「千秋さん、こちらに並んでくれるかい?」
エリアス先生の穏やかな声に応じて、わたしは拓人さんの隣に立った。店長も静かに円卓に飛び乗り、儀式の準備を見守っている。
「記憶の映し鏡は、単なる記憶ではなく、心の奥底に眠る感覚や繋がりも映し出すことができる」
エリアス先生は淡々と説明する。その声には長い年月を生きてきた魔法使いの落ち着きがあった。
「拓人くん、君は美咲さんと血の繋がりを持つ兄だ。その絆は次元をも超えて存在する。だからこそ、君の中に残る感覚を頼りに、彼女の居場所を探ることができるんだよ」
拓人さんは無言で頷いた。彼の表情には決意と緊張が入り混じっている。
「準備はいいかい?」
「はい」
拓人さんの声は小さかったが、芯があった。彼は覚悟を決めているようだ。
エリアス先生は鏡の周りに最後の印を描き終えると、わたし達に静かに頷いた。
「では始めよう。拓人くん、鏡の縁に両手を添えて、美咲さんのことを思い浮かべてほしい。特に、彼女に関する夢のことや昨日彼女の気配を強く感じた瞬間のことを」
拓人さんは深呼吸すると、ゆっくりと両手を鏡の上に伸ばした。彼の指が鏡の縁に触れた瞬間、部屋の空気が少し変わったように感じた。静電気のような、しかしもっと優しく温かいエネルギーが広がる。
鏡の表面がさざ波のように揺らぎ始める。まるで風を受けた水面のような動きだ。そして、その中心から徐々に映像が浮かび上がってきた。
最初は霧がかかったように曖昧だったが、次第にはっきりとした光景が浮かび上がってくる。それは暗く湿った石造りの空間だった。壁には見たこともない古代の文字が刻まれ、天井からは水滴が落ちている。
――これが美咲ちゃんのいる場所?
わたしは思わず身を乗り出した。鏡の表面に映る映像は、不思議なことに立体的に感じられる。まるでその場所を小さな窓から覗き込んでいるようだ。
「滴る水の音……」
拓人さんが呟いた。その声には驚きとも期待ともとれる感情が込められていた。これが彼の夢に出てきた場所なのだろう。
映像の中に、突然人影が写り込んできた。わたし達は息を呑んで見つめる。そこには一人の少女が映っていた。長い黒髪を二つに結い、制服のようなシンプルな服を着ている。彼女の年齢は13歳くらいに見えた。
「美咲……!」
拓人さんの声が震えた。10年前に失踪した妹が、いまだ13歳の姿のままで映像の中に映っている。彼女は何かを言っているようだったが、音声は聞こえない。
「なぜ……10年経っても歳を取っていないんだ?」
拓人さんの疑問に、エリアス先生が答えた。
「ふむ、次元間における時間の流れのずれだろう。次元によっては我々がいる次元と時間の流れが大きく異なる場所もある」
エリアス先生が静かに説明を続ける。
「私たちの10年は、彼女の次元ではほんの数日かもしれない。美咲さんがいる次元では、時間が非常にゆっくり流れているのかもしれないね」
彼女は周りを見回し、壁に刻まれた文字を必死に読もうとしているように見えた。
「それって……美咲は自分が10年も行方不明だったことを知らないってことですか?」
拓人さんの声には衝撃が混じっていた。
「ふむ、その可能性が高いな」
店長が静かに答えた。
「彼女が閉じ込められている次元では、時間がほとんど流れていないか、非常にゆっくりと流れているのかもしれん。あの世界は我々の知る自然法則とは異なる原理で動いておるのじゃろう」
「店長、それってどういうこと?」
わたしは好奇心に駆られて尋ねた。店長はしばらく鏡の映像を観察してから答えた。
「あの次元では、感情が直接環境に影響を与えるようじゃ。見てみろ、美咲の周りの空気が彼女の気持ちに応じて色を変えておる」
確かに、映像をよく見ると美咲ちゃんの周りの空気が微かに色を帯びて揺らめいていた。彼女が不安そうな表情をすると青みがかり、希望を感じたように見えると淡いピンク色に変化する。
「それだけではない」
エリアス先生が付け加えた。
「あの世界では言葉が実体化する特性もあるようだ。美咲さんが口にした言葉が、一瞬空中に文字として浮かび上がるのが見えるだろう?」
確かに美咲ちゃんの口から出た言葉が、かすかに光る文字となって一瞬空中に漂い、それから消えていくのが見えた。
映像の中の美咲ちゃんは、壁に刻まれた文字をじっと見つめている。彼女の表情には困惑と好奇心が入り混じっていた。長い手足、大きな瞳、そして凛とした表情。やはり兄妹だからだろうか、どこか拓人さんに似ている。
