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第7話 シャツ越しの熱

 幸せなランチを終えて、フワフワした気持ちのまま理玖は自分の研究室に戻った。

 晴翔とは大学受付窓口で別れた。

 事務員である晴翔の本来の仕事は受付業務だ。

 持ち回りで講師や教授たちの雑用をしてくれている。本来の業務ではないし、事務員からしたら面倒な仕事だろうと思う。

 理玖に関しては、昨年赴任以来、ずっと晴翔が面倒を見てくれているから助かっている。


(あの言葉、どういう意味だったんだろう。深い意味は、ないんだろうけど)


 考えようとすると、胸が痛む。

 もし、都合よく解釈して、間違っていたらと思うと、怖い。


(百歩譲って、晴翔君が僕に好意を持ってくれていたとしても、僕がonlyだと知ったら、きっと遠くに行ってしまうんだろうな)


 onlyは、その希少性や有能さから国に重宝されているが、その実、社会性でいえば扱いは弱者だ。特定のotherでなければ妊娠できないonlyは、結婚できない場合も多い。生涯独身で過ごすonlyは少なくない。


 onlyがレイプされた報道を見ても「気の毒だが仕方がない」という感覚が暗黙の裡に社会通念化している。理由はonlyが性玩具として都合よく扱われる事実があるからだ。


 発情したonlyはotherの快楽を煽る。故に、頗る気持ちの良いセックスができる。

 精子を搾り取ろうとする本能が強いから、相手に快楽を与えようと体が変化する。onlyは床上手というのは、悲しい事実だ。フェロモンがなくても、行為だけでも充分快楽を得られるので、onlyをセフレにしたがるnormalもいるほどだ。

 onlyを集めて無理に働かせる風俗店が摘発されるなど、珍しくもないニュースだ。


 世の中を普通に生きるnormalなら、事件性を秘めた存在であるonlyには近付きたがらないだろう。otherだったとしても、面倒事を嫌うならnormalを選ぶか、国が運営するWO結婚斡旋所を利用するのが安全だ。


(生涯を共に生きるための相性ピッタリの相手を見つけるためにフェロモンを出して、子をもうけるために相手の快楽を煽るのに。今の所、総てが悪い方にしか役立っていないのがonlyの生態なんだよな)


 だからこそ幸せになれない性なのかもしれない。

 生涯を共に生きたいと思えるような運命の相手なんて、それこそ物語でもなければ、そう見付かるものではないだろう。


(現実は物語じゃない。巧くいく方が、確率は低くて当然だ)


 onlyの不遇さには溜息しか出ない。

 そんな気持ちで研究室のドアを開けた理玖は、目を疑った。


 机の上に、忘れたはずの弁当箱が広がっている。

 しかも、中身がない。


 震える足で、机に近付く。

 捨てたというより食べた形跡が残る弁当箱の横に、メモが置いてあった。


『ご馳走様でした。先生の手作り弁当、美味しかったです』


 どくりと心臓が下がって、理玖は机から離れた。


「何、これ……」


 誰かが弁当を盗んで、食べた後に戻したのだろうか。

 理玖が自分で弁当を作っている事実も知っているような書き方だ。


 どうしたらいいかわからずに震える理玖に、後ろから声が掛かった。


「向井先生、事務の伊藤さんが、先生に御礼って、いつもの大福を預かって……」


 晴翔の声に、救いを求めるような気持ちで振り返る。

 理玖の様子がおかしいと気が付いたのか、晴翔が駆け寄った。

 机の惨状を見付けて、晴翔が顔を顰めた。


「先生、今日は弁当忘れたって、言ってましたよね」


 理玖は何度も頷いた。


「鞄に入ってなくて、忘れたんだと思った。誰が、こんな……」


 怖くて言葉にならない。

 震える理玖の肩を抱き寄せて、晴翔が支えてくれた。


「誰かに自分から渡したわけでも、ない?」


 晴翔の問いかけに、小さく何度も頷く。


「とりあえず、食べたのは事務の伊藤さんです。先生の鞄から弁当を抜いて、ここに戻したのは別の誰か、なんだと思います」


 ゆっくり晴翔を見上げる。

 晴翔の顔がよく見えなくて、自分が涙目になっていると気が付いた。


「なんで、晴翔君がそんなこと、知ってるの?」


 理玖の肩を支える晴翔の指が、ピクリと跳ねた。

 晴翔が兎の形をした大福を見せてくれた。


「これ、伊藤さんから預かりました。向井先生の弁当バックにいつもの御礼、入れ忘れたからって」


 兎大福をぼんやり眺める。

 いつも伊藤がくれる、見慣れた兎大福だ。


「弁当は知らない学生が持ってきたって言ってました。先生から伊藤さん宛に預かったって言われたらしいです。食べ終わった後も同じ学生が取りに来たって。最初は俺を探していたみたいで、伊藤さんは俺の知り合いだと思ったみたいです」


