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1-21 蝉の声

 ――程なくして、再び御宅の自宅へと戻った俺たちは、畳の上でくつろいでいた。天音が俺の頭を膝の上に乗せ、俺の白い髪の頭を撫でている。返してもらった眼鏡越しに、天音の可愛らしい顔が俺を覗いている。


「せつくん流石ですね。これで三連勝ですよ」


「ああ。〈天衡テミス〉にも慣れてきたな」


「田中氏、鈴木女史、お二方の関係性はなんなんですかな……」


 ちゃぶ台の上のカードゲームを片付けながら、御宅が呟いた。それに呼応するように天音が答える。


「私はせつくんの彼女ですよ」


「ああ。い女だろ?」


「ほう、田中氏。そういう趣味だったのですな……」


 御宅がメイド服姿の天音をじろじろと見回しながら俺に告げた。縁側から差し込む陽光が、俺たちの姿を優しく照らしていた。


「そういうわけではないんだが……まあいいか」


「これで小生も晴れて〈神威結社〉の一員というわけですな」


「俺から誘っておいてなんだが本当にいのか?この〈淡墨うすずみエリア〉――お前にとっては大事な場所だろ」


「そうですなぁ。でも二度と帰らないわけではありませんからな。それに、祖母も小生の旅立ちを見守ってくれているはずですぞ」


「そうか」


「改めてこちらからお願いしたいくらいですぞ。田中氏、小生を〈神威結社〉の仲間に入れてくだされ」


「ああ。勿論だ、よろしくな」


「感謝しますぞ!そうなると、この〈淡墨エリア〉に暮らす人々に別れの挨拶せねばならんですな」


「そうか」


「むむっ、お二方もついてくるのですぞ!」


「じゃあ同行させてもらうか。俺ももう少し見て回りたいところだ」


「お供します、せつくん」


 ――そして俺たちは御宅に同行し、〈淡墨エリア〉を回った。


「そうなのねぇ。拓生ちゃんも遂にクランに入るのねぇ」


「行ってきますぞ!」


 日本家屋の玄関で、優しそうな高齢の女性が御宅との別れを惜しんでいる。人々とのやり取りを離れて見ていると、自然と御宅が〈淡墨エリア〉に暮らす人々に愛されているのがうかがえた。どの家の窓からも、ほんのりと温かな灯が漏れており、その光は寒緋桜かんひざくらの花弁に映り込んで儚げな輝きを放っている。


「拓生兄ちゃんがんばってね!」


「頑張りますぞ!」


 〈淡墨エリア〉に広がる満開の寒緋桜は、雪の上にひらひらと花弁を落とす。その光景が、何処か愛おしく思えた。気付けば雪がしんしんと降り始め、柄シャツの肩に僅かに雪が積もっていた。


「拓生、また帰って来てくれるんだろ?」


「もちろんですぞ!たまには顔見せに戻りますぞ」


 御宅に群がる半纏はんてん姿の子供たちや温厚そうな老夫婦、若者たち。まるで御宅が家族のように愛されていることを感じさせた。


 ――俺はこんな風に、家族に愛されたことはあっただろうか。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 中学受験を「わざと」不合格した夏瀬 雪渚。結局、彼は滑り止めとして受験していた中高一貫校ちゅうこういっかんこうに入学することになる。色々考えたが、仲が良いとは決して言えない小学校の同級生たちがそのまま進学するであろう校区の中学校よりも、新しい環境のほうが楽しい学生生活を送れるのではないか、と考えたのだ。


 ――しかし、それは失策だった。中学校に入学後、彼は私室とスマートフォンを買い与えられ、塾は辞めることが出来た。だが、彼の生活が、彼の「地獄」が、改善されたわけではなかった。


 更にレベルの高い学習内容を母が教えることは難しくなり、これまでのように母がつきっきりで勉強させられることはなくなったが、代わりに私室に数台の監視カメラを設置された。トイレ以外で机から離れると母がすぐさま怒鳴り込んでくる毎日。母は中学受験の反省を活かし、一切サボることの出来ない環境下に息子を置いた。


 環境が少し変わった程度で何も改善されない。いや、むしろ悪化した彼の「地獄」はその後、大学進学までの六年間続くことになる――――――。


 監視カメラの設置された私室で勉強を強いられる六年間。夏瀬 雪渚――彼が入学した中学校は中高一貫校ちゅうこういっかんこうであったため、高校受験を受けずにそのままエスカレーター式に高校へ入学出来る。高校受験の必要はなかった。