「彼女は……生きている!」
拓人さんの声が震えた。長い間、妹の生死すら分からなかった彼にとって、この映像はあまりにも衝撃的だったのだろう。
――10年間ずっと苦しんできたんだね、拓人さん。
わたしは思わず彼の肩に手を置いた。いつもは触れることすら許さない彼だが、今は抵抗する様子もなかった。彼は映像に釘付けになっていた。
「見ろ、彼女が何かを持っているぞ」
エリアス先生が指差す方向を見ると、美咲ちゃんは小さな光の玉を手のひらに載せていた。青白い光を放つそれは、まるで小さな星のようだった。
「あれは……、光の魔法の一種じゃな。ずいぶんと手慣れた動作に見える。彼女は独学で魔法を習得したのかもしれんな」
店長が驚いたように言った。美咲ちゃんには確かに魔法の才能があったのだ。それは拓人さんも知らなかったことだろう。彼女は10年間、異次元で一人生き延び、しかも魔法を使えるまでになっていた。鏡の映像の中で、美咲ちゃんは光の玉を壁に向かって放った。光は壁に当たると、古代の文字の一部を明るく照らし出した。彼女は何かを読み取ろうとしているようだ。
「壁の文字……これは古代魔法文字だ。特に『境界』と『扉』に関する記述のようだね」
彼は鏡に映る文字を解読しようと、眉を寄せた。
「『次元の扉は百年に一度の特別な満月の力が残る間だけ現れる』……と、書かれているようだ。ひょっとして、彼女は次元から脱出する方法を探しているのかもしれないね」
エリアス先生の言葉に、わたし達は顔を見合わせた。
「それって、先日の百年目の満月の事ですか?じゃあ、その力が残っているうちに!」
わたしは思わず声を上げた。以前、エリアス先生から聞いた話を思い出したのだ。
「そうだ。百年目の満月が過ぎても、その力は弱まりつつもしばらく残る。だが一定期間を過ぎると急速に薄くなってしまう。次の新月のやや手前までには完全に消え去るだろう。比較的ではあるが、次元の壁が薄い場所ではその影響力が強く残る。それでも次元をつなぐために必要な力はそんなに長く維持されない。しかし、今ならまだ私たちにはチャンスがある」
「あとどれくらい有効な効果が続くんですか?」
拓人さんが切実な表情で尋ねた。
「確実なのは、せいぜいあと3日ほどだろう。長くとも満月から7~10日程度が限度だ」
エリアス先生は窓の外を見つめた。そこには朝の光に包まれた森が広がっていた。
「急いで準備をしなければならないな。百年目の満月の力が残っている間に、次元の扉を開く儀式を行えば、美咲さんのいる次元へと到達できるかもしれない」
「本当ですか?」
拓人さんの声には、希望と切実さが溢れていた。
「ただし、正確な場所を特定する必要がある。扉を開くための場所だ」
映像はさらに続き、美咲ちゃんが部屋の隅に近づいていくのが見えた。そこには小さな祭壇のようなものがあり、その上に何かが置かれている。近づくにつれて、それが古い書物であることが分かった。
「あの本……」
拓人さんが息を呑んだ。
「あれは美咲が10年前に見つけた魔法の本だ!でも同じ本がうちにもあるぞ。どういうことだ?」
確かに、彼女の隣にあるのは古めかしい装丁の本だった。拓人さんが言うように、彼女が失踪する原因となった本なのだろう。
「光の魔法で異次元に転移したとするなら、おそらく拓人の手元にあるのは残像じゃろう。光が当たると影ができるように、強い光の魔法が照射された物体には外見が全く同じ残像が残ることがある。まるで実物のような、な」
「彼女はあの本を使って魔法を学んでいたのね」
店長が説明している間、わたしは呟いた。失踪した原因となった本を、彼女は今も大切に持っているのだ。
「でも、どうして彼女はあの場所にずっといるの?自分から出ようとしないの?」
わたしの疑問に、エリアス先生は鏡の映像をもっとよく見るように指で示した。
「壁を見てごらん。あれは古代魔法の封印だ。きっと美咲さんは封印された空間に閉じ込められているんだよ」
よく見ると、壁には複雑な魔法陣のようなものが刻まれていた。それは部屋全体を覆うように配置されている。
「誰かが彼女を意図的に閉じ込めたってことですか?」
拓人さんの声が冷たくなった。怒りが込められている。
「そう見えるね。この封印の魔法陣は非常に高度なものだ。そんじょそこらの魔法使いが作れるような代物ではない」