 その説明は、頷けた。

 新入生が入ったばかりの四月なら、事務員が把握できていない学生がいても、おかしくはない。普段から学生と親交がある晴翔なら、既に新入生と知り合いでも不思議はない。

 理玖は伊藤と時々、弁当を交換しているから、抵抗もなかったんだろう。


「今日は弁当忘れたって、向井先生話してたから、変だなと思って。ちょうど伊藤さんから大福預かったし、様子見に来たんですけど。来てみて良かった」


 理玖の肩を抱く晴翔の手に力が籠って、思わず胸に凭れかかった。

 抱きしめられるような姿勢になっていると気が付いて、心臓の鼓動が激しくなった。


(こ……、こんなに近づいたら、フェロモンいっぱい出ちゃう。抑制剤じゃ、抑えられない)


 onlyのSAフェロモンは気持ちの昂りで放出量が増える。

 放出しすぎるとフェロモンに飲まれて自分まで興奮する場合がある。


(どうしよう、どうしよう。あ、でも晴翔君はnormalだから、とりあえずは大丈夫だ。僕が理性を保っていれば、問題ない)


 相手がotherだったら、阻害薬を飲んでいてもonlyの大量のフェロモンが作用しかねない。


(とにかく、離れなきゃ。これ以上、フェロモンの放出量が増えない内に早く、離れないといけないのに。気持ち良くて、離れられない)


 シャツ越しに感じる晴翔の肌の熱が心地良い。

 ちょっとだけ頬擦りしたら余計に気持ち善くなって、理玖は晴翔に自分からくっ付いた。


(こんなに晴翔君に近付いたのは、初めてだ。この一年、触れたことすら、なかったのに)


 触れたくても触れられなかった、欲しかった熱。

 晴翔の甘い熱で、理玖の思考が少しずつ溶ける。


「一先ず、伊藤さんに弁当を渡した学生を探してみます。窃盗で警察に通報しますか? ……先生?」


 何となく呼ばれた気がして顔を上げる。

 理玖の顔を見詰めた晴翔が息を飲んだ。

 晴翔の両腕が理玖の背中に回る。思いっきり抱きしめられた。


(あれ……? 晴翔君が抱き締めて、くれてる? 腕の力、強い。手、大きい)


 理玖の肩を掴む晴翔の手の力が強くて心地よくて、身を委ねた。


「下の名前で呼んだり、くっ付いてきたり、今日の先生、デレすぎ……」


 耳元で囁く晴翔の声に吐息が混ざって肌に触れる。

 それだけで、体から力が抜けた。

 理玖の体を支える晴翔の腕に力が入る。締め付ける腕が気持ちいい。

 耳元で晴翔の喉が鳴った。


「……ベッド、連れていきますよ。いいですよね」


 理玖は、こくりと頷いた。

 理玖の研究室は個人使用で、仮眠が取れるようベッドが備え付けられていた。

 晴翔が理玖を抱き上げて隣の部屋のベッドに運ぶ。


(御姫様抱っこ、されてる。初めて会った時以来だ。あの時は、何とも思わなかったのに。今は嬉しい。もっと晴翔君に触れたい)


 ぼんやりしたまま理玖は晴翔の首に顔を寄せた。


(晴翔君の心拍が速い。怒ってるのかな。お弁当の窃盗犯に? それとも、僕に?)


 ベッドまで運ばせるような手間を掛ける理玖に怒っているのだろうか。

 そもそも、自分は何故、晴翔に抱き上げられているのだろう。

 思考が回らなくて、状況がうまく把握できない。


「ん、ぁ……」


 ベッドに降ろされた弾みで声が出た。

 指先が晴翔の腕に触れているだけで、気持ちがいい。

 理玖の上に晴翔が覆いかぶさった。


「声まで、可愛い……。ずっと我慢、してたのに。無理だよ、先生……」


 見上げた晴翔の顔が、辛そうに歪んでいる。

 耐えるような表情を見ていたくなくて、手を伸ばした。

 理玖の手を摑まえて、晴翔の顔が寄った。


(あ、キス、しそう……)


 吐息が掛かるほど間近に晴翔の顔が迫った。

 花の蜜のような甘い香りが鼻腔を擽る。 

 濡れる唇に自分から吸い付いてしまいそうだった。


(この匂い、どこかで嗅いだことがある気がする)


 晴翔の震える手が自分の耳のピアスに触れる。

 ピアスを押すような仕草を、理玖はぼんやり眺めていた。


(左耳にだけ、たくさんピアスしているの、何でだろう。出会った時から、ずっとだ)


 何となく、晴翔には似合わない気がしていた。

 いつか理由を聞いてみたいと思っていた。

 ぎゅっと目を瞑ると、晴翔が大きく息を吸い込んだ。唇に触れていた熱い息が離れた。


「学生は俺が探してみます。部屋は施錠しておきますから、先生は休んでください。何かあったら、内線でもメッセでもください」


 早口で言うだけ言うと、晴翔は振り返らずに部屋を出ていった。

 出ていった扉を、ぼんやりと眺める。


(何か、言ってたけど、よくわからなかった。あとで聞いてみよう。晴翔君はどうして、辛そうな顔、してたのかな)


 理玖を見詰める晴翔の顔が、何かに耐えるように痛そうに歪んでいたのが気になった。

 盗まれた弁当より晴翔の顔の方が気掛かりだった。

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