 この頃には彼は、小学生のときに母親から受けたものは、「愛」ではなく「教育虐待」だと理解していた。当時は「毒親どくおや」なんて言葉も存在しなかったし、当時の幼い彼にはそれが虐待だとは思いもつかなかったのだ。


 しかし、彼は中学生になり、高校受験よりもはるかに厳しい勉強量を母からいられた。当然と言えば当然であるが、私立の中学校に入学し、小学校に比べ、途端に生徒のレベルの上がった中学校。母の志望校とは異なったが、それでも国内で五本の指に数えられる超進学校だ。母は定期試験の結果を特に厳しく重視していた。


 中学一年生の一学期、初めての定期試験である中間試験は、これまでの貯金もあり、全科目満点で大差をつけて学年一位をることが出来た。


 ――しかし、中学一年生の二学期、期末試験。連日の無理がたたり、試験当日に体調を崩してしまった彼は、ここで初めて全科目満点を逃した。しかし、それでも結果は、一問のみ失点しての学年一位。学年二位の男子生徒とは、総合点に二十点近くの差があった。


 しかしながら、その成績表を受け取った日の帰りは、酷く憂鬱ゆううつだった。母が発する言葉なんて容易に想像し得るからだ。重々しく玄関の扉を開けると、成績表を待ちびた様子の母が直ぐに出迎える。


「雪渚ちゃんおかえり。で、成績表は?そろそろでしょ?」


「…………これ」


 無愛想ぶあいそうに成績表を母に手渡すと、それを見た母の表情がみるみると怒りに変わる。


「……なんで満点じゃないの?」


「……いや、一位だし……」


「他の子と比べても仕方ないでしょ!?よそはよそ、うちはうちっていつも言っているじゃない!」


「……ごめん……なさい」


「あんたの所為せいで胃が痛いわ!私が死んだらあんたの所為だからね!」


 いつも通り、親の顔より見たヒステリックを起こす母。結果、僅かながらに思い出の詰まったゲーム機を母によって真っ二つに折られ、スマートフォンを浴槽に沈め、壊された。


 お前の所為で体調を崩したからだろ、と反駁はんばくすることは出来ただろう。ただ、彼がそれ以上反論することで、母が更に激昂げっこうするのは目に見えていた。


 それ以来、彼は学年一位、かつ全科目満点の成績を維持し続けた。私物を無遠慮むえんりょに壊されるということに、途轍とてつもない恐怖を感じたのだ。


「よーし、じゃあ次、一九七〇年、大阪府の吹田市すいたしで開催された日本万国博覧会にほんばんこくはくらんかいにおいて展示された塔の名前――この問題。解ける奴いるか?」


「はいはーい!」


 クラスの担任による日本史の授業。教員の問いにクラス内でも人気のある、サッカー部の男子が元気よく手を挙げる。


「お、高橋。答えてみろ」


「スカイツリー!」


「ははは、高橋。全くお前は……」


「「ハハハ!!!高橋おもろすぎだろー!!!」」


「「また赤点取るぞー!!!」」


 爆笑の渦に包まれる教室。


「……つまんな。大喜利の一個目じゃねえか」


 教室の窓側、最後列に座る夏瀬 雪渚――彼は、クラスの面白くない雰囲気に辟易へきえきしていた。結局は中高一貫の超進学校とは言っても、彼にとっては酷くつまらないものだった。隣の席の女子生徒にも聞こえない程度の声量で、そうぼそっとつぶやき、窓から見えるグラウンドをながめているだけの退屈な日々が過ぎてゆく。


 彼はひそかに計画していた。高校卒業まで、母に一切のすきを見せない。成績は落とさず、日本国内最高偏差値の大学――東慶大学とうけいだいがくへ合格する。そして母に、この子は大丈夫だ、と思わせる。そうすれば大学は県外だ、絶対に追っては来ない。


 ――そして高三、彼は不登校となった。陰湿ないじめに遭っていたわけではない。周囲のクラスメイトが毎朝早くから登校し、自習に励む一方、彼だけはほとんど学校に姿を現さなかった。卒業要件の単位を満たすためだけに時々登校しては、クラスメイトを驚かせた。