エリアス先生は厳しい表情になった。映像の中の美咲ちゃんは、再び壁に近づき、手で触れようとした。しかし、彼女の手が壁に触れる瞬間、青い火花が散り、彼女は手を引っ込めた。痛そうな表情を浮かべる彼女の姿に、拓人さんの表情が苦しそうに歪んだ。
「美咲……」
彼の声には深い痛みが込められていた。妹が苦しんでいるのを見て、何もできない無力感。わたしにもその気持ちが痛いほど伝わってきた。
「拓人さん、大丈夫?」
わたしは彼の肩をそっと握った。彼は少し顔を上げ、微かに頷いた。
「ああ……続けてくれ」
彼の声は震えていたが、強い意志も感じられた。彼は妹を救うという決意を新たにしているようだった。そのためにはもっと情報がいる。
鏡の映像はさらに広がり、美咲ちゃんがいる部屋の全体像が見えてきた。それは円形の空間で、天井は高くドーム状になっている。床には大きな魔法陣が描かれ、その中心には水が溜まったくぼみがあった。どうやらそれが滴る水の音の正体のようだ。
「これは……おそらく次元の監獄じゃな。古代魔法の遺物の1つで、特に悪しき者を閉じ込めるために使われた場所じゃ。しかし、なぜ彼女がそんな所に……?」
店長の声が厳かに響いた。エリアス先生も困惑したように眉を寄せた。
「彼女が何か危険なことをしたわけではないだろう。なのに、なぜこんな厳重な監獄に……?」
映像の中の美咲ちゃんは、諦めたように床に座り込んだ。彼女の表情には疲れが見えた。しかし、その目は諦めていない。彼女は何かを考えているようだった。
突然、映像の端に別の動きが見えた。黒い霧のような姿が部屋の隅から現れた。きっと影魔法使いだ。わたしたちは固唾を飲んで見守った。
影魔法使いは美咲ちゃんに近づいていったが、予想に反して攻撃的な様子はない。むしろ、彼は彼女に何かを差し出しているようだった。よく見ると、それは小さなパンのようなものだ。
「影魔法使いが美咲ちゃんに食べ物を与えてる?」
わたしは驚いて言った。
「おそらく彼女を生かしておくためじゃろう」
店長は冷静に分析して発言したが、わたしにはそうは思えなかった。影魔法使いの仕草には、どこか気遣いのようなものが感じられた。美咲ちゃんにしても恐れる様子はなく、パンを受け取っている。
「すべての影魔法使いが同じ目的を持っているわけではないのかもしれんな」
私がそれを指摘すると、店長が考えを改めるようにつぶやいた。
美咲ちゃんが突然顔を上げた。まるで何かを感じたかのように。彼女はゆっくりと立ち上がり、部屋の中央に歩み寄った。そして、わたし達がいる方向を見つめた。
「彼女が……こっちを見ている?」
わたしは息を呑んだ。彼女の視線は、まるで鏡を通してわたし達を見ているかのようだった。影魔法使いも驚いたように美咲ちゃんの方を見ている。
「これは……、繋がっているぞ……。彼女も拓人くんの存在を感じているんだ。兄妹の絆が次元を超えて繋がっている証拠だよ」
エリアス先生が驚いたように言った。その時、美咲ちゃんの唇が動いた。彼女は何かを伝えようとしている。
「どう?読み取れる?」
拓人さんが必死に彼女の唇の動きを追った。
「お……に……い……、『お兄ちゃん』。美咲は俺を呼んでいる!」
彼の声には喜びと痛みが入り混じっていた。妹が自分を認識していること、そして彼女が今も自分を頼りにしてくれていることに、彼は深く心を動かされたようだ。
わたしは思わず拓人さんの肩をぎゅっと握った。彼の表情には、これまで見たことのない柔らかさがあった。強がりの仮面の下に隠れていた、優しい兄の姿がそこにあった。
「美咲……必ず助け出すからな」
彼は小さく、しかし強い決意を込めて呟いた。
「拓人さん。あなたはマジカルエクスプレス便のドライバーでしょ?」
わたしは突然の思いつきを言葉にしてみることにした。
「ああ、それがどうした?」
拓人さんは不思議そうな顔で答えた。
「私たちは配達のプロだよ。この場合は、美咲ちゃんを『回収』して、本来あるべき場所に『配達』するミッションだと考えれば良いんじゃない?」
拓人さんの目に光が宿った。
「そうだな……これは特別配達だ。どんな困難があろうと、必ず目的地まで届ける。それがマジカルエクスプレス便のドライバーとしての俺の責務だ」
彼の声には新たな決意が感じられた。わたしは嬉しくなって頷いた。
「特別配達、承りました!マジカルエクスプレス便、絶対に届けます!絶対に美咲ちゃんを連れ戻そうね!」
わたしの決意の声が、エリアス先生の家に響き渡った。