、緊張からか体が勝手に目を覚ましてしまった。窓の外は、まだ薄暗く、朝靄が辺りを包んでいる。


――美咲ちゃん、本当にどこかで生きているのかな。それとも……魂だけが彷徨っているの?


 寝室の窓から見える空を眺めながら、そんなことを考えていた。拓人さんの妹のことをわたしはあまり詳しくは知らない。ただ、彼が魔法を嫌いながらもマジカルエクスプレス便で働いているのは、妹を探すためだということは何度か聞いたことがある。魔法事故で失踪した妹を取り戻すために、彼は魔法の世界に足を踏み入れたのだ。


「まだ暗いじゃないか」


 わたしのアパートの部屋に住み着いている店長が、猫ベッドから顔を上げる。黄色い目が暗闇でぎらりと光った。人の姿でいる時はユーリオスだけど、今は黒猫の姿だ。普通猫は夜行性だが、元人間でわたしと生活している彼は生活リズムが人間とほぼ変わらない。昼寝が多いくらいだが、そこは猫らしいともいえる。彼は契約した使い魔としてわたしの傍にいるが、実際にはわたしよりもずっと年上の大先輩で、どちらかというとわたしが彼に使われている感がある。


「だって、目が覚めちゃったんだもん」

「ふん、心配性じゃな。お前らしくもない」

「なんで~?そんなことないよ。私、結構繊細で心配性じゃない?」

「いや、普段は考えなしのポンコツじゃ。普段と様子が違って、考えなしが考えようとしておるから余計気になるんじゃろうがバカ者」


 いつものように辛辣な言葉を投げかけてくる店長だが、猫の姿なのでそれほど威圧感はない。むしろ、わたしを心配しての言葉なので、やさしいと言えなくもない。彼は小さな欠伸をして、伸びをした。


「拓人のことが気になるのか?」

「うん……彼のあんなに思いつめた辛そうな顔、初めて見た」


 店長は棚の上に飛び乗り、窓の外を見つめた。月がまだ低い位置に浮かんでいて、その淡い光が店長の黒い毛並みを銀色に染めている。


「彼の気持ちは分かる。大切な者を失うというのは、辛いものじゃ」


 店長の声には、珍しく柔らかな感情が混じっていた。彼は時々、こういう風に過去を思い出しているような言葉を口にする。長い年月を生きてきた魔法使いとして、きっと様々な別れを経験してきたのだろう。


「私たちで何とかして、美咲ちゃんを見つけだしたい。だって『配達すべきは物のみにあらず』がわたし達の理念でしょ?つまり、時には思いを伝えるための心を運んだり、魔法界と人間界の境を超えて悩みごとの種を解決可能な場所へ運んだり、そうやって人々の助けになることもわたし達の使命だもん」

「それは理解できるが、安易な約束だけはするなよ。この件は単に魔法界と人間界だけに止まらぬ。次元を超えて行方不明になった者を見つけ出すのは、容易なことではない。陰陽の狭間に落ちた魂は、現世との繋がりを失いやすいんじゃ」

「陰陽の狭間?」


 店長は尻尾をゆっくりと揺らし、より厳かな口調で説明を始めた。


「東方古代魔法や日本の古来の考えでは、この世界は『陽』の世界、死後の世界は『陰』の世界。じゃが、その間には狭間の領域が存在する。我々が『次元の隙間』と呼ぶものは、古くから陰陽の狭間として知られておったんじゃ。特に神社や湧水のある場所は、その境目が薄くなりやすい。いや、薄くなりやすい場所を保護するために神社などが建てられたと考えるべきか……」

「そうなんだ……」


 わたしは初めて聞く知識に、思わず見入ってしまった。


「梅雨の季節は特に注意が必要じゃ。湿気が増すこの時期は、現世と異界の境目が曖昧になる。だからこそ、昔の人は『水』を通して魂を呼び戻す儀式を行ったんじゃよ」

「でも、美咲ちゃんを見つけられる可能性はあるんでしょ?この前過ぎた百年目の満月の影響もまだ少し残っているって聞くし……」

「……ああ、あるにはある。じゃが、困難なことに変わりはないし、その代償も大きいかもしれんぞ」


 彼はそれ以上は何も言わなかったが、わたしは覚悟を決めていた。拓人さんはわたしのパートナーだ。彼が困っているなら、全力で助けるのは当然のことだ。


「いい加減起きるか……。朝食を準備してやろう」


 店長はそう言って、軽快に部屋を出て行った。彼は猫の姿でありながら、構造を知っているのでドアノブを器用に回して開けることができる。そういえば、彼はアパートの家賃も払っているらしい。元々は人間なので、人間の姿をとれば行政サービス等も問題無く受けられるし、運転免許証も見たことがある。もちろん、写真は人間の姿で、普通のおじいちゃんだった。当然銀行口座も持っているのだろう。不思議な同居人だ。

