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第6話 キッチンカー

 大学とは道を挟んだ向かいの敷地に、小さな公園がある。

 公園は小さいのに、大きな桜の木が一本、立っている。

 四月も中旬になり、ほとんど葉桜になってしまった木の下にキッチンカーが店を出していた。

 車の前に置かれた看板には、おにぎりのメニューが並んでいる。


「先生、おにぎり好きでしょ? いつか誘おうって思ってたんですよね」


 感動した心持でメニューを眺める理玖を晴翔が振り返った。

 理玖の顔を見て、晴翔が吹き出した。


「誘って良かった。めっちゃ嬉しそうな顔してる」


 思わず自分の顔を手で触ってしまった。

 自分が今、どんな顔をしているのか、わからない。

 恥ずかしくて、ちょっとだけ耳が熱い。


 注文してから握るので少し時間がかかるらしい。

 一緒に注文したホットドリンクを飲みながら待つことにした。

 桜の木の下のベンチに座って、ホット烏龍茶の:蓋(リッド)を開ける。

 猫舌な理玖は、リッドの小さな飲み口から飲むのが苦手だ。

 懸命にフーフーする理玖を晴翔が楽しそうに眺めていた。


「あんまり見られると、恥ずかしいよ」


 ばつが悪い気持ちで、じっとりと晴翔に目線を向ける。


「だって先生、可愛いから。見ていると飽きないというか。ずっと見ていたいというか」


 照れた顔で晴翔をちらりと眺める。

 人付き合いが苦手な理玖だが、晴翔を始めとする大学の事務員とはきっかけがあって交流ができた。そのせいか、事務員たちには時々、そういった形容をされる。


「僕を可愛いなんて言うのは、事務の皆さんだけだよ。可愛げがない、なら色んな場所で何度も言われているけど」


 愛想もなくお世辞も言わない有能な学者は、年上の学者からは疎まれる。

 せめて持ち上げる言葉の一つも言えればいいのかもしれないが、全身がむず痒くなる。


「見る目がない人が多くて良かったです。向井先生の可愛さは、俺だけが知っていればいいので。事務の皆にバレっちゃったのも、ちょっと悔しいんですよ」


 ニコニコする晴翔を、理玖は両眼をひん剥いて見詰めた。


(最近の晴翔君は、時々、変なコトを言う。何となく、僕に好意的な表現を……)


 そこまで考えて、理玖は首をぶんぶん振った。


(違う、きっと違う。そんなわけない。僕が自分に都合よく解釈しているだけだ。深い意味はない。きっとない。小動物レベルの話だ。身長が低いからとか、そんな感じだ)


 事務員の中でも晴翔の次に交流がある伊藤にも時々、可愛いと言われているが、ペット的な感覚だと理解している。晴翔の言葉も同じなんだろう。

 自分に言い聞かせて、うんうん頷く。


「あ、先生。おにぎり、できたそうですよ」


 他に客がいないせいか、店員さんがベンチまで持ってきてくれた。

 昼時を過ぎている時間だから客が少ないのか。公園の高い塀に隠れてキッチンカーが見えないせいなのか。いずれにしても勿体ない。

 二人分のおにぎりを受け取って、晴翔が二人の間に置いた。


「今日は暖かいし、先生が嫌じゃなかったら、ここで一緒に食べていきませんか?」

「うん、そうだね。この場所は、気持ちがいい」


 緩い風が温かくて、空気が澄んで、隣に晴翔がいる。

 そんな場所で食事ができるなんて、理玖にとっては何とも贅沢だ。

 シソが巻かれた焼きおにぎりを頬張ると、一口目で感動した。

 焼きおにぎりの中に混ぜ込まれている刻み梅とジャコが噛むほどに香ばしく味を増して、とても美味しい。


「うわ、美味! この高菜明太ヤバイ。先生の弁当と同じくらい美味い。先生の焼きおにぎりは……、美味しいんですね」


 理玖の顔を見た晴翔が納得したように笑う。

 もぐもぐしながら理玖は何度も頷いた。


「只の焼きおにぎりじゃなかった! 混ぜ込んであるシソが香ばしいし、刻み梅とジャコの歯ごたえもいい。このおにぎり作った人、天才だ……」


 感動のあまり、おにぎりを胸に抱く。

 晴翔が嬉しそうに自分のおにぎりを食べた。


「先生って、日本の食べ物が好きですよね。留学先の食事とか、懐かしくなったりしないんですか?」


 十五歳から二十二歳までをロンドンで過ごした理玖にとって、懐かしくないわけでもないが。


「ロンドンの食事も嫌ではなかったけど。僕が日本に帰ってきた最たるは食事だから。食べ物が合わないと、長く住むのも限界があるって思うよ」


 むしろ味噌汁が恋しくなった。

 一度、帰ってきてしまうと、また海外に行こうとはあまり考えない。


「食かぁ。やっぱ大事なんですね」


 確認するように晴翔が呟いた。


「海外に行くなら食事が合う場所がいいよ。短期で遊びに行くなら、別だけど」


 晴翔はまだ若い。留学しようと思えばいくらでも、どこにでも行ける。


(けどそうなったら、大学は辞めちゃうのかな。僕の癒しがいなくなっちゃうな)


 そう考えると、悲しい。


「今の所、海外旅行も留学も考えてないけど。食事って、人の相性でも大事かなって」


 顔を上げると、晴翔の手が伸びてきた。

 理玖の口元に付いた米粒を摘まんで、食べた。


「向井先生とは食の好みが合うから嬉しいなって思って。今度また、飯行きません? 先生が好きな味噌ラーメンが美味しい店、見付けたんです」


 晴翔の行動に呆気にとられた理玖は、そのまま固まって動けなかった。


(何、してるの、この子。え? これは夢かな?)


 晴翔と二人で、誰にも邪魔されずにランチできて。しかも晴翔はいつも言わないような甘い台詞を吐いて、触れないような場所に触れてくる。

 理玖に都合の良い優しさを振りまいてくる。


「……最近の、空咲君は、いつもと違う、よ? どうしちゃった、の?」


 カクカクした言葉で、思わず聞いてしまった。

 思えば四月に入った頃から、晴翔からのスキンシップが増えた気がする。

 今日は特に距離感が近い。

 晴翔が不思議そうな顔で首を傾げた。


「俺はいつも通りですよ。いつもより言葉のニュアンスを素直にしてるだけ。そうじゃないと、気が付いてもらえないまま、誰かに持っていかれちゃいそうだから」


 それはどういう意味かと尋ねる前に、晴翔が理玖の前にもう一つのおにぎりを差し出した。


「すじこスペシャルむすび、まだ残ってますよ。こっちも楽しみにしてたでしょ」


 目の前に差し出されたおにぎりのせいで、理玖は言葉を飲み込んだ。

 受け取って、黙々と食べる。

 同じように二個目のおにぎりを食べ始めた晴翔をちらちらと伺いながら、米を食んだ。


 どう解釈すればいいのか、わからない晴翔の言葉が気になり過ぎて、ワクワクしていたすじこスペシャルの味は、ほとんどわからなかった。

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