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第8話 空咲晴翔の苦悩

 理玖の研究室を飛び出した晴翔は、近くにあった資料倉庫に逃げ込んだ。

 鍵をかけて部屋の奥に向かう。


「はっ、はぁ……、はぁ」


 頭がくらくらして足元もおぼつかない。

 ピアスを耳に押し付けながら、飛びそうな意識を、なんとか保った。


 一番奥の窓際の壁に、へたり込んで背中を預けた。

 さっきの理玖を思い出すだけで、股間が反応してしまう。


「勃ちすぎて、痛ぇ……」


 それでなくても既にフェロモンでぎちぎちに勃起している。

 更に反応しないように抑え込んだ。


「可愛い、ヤバい、あんなの狡い。普段は塩対応なのに甘えると可愛いとか。声も仕草も顔も全部可愛いから!」


 突然、下の名前で呼んだかと思ったら、自分から晴翔に身を寄せて、顔を擦り付けて、体をくっ付けて。まるで甘えるような仕草を甘えた顔でされたら、耐えられない。


(スリスリってしてピタってくっつく仕草、めっちゃ可愛かった。リスみたいだった。俺を見上げた顔だって)


 蕩けた顔がキスを催促しているようで、吸い付いてしまいそうだった。

 頭を何度も振って、大きく息を吸い込む。何とか呼吸を整えた。

 自分の胸に手を当てる。


(手も体も、熱い。心臓、まだ早い。意識、保てて、良かった)


 抱きしめた腕の中で晴翔を見上げた理玖の顔が頭から離れない。

 何より、花の蜜のように甘く薫るフェロモンが、普段の比ではなかった。


(やっぱり理玖さんはonlyなんだ。触れるようになった途端にビックリするくらいフェロモンが増えた)


 この一年、理玖に直に触れるのは、極力避けてきた。そのせいか、理玖からフェロモンを感じなかった。恐らく、阻害薬の効果の範疇で対応できていたんだろう。理玖自身も抑制剤を飲んでいたはずだから余計だ。


(一年前の、初めて会った日に御姫様抱っこした時は、フェロモンなんか感じなかった。あんなにがっつり抱きあげたのに)


 だから、理玖がonlyであると確信が持てなかった。薬の効果で感じないだけなのか、そもそもフェロモンを放出していないのかが、判断できなかった。

 しかし二回目の今は、これだけ体が反応している。理玖がonlyなのは確定だ。


(しかもフェロモン量が多くて特殊な、希少種の可能性が高い。噂は本当だったんだ。あんなの、薬じゃどうにもできない)


 耳のピアスに触れる。

 即効性の抑制剤を仕込んだピアスはボタン式の皮下注射で内服薬より早く効果が出る。

 さっきは、それでもギリギリだった。

 もう少しで欲情に任せて理玖を襲ってしまうところだった。


 強く噛んだ唇から、何とも言えない息を吐いた。


「WOの世界的権威で、特別なonlyか。そりゃ、みんな欲しがるよな……」


 顔を上げてぼんやりと、今まで見てきた理玖を思い返す。

 普段の理玖は、お世辞にも愛想がいいとは言えない。

 口数も少ないし、表情が乏しくて、笑いもしない。

 けれど、晴翔しか知らない理玖の顔を、たくさん知っている。


(俺といる時の理玖さんは、美味しいもの食べて感動して、可愛い物を見て嬉しそうにして、俺と話すと笑う人だ。可愛い人だ)


 晴翔はまた唇を噛んで、俯いた。

 わざわざ慶愛大学に就職して、理玖に近付いた経緯には理由がある。

 それを話したら、理玖はどんな顔をするだろう。

 今更、怖くて話せない。


(こんなに好きになるなんて、思ってなかった。どんな人か知れたら、それで良かったのに。俺の目的を知ったら、理玖さんは軽蔑するかな。嫌われたくないな)


 それどころか、理玖を誰にも渡したくない。

 晴翔は大きく息を吐いた。


「いっそ俺のonlyにしちゃいてぇ……。俺だけの理玖さんに、なってくれないかな」


 理玖ほどの有名人で実力者が、自分程度の人間を選んでくれるとは思えない。

 最近は表情を出すようになったとはいえ、仲の良い職場の同僚レベルなのは感じ取れる。

 敢えて触れる機会を増やしたり、鈍い理玖に明確に好意を伝えるようにしてみたが、驚かれているだけだ。


(フェロモンは急激に増えたけど、肌の接触だけでも本能でフェロモン出すonlyもいるっていうし。気分や体調でも変わるって聞くし。俺のことが好きで放出したとは言えないよな)


 考えれば考えるほど、気持ちが沈んでいく。

 何より一番の気掛かりは。


(俺がotherだって知ったら、理玖さんは怖がるかな。やっぱり、嫌われるのかな)


 otherの社会的な評価は、レイプ犯、色狂い、性の獣。まるで犯罪者のような扱いだ。

 弱者扱いされるonlyより質の悪い生き物扱いされる。

 レイプ対象になり易いonlyが襲う側のotherに怯えるのは当然の反応だ。

 晴翔がotherだと知って、理玖がどんな顔をするのか。怖くて想像すらできない。


 onlyがSMホルモンを放出できる「spouse障害の伴侶」になり得るotherでない限り、otherはonlyにとって警戒すべき性敵だ。


(理玖さんのspouseに選んでもらえるとか、有り得な過ぎて希望すら見出せない)


 晴翔はまた項垂れた。


「……やっぱり、俺なんかが、好きになっちゃ、いけない人だ」


 特別な存在である理玖に、自分なんかじゃ釣り合わない。

 otherである以外、凡庸極まりない自分には、理玖と釣り合う要素がない。

 そう自分に言い聞かせても、自覚した想いは簡単に消えてくれそうにない。


(いつまで、側に居られるだろう。今の関係は、ずっとは続かない)


 せめて側に居られる間は今のままで、心地よい関係のままでいられるように。

 最後に嫌われてサヨナラになったとしても、今だけは今のままで。

 そう願って、目を閉じた。

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