 わたしはベッドから出て、窓を開けた。朝の清涼な空気が肌に触れ、身が引き締まる思いがした。眼下には目覚め始めた街並みが広がっている。早朝の光に照らされた建物の屋根、かすみ始めた街灯の光、そして遠くに広がる森。全ては普段と変わらないようで、どことなく違って見える。

 急いで準備を整え、リビングダイニングに出ると、すでに店長が朝食を用意していた。猫の姿にもかかわらず、彼は料理が得意だ。おそらく魔法の助けを借りているのだろうが、作っている所を見たことが無いわたしは実際どうやっているのか知らない。極たまにしか作ってくれないが、出来上がりは本格的で美味しい。今朝はトーストと目玉焼き、そしてトマトスープが並んでいた。


「時間も早いし、しっかり食べておけ」

「ありがとう、店長」


 わたしが感謝を口にすると、店長はいつものように「当たり前じゃ」と言いつつ、自分の分の小さなお皿に向かった。昼食や夕食を作ってくれた事はあるが、彼が朝から作ってくれるのはさらに珍しい。きっと、今日の重要性を彼なりに理解しているのだろう。

 しっかり食べ終わり、時計を見ると6時15分になっていた。エリアス先生の家までは、事務所から普段は使わせてもらえない魔法のポータルを使えば10分ほどだ。早朝の移動になるため、昨夜、店長が魔法評議会に申請してくれたが、急がなければ指定時間を過ぎると使えなくなる。人を移動させる魔法は特に管理が厳しい。


「そろそろ事務所に行って待機しよう。拓人もすでに向かっておるはずじゃ」


 店長と一緒にアパートを出て、マジカルエクスプレス便の事務所へと向かった。朝のまだ人気の少ない道を、わたし達は静かに歩いていく。いつもなら自転車なのだが、運悪く今は修理中なので徒歩だ。


――その分の幸運が今日の拓人さんに回ってきてくれると嬉しいなぁ。


 陽が昇り始め、街は少しずつ光に包まれていく。朝の光は魔力を帯びている気がする。日の出と日没、この境界の時間は魔法が少し強くなる特別な時間帯だ。店長が言っていた陰陽の境目が薄くなる時間帯なのかもしれない。

 事務所に着くと、すでに拓人さんが中で待っていた。すりガラスの窓からは彼の姿が見える。窓際に座って何かを眺めているようだ。その表情は昨日より一層憔悴していて、まるで一晩中眠れなかったかのようだった。

 ドアを開け、足を踏み入れると、拓人さんがこちらを振り向いた。彼の顔には疲れの色が濃く残っていた。目の下にはクマができ、頬はこけていた。


「おはよう、拓人さん」

「ああ、おはよう」


 彼はいつもより柔らかな声で返してきた。その手にはいつもの手帳とそこに挟まれた小さな写真が納まっていた。そこに写っていたのは、幼い少女の姿だ。黒髪を二つに結い、大きな瞳が印象的な女の子。彼女が美咲ちゃんに違いない。


「それ、美咲ちゃんの写真?」


 拓人さんは無言で頷き、再び写真を見つめた。その指先が写真の縁をなぞるように動いていた。まるで、そうすれば少女の存在をより強く感じられるかのように。


「美咲が消えた日、あいつは13歳だった」


 彼の声には懐かしさと痛みが入り混じっていた。10年前、妹を失った痛みをずっと抱えて生きてきたのだろう。


「どうして……消えたの?いやほら、概要は前に聞いたことがあるけど、詳細を知っておいた方が良いと思ったから……」


 勇気を出して聞いてみると、拓人さんは少し考え込むように窓の外を見た。朝日が彼の横顔を照らし、その表情をより深刻に見せていた。


「十年前、いまの優斗くんと同じように、美咲は魔法に憧れていた。好奇心旺盛な子でね……」


 拓人さんは写真を見つめながら語り始めた。その声には懐かしさと痛みが入り混じっていた。


「ある日、美咲が古い本屋で見つけたという本は、本物の初級魔法書だった。今思えば、どうして人間界にそんなものが……」


 彼の声が震えた。自責の念が言葉の端々から滲み出ている。拓人さんは一度言葉を切り、深呼吸をしてから続けた。


「ある晩、美咲は本に書かれていた『光の魔法』を試そうとした。まぐれで一度成功した美咲はさらに大きな光を作ろうとして魔法が暴走し、光が爆発的に広がって部屋中を包み込んだ。何が悪くて失敗したのかは分からない。そして光が収まった時、美咲の姿はなかった……」