「えー、じゃあこの問題。今日は五日だから……出席番号五番の岡田」


「はい。Xが二十分の一、Yが三十分の一です」


「正解だ」


 中学までの何処か緩い雰囲気とは異なり、大学受験が目前に迫ったことで、おごそかな雰囲気が教室内を満たしていた。シャーペンをカリカリと走らせる音と教師の板書の音だけが響く。そんな中、彼は、突然荷物をまとめ、席を立った。


「――お、おい夏瀬!何処に行くんだ!」


 呼び止める教師の声に振り向きもせず、彼は教室の扉を開けた。


「つまんねーんで図書館行きますわ」


「…………っ!」


 その圧に静まる教室内。クラスメイトどころか、進学校の教員すら、誰も彼に異を唱えることはできなかった。彼は全国模試でも、常に全科目満点――文句なしの全国一位だったのだから。


「……授業を続けるぞ」


 ――そして六年後。最終的に彼は独学で、日本国内最高偏差値の大学――東慶大学、その中でも最高難度と呼ばれる医学部へと見事次席で、かつ現役で合格することとなる。


 一次試験の共通テストでは脅威の全科目満点、二次試験では国語の「親孝行」を題材にした小説の文章題でのみ、全く理解ができずに失点したが、それはかくとして、親から逃げることをモチベーションとし、彼は見事に合格を勝ち取ったのである。


 母がいつしか言っていた「絶対に私に感謝する日が来る」、という台詞せりふ。日本国内最高偏差値の大学へ次席での合格を果たしても、彼は到底そう思うことは出来なかった。勉強が出来る環境にあることが恵まれているなんてことは頭で理解していた。しかし、それでも彼は、結局最後まで母を許すことは出来なかった。彼が受けた精神的苦痛は、尋常じんじょうではなかった。


 恐らく、勉強なんてしなくても彼は合格していた。実際どうなのかは並行時間軸、パラレルワールド――勉強をせずに東慶大学医学部へと挑んだ世界線の彼にでも尋ねてみないとわからないが、まあ受かっていただろうという確信が彼にはあった。とどのつまり彼は、親に支配された、無駄な九年間を過ごしてしまったのだ。


 ――そしてその年の三月末。迎えた引っ越しの日。


「じゃあ雪渚ちゃん、大学でも勉強頑張ってね。たまには帰って来るのよ」


勿論もちろんだよ母さん。じゃあ、行ってくるね」


 彼は母に爽やかに微笑み、スーツケースを片手に玄関の扉を開けた。この瞬間が、彼と彼の母が言葉を交わした最後の瞬間であった。


 このときの彼に、実家に帰る気等あるはずもなかった。空港への道中、両親の連絡先をブロックし、両親と実家の固定電話の電話番号を着信拒否に設定し、彼の楽しい大学生活は始まった。


 親の目が届かない自由に、これ以上ない至福しふくの喜びを感じながら、彼は大学生活を謳歌おうかしようと決めた。気分を一新し、髪を真っ白に染め、遅くなったが、大学からきちんと人生をやり直そうと決めたのだった。


 ――そして大学一年生、入学直後のある春の日、彼の人生は一変する。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「雪渚、この後暇?図書館でレポート一緒にやんね?」


 大学の講義終わりの賑やかな教室で俺をそう誘うのは、端正たんせいな顔立ちにスマートな印象の眼鏡を掛けた黒髪の青年、五六ふのぼり 一二三ひふみ


 彼は遊びで受けた海外の有名大学の合格をって、この日本国内最高偏差値の大学に、毎日一冊の読書だけで首席での合格を果たした本物の天才であった。しかし、それでもこの成績至上の大学では、入学時の成績が極めて近いこともあり、自然と馬が合った。


「おう一二三。そうするか」


 大学に入学すると、流石日本最高の頭脳が集まる日本トップの大学と言うべきか、非常にレベルの高い学徒がくとに囲まれた。高校までとは明らかにレベルが違う。大学の学徒たちとも話がよく合った。


 ――折角せっかく合格したし大学内での付き合いも色々あるだろう。頑張り過ぎる必要はない。


 そう考えた俺は、大学の講義には真面目に出席し、学業にも取り組んだ。


 大学の講義はハイレベルだったが、高校までの地獄を考えると余程楽だった。確かに講義は難解だが、俺ならば十分ついていけるレペル。余暇よかは大学の友人らと、輝かしいキャンパスライフを満喫まんきつした。