 拓人さんの拳が震えていた。店長は静かに彼の話を聞いていた。


「光に飲み込まれた。そう思うしかない。光の魔法が暴走した結果、次元の壁に穴を開け、美咲はその向こう側に引き込まれたんじゃないかと思ってる」


 拓人さんの目には涙が光っていた。それを必死に堪えているのが分かる。


「俺のせいだ。なぜ止めなかったんだろう。警察は誘拐事件として捜査したけど、何の手がかりも見つからなかった。でも俺だけは知っていた。あの光が魔法だったってことを」

「拓人さん……」


 わたしは言葉を失った。彼の痛みが痛いほど伝わってきた。


「それからだ。魔法について調べ始めたのは。美咲を取り戻すために、魔法界と繋がりのある仕事を探し、ここにたどり着いた」

「だから魔法が嫌いなのに、ここで働いているんだよね」

「ああ、皮肉な話だろ?」


 彼の唇が少し歪んだ。苦い笑みだ。


「それに、昨日も少し話したが、最近、夢を見るんだ……美咲が暗い場所で泣いている。『お兄ちゃん、どうして見つけてくれないの?私を忘れちゃったの?』ってな」


 拓人さんの声が途切れる。彼は両手で顔を覆い、肩が小刻みに震えた。


「毎晩その声で目が覚める。十年経っても、俺はまだあいつを救えていない……」


 店長がテーブルに飛び乗り、真正面から真剣な表情で拓人さんを見つめた。


「拓人、昨夜、詳しく聞けなかったが、最近の夢で美咲から何か具体的なメッセージはあったか?言葉や、特定の場所の映像など」


 拓人さんは顔を上げ、少し考え込んでから答えた。


「言葉はほとんど聞き取れない。ただ、『返して』とか『出して』という断片的な言葉は聞こえた気がする。場所は……暗い空間で、壁には読めないが古そうな文字が刻まれていた。あとは……水の音がする」

「水の音?」

「ああ、滴る水音のような……」


 店長の耳がピクリと動いた。何か重要なことに思い至ったようだ。


「滴る水の音と古い文字……光の魔法と合わせて考えると、次元の狭間の空間かもしれんな。特に湧水のある古い神社や洞窟は『境界』だけではなく次元の壁も薄くなりやすい場所じゃ」


 彼の言葉に、拓人さんは身を乗り出した。


「どういう意味だ?」

「次元の壁というのは、場所によって厚さが異なる。水と石が長い年月をかけて自然の力で作り上げた場所は、特に次元の壁が薄くなりやすい。人の手があまり入っておらん場所ではなおさらじゃ。そういう場所で光の魔法のような次元に干渉する魔法が行使されると、一時的に壁に穴が開くこともあるんじゃ」


 店長の説明に、わたしは思い当たることがあった。


「あっ!そういえば、河童ドラゴンを捕まえたときも、森の奥の古い湧水のある場所だったって健太郎さんが言ってたよね?」

「そう、あの場所も次元の壁が薄い場所だったんじゃろう。だからこそ、あのドラゴンが現れた」


 店長の言葉に、わたし達は顔を見合わせた。全てが繋がっているような気がする。


「そして先日の百年目の満月で、次元の壁はさらに薄くなったはずじゃ。だからこそ、拓人は美咲の気配をより強く感じるようになったのかもしれん」

「もし美咲が次元の狭間にいるなら……」


 拓人さんの声には、久しぶりに希望が混じっていた。


「今なら……会えるかもしれない」


 彼の言葉が事務所内に静かに響いた。外では朝日が昇り、窓から差し込む光がわたし達の周りを明るく照らしていた。

 その時、ドアが開き、優斗くんと茜ちゃんが入ってきた。二人の表情には驚きが浮かんでいた。


「あれ?みんな早いんですね。何かあったんですか?」


 優斗くんの純粋な疑問に、わたし達は一瞬言葉に詰まった。まだ彼らには今回の詳細を話していなかったからだ。


――拓人さんの個人的な問題だし、本人の了承も無く確証もない話を広げるべきじゃないよね。


「ちょっと早朝の配達があってね。それより二人とも学校はどうしたの?」


 わたしはとっさに軽く嘘をついた。申し訳ない気持ちはあるけれど、まずはエリアス先生に会って確かな情報を得てからにしたかったからだ。だからすぐさまわたしは話題を変えた。