 しかし、その時間は長くは続かなかった。特に何か理由があったわけではない。これまでの反動なのか、徐々に、徐々に大学に行くのが億劫おっくうになっていった。ふと、緊張の糸が切れたかのように。


 ――眠い。もう朝か……。一限……は今日くらいいか。もう少し眠ろう。


 その怠惰たいだは日を重ねる毎に酷くなる。一限目の講義を欠席し、午後から大学に顔を出すことが増えた。しかし、やがてそれすらもしなくなり、次第に大学から足が遠のいていった。


 母からの毎月の生活費の振込――その銀行口座のアプリの通知だけがむなしく部屋に響いた。両親の連絡先をブロックした俺にとって、月に一度の仕送りの振込通知だけが、母との唯一の接点となっていた。


『――ああ、出た。もしもし雪渚』


「あー、一二三か……」


『雪渚どうしたんだよ。今日も大学来ないのか?みんな待ってるぞ』


「あーわりー。気分じゃねえわ」


 親友の一二三は俺を心配して定期的に連絡をくれたが、その電話に出るのすら徐々に億劫になっていった。


 唯一ゆいいつ属していたコミュニティであった大学すらみずから手放し、残ったのは手に余るほどの時間と自由だった。その心地良さにおぼれ、遊びに明け暮れた。酒に女に煙草、ギャンブル、ゲームにスポーツ……それまで遊びを知らなかった俺は、うしなった青春を取り戻すかのように、考えられる遊びの限りを尽くした。


 ふと初めて足を踏み入れたパチンコ店。そこで味わった快感は十八年の人生で一度も経験したことがないものだった。大当たりの音と光、興奮で震える指先、胸の高鳴り。勉強という重圧から開放された俺は、まるで別人のように変わっていった。光と音に満ちた空間で、俺は自分を見失っていった。機械の鳴る音が頭の中で響き、玉の転がる音が耳を満たしていく。その音は、かつて聞いた母の金切り声を少しずつ消していった。


 ――ある真夏の日。明け方まで過ごしたナイトクラブを後にし、太陽が燦々さんさんと照りつける街中、ふとスマホを開くと、ホーム画面に並んだ沢山たくさんの通知が目に止まった。


「不在着信が八件も……?全部同じ番号……何だこの番号……」


 見知らぬ番号をコピーし、検索エンジンの検索窓けんさくまどにペーストする。表示されたのは――。


「警察署……?なんで?」


 電話のアプリを開き、通話履歴からその番号をタップする。すると、男性の声が画面越しに聞こえた。


『――はい、白菊しらぎく警察署です』


「……あ、すみません。先程お電話をいただいておりました夏瀬 雪渚と申します。折り返しのご連絡になるんですが……」


『ああ、夏瀬さんですね。折り返しのご連絡ありがとうございます。こちら、白菊警察署の竹田と申します。実は……お父様とお母様の件でお話がございましてご連絡を差し上げました』


「え……両親がどうかしましたか?」


 ――永遠にも感じるほどの沈黙。何か、何か嫌な予感がする。せみの声が、やけに五月蝿うるさかった。


『……大変申し上げにくいのですが、先程お二人が交通事故に遭われまして、その、残念ながらお亡くなりになりました』


「……え、本当ですか……?」


『はい……。心苦しいお話ではございますが、事故現場にいた者が確認しております。詳細についてはお伝えしなければならないことが多いため、可能であれば一度署までお越しいただけますでしょうか?』


「……ぐにうかがいます」


『ありがとうございます。それでは、白菊警察署の生活安全課にお越しください。受付で私、竹田の名前をお伝えいただければ、案内いたします』


「かしこまりました……」


『では失礼いたします』


 ツー、ツーと、通話終了を知らせる無機質な音が夏の街にむなしく響き渡る。


「ははっ……」


 夏の街中で、俺は絶望に打ちひしがれた。両親の突然の訃報ふほう。若くして天涯孤独けんがいこどくの身となってしまった。突然の訃報は、真夏の陽射しの中で、不条理な現実として俺の前に立ちはだかった。


「ざまあ……みやがれ……」


 口に出した言葉とは裏腹に、目から大粒の雫が、熱気を帯びたアスファルトに落ちる。


 ――いつか両親とのわだかまりは時間が解決してくれるのだろうと考えていた。だが、もうそのときは来ない。


 天をあおぐ。その日の空は、いつもより青く、残酷なほどに美しかった。蝉の鳴き声が耳を刺すように響いていた。

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