「実は奥の部屋に昨日忘れ物をしちゃって、少し早めに家を出て取りに寄ったんです」


 優斗くんは元気よく言って、昨日魔法の練習をしていた奥の部屋へ駈け込んでいった。そんな様子を横目で見つつ、茜ちゃんが尋ねてきた。


「優斗は納得したみたいですけど、何か特別なことが起きてるんじゃないですか?もしそうなら教えてください。わたし達だってマジカルエクスプレス便のメンバーなんですから」


 茜ちゃんの言葉には少し疑うような響きがあった。相変わらず鋭い子だ。


「ねえ千秋さん、もしかして拓人さんの妹さんのことですか?」


 突然、茜ちゃんが鋭い視線をわたしに向けた。いつの間にか、彼女は拓人さんの手に握られた写真に気づいていたようだ。それを無理やりごまかそうとわたしは口を開く。


「え?……どうしてそう思うの?」

「昨日から拓人さんの様子がおかしかったし、その写真……」


 茜ちゃんは腕を組み、分析的な目でわたし達を見つめた。


「前にも少し拓人さんからお話は聞きましたけど、次元間移動なんて、科学的には絶対に不可能だと思います。そんなことが起きたら物理法則が根本から崩れるわ。きっと別の理由や説明があるはず。もし歴史的にも再現性のある事象なら、次元間移動を使って遠方に瞬間移動できることになってしまう。例えば、戦地に一瞬で軍隊を送り込めたり、昔は危険だった船旅を回避したり、その影響は計り知れないわ」


 緩く首を振りながら自分の考えを述べる彼女の冷静な声は、空気中の希望を少し薄めてしまったようだった。


「茜ちゃん、でも……」

「ごめんなさい。でも事実は事実。いくら魔法があるといっても、物理学の基本法則を無視することはできないと思うわ」


 拓人さんは黙って茜ちゃんを見つめていた。彼の目には傷ついた色があったが、同時に覚悟も見えた。


「茜、確かにお前の言う通りかもしれない。だが、俺は諦めない。どんな可能性でも追いかける」


 その言葉に、茜ちゃんは何も返せなかったようだ。そこに店長が補足を加える。


「確かに茜の言うことにも一理ある。じゃが古代魔法は物理法則そのものを捻じ曲げる力を秘めていることも事実じゃ。行先は固定されておるが、魔法の移動ポータルのような実例もある。古代魔法を勉強していた茜なら理解できるはずじゃ」

「茜ちゃん、魔法と科学は必ずしも対立するものじゃないよ。むしろ補完し合うものだよ」


 わたしが静かに言うと、彼女は少し考え込むような表情になった。


「わかったわ……私も協力するわ。でも、科学的な視点も忘れないで下さいね」


 タイミングよく忘れ物を取って優斗くんがちょうど戻ってきた。意外と早く見つかったようだ。時計を見ると、もう6時50分になっていた。


「さあ、二人は学校へ行きなさい。少し早いけど、早朝は勉強が捗るよ」


 わたしは二人を促して学校へ向かわせた。


「じゃあ、そろそろ行こうか。エリアス先生はきっと待っているよ」


 わたしの言葉に拓人さんは深く頷き、写真をポケットにしまった。


「みんな、頼む」


 拓人さんの声を聞きつつ、わたし達三人は事務所の奥へと向かった。そこには、魔法界との境界付近へと繋がる特別なポータルがある。古い本棚と壁の間にあるのは、一見すると普通のドアだ。しかし、わたしが特別な呪文を唱えると、そこは魔法界へと続く道となる。


「アペリアム・ポルタム・マジクス」


 わたしが魔法の言葉を唱えると、ドアの周りに淡い青い光が浮かび上がった。拓人さんは少し緊張した様子で、ドアを見つめている。彼は魔法界に近づくことに、今でも少し抵抗があるようだ。それでも、妹のためなら、彼は自分の恐れを乗り越える覚悟を持っている。それが伝わってくる。


「さあ、行こう」


 わたしが先頭に立ち、ドアを開けた。向こう側には、普通の倉庫ではなく、霧に包まれた森の小道が広がっていた。曲がりくねった小道の向こうに、エリアス先生の住む巨大な樫の木の住まいが見えている。そしてさらにその奥には魔法界へ通じる入り口があるはずだ。

 わたし達は一歩一歩、森の奥へと足を踏み入れていった。今日という日が、拓人さんにとって、そしてわたし達にとって、どんな意味を持つのか。期待と不安が入り混じる中、わたしは彼の横を歩き続けた。


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